2冊の『「いき」の構造』解説”まえがき”から考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
九鬼周造「いきの構造」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2014/01/23
- メディア: Kindle版
編者まえがき
『「いき」の構造』の現代語訳にあたって
から抜粋
「いき」と聞いて、どんな印象が思い浮かぶでしょうか。
歌舞伎や新派、人情芝居などではなじみがあっても、実際には見かけなくなってしまった昔の情景にも思われるものですが、形を変えれば、まだ私たちの身の回りにも、こんな姿で生き続けているのかもしれません。
洗いざらしのジーンズで素足の女性が何気なく髪をかきあげる仕草。
夜更けのビルの地下から低く流れてくるジャズピアノの音。
あるいは、ふだん鬼のように厳しい上司が、恋人を残して遠方に赴任する部下にさりげなく特別休暇をはからってやる。
こうした情景やふるまいを今ではさしずめ「おしゃれ」とか「クール」とでもよぶのかもしれません。
「いき」は、いわば日本人のDNAの一要素として時代を超えて受け継がれてきているものであり、無意識のうちに私たちの暮らし、生き方を律するリズムとなっているのではないでしょうか。
このように「いき」はさまざまな姿で私たちの周囲に息づいてきたものでありながら、それが厳密にはどういう性質のものであり、どういう働きをするものなのか、どれだけ私たちの暮らしにかかわっているのかということは、必ずしも、明らかにされてきたとはいえませんでした。
たとえば仏教教理とか、武士道倫理とかいうような事柄については盛んに論じられてきたのとずいぶん違います。
なぜそうなのかといえば、一つには「いき」というものが、本来、抽象的な思想とか論理だとかになじまない微妙な感覚や感情から成り立っているからであり、いまひとつには、庶民の 日常的な暮らしの産物であって、学問的な論議の枠から外れてきたという事情があったといえるでしょう。
こうして本格的な論議、解明から置き去りにされてきた「いき」というものを、まさに真正面から取り上げて、精密な分析、意味づけをほどこし、仏教や武士道に匹敵する日本文化の根本要素として提示したのが、九鬼周造の『「いき」の構造』です。
この小さな書物は西田幾多郎の『善の研究』や和辻哲郎の『風土』などとならんで、近代日本哲学が生んだ最も独創的な著作として高く評価されてきました。
哲学といえば、カントやヘーゲルに代表される難解で抽象的な観念の体系、日常の暮らしからはかけ離れた形而上的世界の探究というのがそれまでの常識的な受け止め方であったのに対し、吉原など江戸遊里の世界での男女の駆け引きという、いかにも俗っぽい日常生活から出発して精緻な分析を積み上げていき、武士道や仏教、建築哲学という学問スタイルを一新させるような画期的な成果をあげ、近年ますます大きな注目を集めてきています。
しかしながら世間一般の読者にとって『「いき」の構造』は必ずしも読みやすいものとはいえないでしょう。
九鬼の分析、論理は、よく読みこんでみれば、明快で整然としたものであることが理解されてきますが、その文章は決してとっつきやすいものではありません。
それは、一つには、明治以来の近代日本哲学の宿命として、西欧哲学から翻訳された専門用語や表現に一般人には見慣れないものが多く、また九鬼独特の入り組んだ、あるいは省略された言い回しで語られるためであり、いまひとつには、豊富に引用される古今東西の文化、とりわけ、歌舞伎や俗謡など江戸町人文化の知識を要求されるためで、その結果、この世評高い著作を近づきに食いものとしてきたといえます。
こうした障壁を少しでも低くするために、これまでも、さまざまな解説や注釈などがおこなわれてきましたが、本書では、それらをふまえた上で、さらに一歩ふみこんで全体を現代訳することを試みました。
そうして、こうした方針にしたがい、本書では、各章末に九鬼自身が付した原注に加えて、本文中で説明が必要と思われる箇所には訳註を括弧の形でほどこしたほか、各章の初めに内容の要点をを簡単に記し、論の節目に小見出しをつけました。
さらに、『「いき」の構造』は、その成立の背景となる九鬼の生涯に深いかかわりがあり、それを理解することが不可欠であるところから、著作解説をふくめる形でこの異端の哲学者の波乱に富んだ人生遍歴をたどってみました。
編者の大久保喬樹先生は、先日偶然見ていた
アマプラの「100分de名著」の坂口安吾の
『堕落論』の指南役で出ておられた。
最初はお一人で、途中から芥川賞作家の
町田康さんも参戦し町田さんに解説を譲る形の
流れだったのだけど、最後に深い一言で
全て持っていかれたような展開に見えたのには
自分は良い意味での清々しい
年長者の矜持のようなものを感じた。
で、なんとなく名前をインプットしてて
今読んでる本を見て、あれっ?となった
次第でございます。これもシンクロニシティなのか。
学術文庫版への注釈者まえがき
から抜粋
『「いき」の構造』が単行本で刊行されたのは、1930(昭和5)年の11月であった。
それ以来70数年にわたって本書は読み継がれてきた。
本書がこのように長く読み継がれ、多くの読者を見いだしてきた理由にはさまざまなものが考えられるであろうが、なにより九鬼周造が生きた現実に肉薄し、それを鮮やかに構造化したところに、その大きな魅力があると言って良いであろう。
本書の「序」で九鬼は「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」というように、彼が本書を通して目ざしたもの、本書のモットーとでもいうべきものを言い表している。
現実から離れるのではなく、むしろ現実そのものを生きたままでとらえるような哲学を生みだすこと、それが、彼が本書において自らに課した課題であった。
それは日本の哲学の歴史のなかで決して一般的なことではなく、むしろ稀有なことであったと言わなければならない。
そしてその課題は本書のなかで見事に果たされている。
長い時間をかけて研ぎ澄まされ、共有されてきた価値意識が歴史のなかから鮮やかに取り出されている。
どこまでも具体的なもの、具体的な意識現象が本書の出発点である。
その点で本書はきわめて近づきやすい書物である。
しかし他方、その分析は厳密な方法的反省に支えられている。
そしてそこではフッサールやハイデガーをはじめとする西洋の多くの哲学が踏まえられている。
そのことが本書を遠いものにしていることも否定できない。
その隔たりを超えて本書がより身近なものになればと考えたことが、この「全注釈」という形で本書を世に出すきっかけになった。
注釈者あとがき から抜粋
九鬼の一面を示すものと思われるが、九鬼はパリ滞在中に多くの詩や短歌を作り、それを与謝野鉄幹らによって刊行されていた文芸雑誌『明星』に、小森鹿三またはS・Kのペンネームで発表している。
そのなかに次のような歌がある。
ふるさとの「粋」に似る香を春の夜のルネが姿に嗅ぐ心かな
それは「いき」に似たものであって、九鬼が考える「いき」そのものではなかったかもしれない。
しかし九鬼はパリではじめて「いき」に自覚的に出会ったと言えるのではないだろうか。
藤田正勝先生は京大卒、京大大学院教授。
今はわからない。
先の大久保先生と比べると「講談社学術文庫」だけあり
アカデミックで高邁な態度は崩さんぞ的な
所はあって、浅学非才な自分は少しとっつきにくい部分も
正直あるけど、本文に着物柄や歌舞伎絵など挿入されてて
理解向上の一助となっておられるセンスも良いです。
大久保先生も挙げておられたけど哲学ってえと
興味が移りそうな展開だった。
余談だけど、いずれにせよ
自分の浅い学歴での昨今の読書遍歴は
中年を過ぎたライトな読み方であるがゆえのもの
なんだけど、豊かな時間を短時間で掴もうと
しているため、浅いけどなんとなく遷移している様が
自分でも興味深いのですが
書籍の内容が深過ぎて頭がバーンアウト寸前で
かつ量が内容を凌駕している状態。
それで養老先生は漫画が好きなのか、
バランスを取るためにも
なんて思いながら、手塚治虫先生を
読みたくなってまいりました。
・・・・・
それよりも訳者まえがきだけじゃなくて
『「いき」の構造』の本文をきちんと読めや!