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みんなのコミュニズム:ビニ・アダムザック著・橋本紘樹・斎藤幸平訳(2020年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


みんなのコミュニズム

みんなのコミュニズム

  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2020/03/20
  • メディア: 単行本

最近「コミュニズム」が気になるのだけど


斎藤幸平さん絡みのものが、偶然なのか必然なのか


わからないがよくございます。


コミュニズムってなに? から抜粋


コミュニズムっていうのは、現在の社会ーー資本主義社会ーーで

みんなを悩ませている苦しみを全部なくしてしまう社会のこと。

コミュニズムがどんな社会になるかを考えてみると、いろんなイメージが浮かんでくる。

でも、もしコミュニズムがみんなを悩ませている資本主義の苦しみを全部なくしてしまう社会なら、もう苦しまなくてもいいような社会をイメージしてみるといいんじゃないかな?

それは病気の治療にそっくり。

資本主義が病気だったらーーそうじゃないけどーー、

みんなをほどほどに健康にするんじゃなくて、完治させるコミュニズムがいちばんの薬ってこと。

でも、ふつうなら病気になる前は健康だよね?


つまり、コミュニズムはなんでも治すんじゃなくて、資本主義が原因の苦しみだけを治すんだ。


資本主義ってなに? から抜粋


いまは、資本主義が全世界を覆っている。

資本主義って呼ばれているのは、それが”資本”による支配だからだ。

金持ちによる支配や、金持ち階級による支配とはちょっと違う。

たしかに資本主義では、ほかの人よりも発言力の強い人はいるけど、社会のてっぺんに立って、あれこれと命令する王様はもういない。

でも、人間を支配するのが人間じゃないなら、いったいなんだろう?

そう、それは物だ。

文字通りの意味じゃないよ。

言わなくったってわかると思うけど、物だけじゃなにもできないし、一人の人間を支配するなんてできっこない。

物体にすぎないんだから。

ありとあらゆる物が、人間を支配するわけでもない。

人間を支配するのは、ある決まった物だけ。

もっとちゃんと言うと、ある決まった形態をもつ物だけ、ってかんじ。


生活を少しでも楽にするために役立てようと、人間が自分たちで作り出したんだ。

でも時間がたつと人間は、これらの物を作り出したのが自分たちだということを忘れ、物に仕えはじめる。どういうことかな?


ようするに、共同の作業や人間関係、労働そのものが問題じゃないってこと。

それらがある決まった形態をとるときにはじめて、物は人間を支配する特別な力を手に入れる。


あらゆる社会が物の支配という特徴をもってるんじゃない。

それは、資本主義社会にだけあてはまるんだ。

資本主義では、人間関係や労働がある特定の形態をとるようになる。

そうなると、物は人間を支配しはじめるんだ。

だから、考えなくちゃいけないのは、こんな問題。

資本主義で人間関係はどうなるんだろう?

それは別の社会の人間関係とどう違うんだろう?


どんなふうに資本主義は生まれたの? から抜粋


資本主義には、もう200~500年の歴史がある。

最初に発展したのは、ご存知イギリス。当時イギリスではまだ封建制度が支配していた。

女王さまや王女さま、たくさんの女官がいたんだ。

でも、ほとんどは農民だった。

彼女彼らは村でまとまって、あるいは家族で畑を耕していた。

機械はなかったし、便利な道具もあまりなかったから、いっぱい働いたけどすごく貧しかった。

しかも、その時はまだ大きな権力を持っていた教会が、農民たちの作ったパンの10パーセントを要求したし、女王さまたちはもっとたくさん要求した。

さらにさらに、農民たちはときどき彼女たちの宮廷にいって、そこで何時間も働かなくちゃいけなかった。

一日中のときもあった。

けれどみんな、支配者たちがどれだけもっていくか、いつもはっきりわかっていた。

それに、ほかのことではあまり干渉されなかった。

女王さまたちは労働についてそんなにわかっていなくって、農民たちに働きかたを指示するなんてできやしなかったからね。


当時のイギリスはとっても強い海軍をもっていて、世界を相手に華々しく貿易をしていた。

毎日たくさんの商船が、イギリスから、アフリカやヨーロッパをはじめ、アジアやアメリカにも出港した。

十分に大きな船と、十分に強力な武器をもった商人はそんなにたくさんいなかったから、イギリスの商人たちの儲けはすごかった。

例えばアメリカにいって、そこで生活している人たちからあらゆる装飾品を奪いとって、それをヨーロッパに売りさばいた。

つぎにアフリカにいって、そこで生活している人たちを連れ去り、アメリカへ奴隷として売りさばいた。

商人たちはとても豊かになり、すぐに、身分にあわない贅沢をしはじめた。

そう、女王さまたちだって、ただ夢にしかみなかったような贅沢をね。

女王さまたちは、商人たちがびっくりするほど豊かで、きらびやかな装飾品をたっくさん所有してて、ものすっごい刀剣を持ってるってわかると、とても嫉妬するようになった。

そして、経済的にとても大きな力をもつようになった商人たちがこれまで以上に政治に口を出しはじめて、自分たちを追い出そうとするんじゃないか、って不安におそわれたーーやがて現実になるんだけどね。


エピローグ コミュニズム的な渇望を構築するために から抜粋


歴史の終わり」は終わった。

フランシス・フクヤマが1992年に「歴史の終わり」を告げたとき、考えていたのはほかでもない。

リベラル資本主義以外の選択肢がなくなったーーそれも永遠にーー

ということだ。

まもなく、ブルジョア的イデオロギーであるこの物語は挑戦を受けたーー

1994年チアバスのサパティスタや1999年シアトルのグローバル化運動、2001年ジェノア・サミットでのデモによって。

しかし同時にその物語は疑いなく現実を表してもいた。

それは、物語への批判により裏書きされた。

というのも、歴史上のどの時代を取っても、「今とは違う世界を実現できる」という合言葉が、こんなにも人々を誘発して、路上へ連れ出すことなどなかったと思われるからだ。


「歴史の終わり」は、ソ連の崩壊後に認識され、その10年後、2001年のアメリカ同時多発テロで再確認された、世界史の現実を表している。

その現実は、競合する政治家たちが自分たちの立場を示す際に重要となる、政治の中心的な議題を変化させた。

よりよい未来への希望にかわって、現在の世界が悪化することへの不安が姿を見せたのだ。

大多数の人たちの生活をますます悪化させる現在の世界は、永遠のものになった。


現在はどうなっているのだろうか?


「ぜひともネガをポジにしたい」


さまざまな立場、さまざまな広場 から抜粋


多様に存在する資本主義への批判はこれでおわりにする。

では、コミュニズム的な立場から、たくさんの資本主義批判や、それと結びつくさまざまな(コミュニズム的)ユートピアを

ーーいかに不十分であるかを基準にーー

体系化できるだろうか。

それに資本主義的見地(流通・生産・消費)から主張されていることを、そもそもコミュニズム的な立場から批判できるだろうか。

もし可能であるならば、そうした体系化や批判は、自らの立脚点がどこにあるのか、という問いに答えねばならない。すなわち、コミュニズム的な非・場所、すなわち不在はどう入った場所を指し示しているのか、という問いである。

しかし、コミュニズム的な立場は本来一つの立場でありうるのだろうか。

あるいは、コミュニズム的批判という運動にとって、静的な立場の規定は、まったく不適切なのではないか。

むしろコミュニズム的批判は、点から線へ、線から面へと揺れ動きながら、ときには立ち止まったり、散歩してみたり、走り出したりするのではないだろうか。


この本は、「歴史の終わり」という条件のもとで書かれた。

いまとなっては、この「終わり」自体が、すでに歴史となっている。

すでに始まりを告げている未来から眺めれば、この時代は1991年に始まり、2011年のアラブの春まで、ちょうど20年間続いた。

20世紀の革命がそうであったように

ーー1917年と1968年、そして限定的だが1989年もーー、

新たな革命も街から街へと、地域から地域へと、国境を超えて広がっていった。

以前の革命の波がそうであったように今回も世界秩序の辺境で始まった。

そしてそこから、多かれ少なかれ成功を収め、中心である「悪の巣窟」へと進んでいった。

シディ・ブ・サイドからカイロへ、そしてベンガジ、ダルアー、アルマナマ、サナアへと。

それから、アテネ、マドリッド、テルアビブ、ロンドン、サンティアゴ・デ・チレ、ウィスコンシン、ニューヨーク、フランクフルト、オークランド、モスクワ、リオ・デ・ジャネイロ、イスタンブールを経由して、香港やロジャヴァ、サラエボ、パリに至るまで。


1917年のロシア革命の革命家の多くは、成功を手にできるのはただ、革命が資本主義世界全体に広がる時だけだと確信しており、ドイツにすべての希望をかけていたーー失敗に終わったけれど。

今日もまた、とりわけヨーロッパのなかで、ドイツは再び特別な役割を演じている。

ドイツは低賃金政策、強力な通貨、安価な輸出より、ヨーロッパ危機を引き起こす一員となった。

そして対応にあたって、緊縮命令で事態を悪化させたにもかかわらず、いちばんに利益を得たのだった。


今日においても、さまざまな反乱の成功はひとえに、どれだけ相互に推進し、激化させ、グローバル化させることができるかどうかにかかっている。


日本語版付録インタビュー


ビニ・アダムザックに聞く(2017年5月)


インタビュアー・ジェイコブ・ブルーフェルメント から抜粋


ネオ・ファシズムと闘うためには、表面的に反対するだけでは社会を守れません。

わたしたちが闘うべきは、もっと別のものです。

世界を救いたいなら、根本的に世界を変える必要があるのです。


昔のアメリカのイメージで、


赤狩り、レッドパージ


みたいな映画もあったし、


チャップリンを追放する大義名分とか


あんまり良いイメージなかった「コミュニズム」。


マルクスも然り。


だって遠藤ミチロウさんが1980年代に


最も嫌われようとしたのでつけたバンド名が


「スターリン」だよ。「共産党宣言」を歌詞にしてたし。


でも「共産党、貧乏、うそつき」と叫んでたのは


深い意味があったのか。


当時は全くキャッチできなかったけれど。


そんな世代で育ったんだから、


しょうがないじゃないですか。


って、誰に言ってるんだよ、これ。


書籍に話を戻すと


途中まで、革命を扇動するような


不穏分子からのメッセージなのか、これは、みたいな展開で


やや引き気味だったけど、そんなわけはないよな。


最後の著者のインタビューで腑に落ちた。


原題が「Kommunismus」なのは著者がドイツで活動する人で


ドイツ人なのかな。ドイツ語だと後で知った。


イラストは日本人のようだけど、独時のタッチで


このドイツ思考の言説と不思議な味わいを醸し出している。


今風なのかな、これも。


いや、そういうレベルのものではなくて


まったく新しい風のような気がするな。


すでに2年経つけれど。


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