②内田先生の構造主義についての読書考 [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 作者: 内田 樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2012/09/20
- メディア: Kindle版
第5章「四銃士」活躍す その三ーーレヴィ=ストロースと終わりなき贈与
1実存主義に下した死亡宣告 から抜粋
フーコー、バルトに続いてご登場願うのは、クロード・レヴィ=ストロースです。
レヴィ=ストロースはソシュール直系のプラハ学派のローマン・ヤコブソンとの出会いを通じて、その学術的方法を錬成した文化人類学者です。
ヤコブソンからヒントを得て、レヴィ=ストロースは親族構造を音韻論の理論モデルで解析するという大胆な方法を着想しました。このアイディアを膨らませた『親族の基本構造』(1949)や『悲しき熱帯』(1955)といった人類学のフィールドワークを通じてアカデミックなキャリアを積み上げたレヴィ=ストロースは、『野生の思考』(1962)でジャン=ポール・サルトルの『弁証法的理性批判』を痛烈に批判し、それによって戦後15年間、フランスの思想界に君臨していた実存主義に実質的な死亡宣告を下すことになりました。
言語学を理論モデルとして、「未開社会」のフィールドワークを資料とする文化人類学というまったく非情緒的な学術が、マルクス主義とハイデッガー存在論で「完全武装」したサルトルの実存主義を粉砕してしまったことに、同時代の人々は驚愕しました。
しかし、このときをさかいにして、フランス知識人は「意識」や「主体」について語るのを止め、「規則」と「構造」について語るようになります。
「構造主義の時代」が名実ともに始まったのです。
すでに見てきたように、構造主義は党派性やイデオロギー性とはあまり縁のない、どちらかといえば象牙の塔的な学術なので、ほかの思想的立場と確執するということはありそうもないのですが、フランスにおいては、知的威信をかけたはなばなしい闘争に登場しました。
構造主義の思想史的位置を知るために、ここで少しだけ時間を割いて実存主義との確執について解説をしておきたいと思います。
サルトルの実存主義は、ハイデガー、ヤスパース、キルケゴールらの「実存」の哲学にマルクス主義の歴史理論を接合したものです。
2 サルトル=カミュ論争の意味 から抜粋
1952年のサルトル=カミュ論争において、サルトルは歴史の名においてカミュを告発しました。
レジスタンスの伝説的闘志として戦後フランスの知的世界に君臨した1945年において、カミュの主張は歴史的に「正解」でした。
しかし歴史的条件が激変した7年後には別の答えが「正解」になります。
「君が君自身であり続けたいのなら、君は変化しなければならない。しかし君は変化することを恐れた。」
サルトルはこう言って、かつての盟友カミュに思想家としての死を宣告したのでした。
実存主義はこうして一度は排除した「神の視点」を、「歴史」と名を変えて、裏口から導き入れたような格好になりました。
レヴィ=ストロースが咎(とが)めたのは、この点です。
主体は与えられた状況の中での決断を通じて自己形成を果たすという前段について実存主義と構造主義は別にどこが違うわけでもありません。
しかし、状況の中で主体はつねに「政治的に正しい」選択を行うべきであり、その「政治的正しさ」はマルクス主義的な歴史認識が保証する、という後段に至って、構造主義は実存主義と袂(たもと)を分つことになったのです。
第六章「四銃士」活躍す その四ーーラカンと分析的対話
1 幼児は鏡で「私」を手にいれる から抜粋
フーコー、バルト、レヴィ=ストロースのあと、最後に私たちは「構造主義の四銃士」のうち最大の難関であるジャック・ラカンについて語らなければなりません。
構造主義そのものはここまでご紹介してきたように、決して難解な思想ではないのですが、(そのままフランス語の教科書に使いたいような明晰で端正なレヴィ=ストロースの文書を例外として)、構造主義者の書く文章は読みやすいとはいえません。
特にラカンは、正直言って、何を言っているのかまったく理解できない箇所を大量に含んでいます。
そのような思想家の仕事を簡潔にまとめるというのは至難の業です。
ですから、以下の解説はラカンのほんの入り口だけにしか触れていないということを、あらかじめご了解いただきたいと思います。
ラカンの専門領域は精神分析です。
ラカンは「フロイトに還れ」という有名なことばを残していますが、そのことばどおり、フロイトが切り開いた道をまっすぐに、恐ろしく深く切り下ろしたのがラカンの仕事と言ってよいと思います。
「実存」から「構造」になったって
ことなのかなあ。
だとしても、いまいちわからないのだよなあ。
池田先生の言ってる「構造主義」とは
ちょっと異なるような気もするのだけど。
「哲学」と「生物学」の違いなのか。
それよりもですね、
登場人物が多くて追求分析する時間が
ないですよう。
でもこのうちの誰かは読んでみたいなと。
そうすると芋づる式に他の人も、って
なるのかもしれない。
読んでない本が山積みなのに…。
あとがきから抜粋
私が読んでもすらすら分かるような、「ふつうのことば」で書かれたフランス現代思想の解説書はないものだろうか、『涙なしの記号論』とか『いきなり始める精神分析』とか『寝ながら学べる構造主義』というような題名の書物があったら、どれほどありがたいことだろう。
二十歳の私はそう切実に思いました。
それから幾星霜。
私も人並みに苦労を積み、「人としてだいじなこと」というのが何であるか、しだいに分かってきました。
そういう年回りになってから読み返してみると、あら不思議、かつては邪悪なまでに難解と思われた構造主義者たちの「言いたいこと」がすらすらわかるではありませんか。
レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。
べつに哲学史の知識がふえたためでも、フランス語読解力がついたためでもありません。
馬鈴を重ねているうちに、人と仲良くすることのたいせつさも、ことばのむずかしさも、大人になることの必要性も、バカはほんとに困るよね、ということも痛切に思い知らされ、おのずと先賢の教えがしみじみ身にしみるようになったというだけのことです。
年を取るのも捨てたものではありません。
この文章はどこがってのはいえず
曰く言い難しだけど
内田先生らしいですなあ。
専門書ではないので、内田先生流の
解釈なのだろうけど、
これを超えることは自分はできないだろうなと。
超えるつもりも、必然性もないのだけど。
この書を読んで感じたことは
日常生活を必死に頑張ると見えてくるものもあるよ
それ以外そんなに大事なものってなかなかないよ
ということだった。
これはこの書の感想としては正しいのだろうか。
それは構造主義と関係しているのだろうか。
よくわからないけど、今日の夜勤をひとまず
踏ん張って凌ごうと思っておりまして
大盛りカレーを食して
思考停止になるところでございました。