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4冊の書籍から読書と知性の考察(2022年8月) [’23年以前の”新旧の価値観”]

(1)名作うしろ読み:斉藤美奈子著2013年)


「はじめに」から抜粋


<国境の長いトンネルを抜けると雪国であった>(川端康成「雪国」)

<木曽路はすべて山の中である>(島崎藤村「夜明け前」)

本は読んでいなくても、なぜかみんな知っている名作文学の書き出し、

すなわち「頭」の部分である。では同じ作品のラストの一文、

すなわち「お尻」はご存知だろうか。

ご存知ない?ですよね。

だったら調べてみようじゃないの。

それが本書のコンセプトである。

名作の「頭」ばかりが蝶よ花よともてはやされ、

「お尻」が迫害されてきたのはなぜか。

「ラストがわかっちゃったら、読む楽しみが減る」

「主人公が結末でどうなるかなんて、読む前から知りたくない」

そんな答えが返ってきそうだ。

「ネタバレ」と称して、小説のストーリーや

結末を伏せる傾向は、近年、特に強まってきた。

しかし、あえていいたい。

それがなんぼのもんじゃい、と。

お尻がわかったくらい興味が半減する本など、

最初から大した価値はないのである。

っていうか、そもそも、お尻を知らない「未読の人」「非読の人」に

必要以上に遠慮するのは批評の自殺行為。

読書が消費に、評論が宣伝に成り下がった証拠だろう。

私たちはシェークスピア「ハムレット」の最後で

ハムレットが死ぬことを知っている。

夏目漱石の「坊ちゃん」のラストで坊ちゃんが

四国を去ることを知っている。

知っていても「ハムレット」や「坊ちゃん」の

魅力が減るなんてことはあり得ない。

きのうきょう出た新刊書じゃないのである。

やや強引に定義し直せば、人々がある程度内容を

共有している作品、「お尻」を出しても

問題のない作品が「古典」であり「名作」なのだ。

未読の人にはこのようにいってさしあげたい。

つべこべ文句をいっていないで、読もうよ本を


(2)忖度しません:斉藤美奈子著2020年)


「文学はいつも現実の半歩先を行っている」から抜粋


文芸書は売れません。

文学はいまやマイナーなジャンルです。

そういう話は耳にタコができるほど聞いてきたし、

数字を見ればその通りだからあえて否定はしない。

ただ、文学の世界が尻つぼみかというと、それも大きな間違い。

「前はこんなのなかったな」と感じさせる作品は続々と

誕生している。

「老人の逆襲」ともいうべき高齢者文学の増加。

多様なセクシュアリティ。

方言や舞台設定を含めた「地方の復権」。

そして古典のリノベーション。

現実を異化し、読む人の意識を活性化させる

文学は常に現実の半歩先を行くのである。


「認知症が「文学」になるとき」から抜粋


空前の高齢化社会を迎えた今日、

認知症は特殊な病ではなくなった

(略)

文学の世界でも、認知症の高齢者と

その家族を描いた文学作品が急増している。

認知症を描いた作品といえば、

有名なのはやはり、ベストセラーになった

有吉佐和子の小説「恍惚の人」(1972年)だろう。

義母が突然死した後、認知症(当時の用語では

「老人性痴呆症」)の症状が進行していく義父。

介護は妻に任せっぱなしの夫や、われ関せずの息子に

イライラを募らせながら奮闘する主人公に、

社会福祉主事はいうのである。

「これくらいなら、ホームに入れなくても、

家で充分面倒を見てあげられますでしょう。」

もう少し後だと耕治人の晩年の三部作

「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」

「そうかもしれない」(1986年~88年)が

思い出される。

ここで描かれるのは80歳を超した夫婦の老老介護だ。

ある時を境に物忘れが激しくなり、料理ができなくなり、

洗濯ができなくなり、やがて夫を認識できなくなる妻。

特別養護老人ホームに入った妻は、ナースの

「ご主人ですよ」

という声に促されていうのである。

「そうかもしれない」。

文学史をもっとさかのぼれば、また別の例もあり、

島崎藤村「夜明け前」(1935年)の主人公・青山半蔵

の晩年の姿は若年性認知症が疑われるし、

安岡章太郎「海辺(かいへん)の光景」(1959年)は

認知症の母を息子の目から描いた小説といっていいほどだ。

精神科の重い扉の向こうの重症病棟に寝かされ、

ろくな手当も受けていない母。「老耄(もう)性痴呆症」とは

どんな病気かと問う主人公に医師は答える。

「さア、われわれにも良くは、わからんですな。」

今日の認識はその頃と大きく変わった。

21世紀の認知症文学はどんなものなのだろうか。


として以下の書籍を挙げられる。


ねじめ正一認知の母にキッスされ

坂口恭平徘徊タクシー


ここでちょっと読書から離れるような長い寄り道。


世にいくつか出ている「知性」系の書籍を、疑問を呈しながら、自論を展開される。


「バカが世の中を悪くする、とか言っている場合じゃない」から抜粋


さて、このような混迷状況を見るに見かねて、

いわば待ったをかけたのが、

森本あんり「反知性主義ーーアメリカが生んだ

「熱病」の正体」だった。

日本の論壇で最近よく聞く「反知性主義」は

<どちらかと言うと社会の病理をあらわす

ネガティブな意味に使われることが多い>が、

もともと<単なる知性への反対というだけでなく、

もう少し積極的な意味を含んでいる>と森本はいう。

この本が描き出すのは「アメリカ化(土着化)したキリスト教」

ともいうべき「信仰復興運動(リバイバリズム)」を

中心とした反知性主義の歴史、換言すれば

アメリカの精神史である。

アメリカに入植したピューリタンは厳格な聖書解釈を

重んじるため、もともと高学歴者が多く、

極端な「知性主義」の社会だった。

牧師の養成を目的に設立された東部のエリート大学などが知性主義の代表だ。

(略)

反知性とは

<最近の大学生が本を読まなくなったとか、

テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに

知性が見られないとか、そういうことではない>

と森本はいう。

<「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする

能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む>。

つまり「反知性」とは「ふりかえり」が欠如した知性に対する異議申し立て

<知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか。自分の権威を不当に

拡大使用していないか。

そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義である。>

そ、そうだったのか!反知性主義とはバカの別名どころか

「反体制」「反権力」「反権威主義」「御用学者批判」などに

むしろ近い態度のことなのだ。

だとすると、知性(権威)の側からバカを論評する

「知性とは何か(佐藤優)」や「日本の反知性主義(内田樹)」こそ、

悪しき知性主義の見本ってことになりません?

むろん佐藤優や内田樹は、日本を代表する知性の持ち主で

あるから、本来の反知性主義が何かは重々承知の上で、

あえて意味をズラし、劣化する日本社会に警鐘を

鳴らしたのであろう。

あろうけれども、日本の知識人は

バカの悲しみに鈍感なところあるからな。

「日本の反知性主義」の中で、反知性主義(本来の意味での)に

もっとも近いのは、

小田嶋隆「今日本で進行している階級的分断について」だろう。

<東京の場末の町で生まれ育った者にとって、

「反インテリ志向」は、あらかじめ宿命として気が付くと

ビルトインされている「天質」のようなもの>

と語る小田嶋は「ヤンキー」なる語を無自覚に振り回す

インテリ層を痛烈に批判し、

<反知性主義をめぐる議論は、知性云々を軸にした

対立であるよりは、「分断」の

ストーリーなのだと思っている>

と書く。

それは学歴や偏差値や戦後民主主義という名の

「優等生思想」によってもたらされる分断なのだと。

反知性主義(今日の文脈での)を批判するインテリ層は、

まずは自分の胸に手をあてて、知性や教養が嫌われた理由を

真摯に考えるべきではあるまいか。

<反知性主義に対抗するために重要なのは、

知性を復権することだ。それは主に読書によってなされる>

(「知性とは何か」佐藤優著 2015年)などと

説いたところで、状況を変える足しになるとは、正直、とても思えない。


読書と離れてしまったようだけど、


「知性」ってかなり昔からだけどよく聞く言葉で


自分も興味大ありなのだけど、この視点には頷いた。


今の社会だとどうしても「学歴偏重」で、高学歴の方達に


よって牛耳られてるのが現状なんだけど、そういう人たちが


作ってきた価値観に乗っかっているのが現実で、


低学歴の人たちは、価値のあるものを産み出せない


仕組みになっているのだよね。


産み出せても、かっさらわれているかの如く。


でもそれも「コロナ禍」「戦争」などを繰り広げている人類が


この後、どのように変貌するのか、興味深いところだ。


すでに新しい価値観の人たちが出てきているように


感じますけれども。


今後、どのように現実となり、積み重なっていくのか。


で、読書に戻るようで戻ってないようななんだけど


(3)「ぼくは本屋のおやじさん:早川義夫著(1982年)


本が好きだと、いい本屋になれないか」から抜粋


本なんていうのは、読まなくてすむのなら、

読まないにこしたことはない。

読まずにいられないから読むのであって、

なによりもそばに置いておきたいから買うのであって、

読んでいるから、えらいわけでも、知っているから、

えらいわけでもないのだ


サブスクとか電子書籍が幅をきかす中、40年前のこの本の威力は


自分の中では未だ衰え知らず。本に限ったことじゃないよなと。


で、今度こそまた読書に戻ります。


かくいう自分は最近、小説をほぼ読んでなくて、


なんだろうと思ったことが、


たまにしかないけど、これを読んだら


なんか似ているかもと思い、最後に引用いたします。


「知の塊」「ジ・インテリジェンス」


であるところの立花隆さんの言葉です。


(4)読書脳ぼくの深読み300冊の記録:立花隆著(2013年)


「まえがき」から抜粋


フィクションは基本的に選ばない。

二十代の頃はけっこうフィクションも読んだが、

三十代前半以降、フィクションは総じてつまらんと

思うようになり、現実世界でもほとんど読んでいない。

人が頭でこしらえあげたお話を読むのに

残り少ない時間を使うのは、勿体無いと

思うようになったからである。

選択で気を使うのは、取り合わせである。

私の場合、関心領域が広いから、領域の取り合わせ、

本の内容のむずかしさ、肩のこらなさなどの

取り合わせにも気を使いながら、

次に取り上げる本を選んでいる。

もう一つ気を使っているのは、

あまり知られていない本だが、

「こんな本が出ているといいうことそれ自体に

ニュース価値がある(人に知らせる価値がある)」

と思うような本に出会ったときは、それを

積極的に取り上げるということである。

その反対に世評が大きすぎる本の場合は、

ワンランク下の力の入れ方にして、取り上げないか、

取り上げても軽い言及にとどめるということである。


と引いておきつつ、余談だけど、斎藤美奈子さんの本を読んで、


小説っていいかもって思った。


(どっちでもいいよ!好きにしなさい、反知性の自分より)


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