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ビートルズ神話 エプスタイン回想録:片岡義男訳(1972年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

ビートルズ神話 エプスタイン回想録

ビートルズ神話 エプスタイン回想録

  • 出版社/メーカー: 新書館
  • 発売日: 2024/03/16
  • メディア: 単行本
ビートルズのマネージャーだった、

ブライアン・エプスタイン氏の1964年当時の回顧録。

当時の雰囲気がなんとなくわかる。

ブライアンしか知り得ない情報ってのも価値があり

貴重なんだけど、メンバーに出会う直前、出会い、

レコード会社との契約までの前半部分が

知ってることも多々あるが

本人が語るのは威力があり、自分としては、

かなり面白かった。

でも30歳手前で自叙伝を書くってのもなんでだろと思うけど

その心境は「あとがき」に詳しいため、一部抜粋。

こうして校正刷りを読んでいてふと思うのですが、
マネジメント契約を結んでいるアーティストたちの
パーソナル・マネジメントで多忙をきわめているさなかに、
わざわざ時間をさき、まだ30歳にもなっていないというのに
自伝などを書いたのは一体なぜなのか、その理由を私は
いろんな人たちから問われるに違いありません。
こういったぶしつけな質問に対する回答の常として、
理由はさまざまであるとこたえるよりほかにありません。
しかし、基本的には、ビートルズその他のアーティストが
登場してきた時の状況を私の観点から正確に、
早い時期に書き残しておきたかったからです。
いろんなことがたくさん書かれてきましたかれど、
誇張されすぎていたり不正確だったり、あるいは
とっぴょうしもないことであったり、誤解を招きやすい話
ばかりなので、ここで正確なことを詳しく書いておけば
いろいろと役に立つだろうと私は考えたのです。
それに、一般の方々にもかなり興味を持って
いただけるのではないかと思うのです。
とにかく、私は楽しみながらこの本を書きました。
一冊の本であろうと一枚のレコードであろうと、
あるいは生のステージの公開であろうと、
何かを創り出す作業にとっての基本となるものは、
みなおなじなのだと、時たま私は考えることがあります。
(略)
大ヒットとなった数多くのレコードがいかにして
世に出ていった、そのときどきの状況を、こんなふうに
したりげに書きつづったおかげで、私の運(つき)も
ちょっとかわるかもしれません。
かわればかわったでそれはしかたのないことですけれども、
いま私がマネージしているアーティストたちが
望むかぎりいつまでも、私は、このアーティストたちが
一流のエンタテイナーとしての存在を続けられるよう、
あらゆる努力を惜しまない覚悟です。
私が心から感謝の念を表している次のような人たちが
いてくれてこそ、この本もこうして書かれたのだという厳正な
事実を私は忘れるものではなく、ここに書きとめておきます。
その人たちとは、
私の母、父、弟
私がマネージしているすべてのアーティストたち
マーシーサイドの若い人たち
そして、最後になりましたけれど、ささげる感謝の念の
大きさにまったくかわるところのないデレク・テイラーにも、
お礼を述べなければなりません。この本を書くにあたって、
彼の持つプロフェッショナルな体験が非常に
貴重なものとなり、負うところたいへん大であったのです。
1964年8月
ロンドン・ベルグラビアにて
ブライアン・エプスタイン

すごく人柄が伝わってくる本だった。

なんでかひらがなが多くて、それも、

なぜか良い人柄のような印象として感じた。

こういう人物だからこそ、ビートルズもマネージメントを

任せ、スタイルを変えることにも協力的だったのかなと。

それから思ってた以上に、ビートルズ自体が

いろんな面でイニシアティブを握っていたというのが

面白かった。大人の言いなりにはならねえぞ的な。

かといって自由奔放な若者のセンスだけで

動いていた感じでもなく、まさに互恵関係とでもいうか。

本能的な感覚を、お互いが信じてたんだろうな。

「第三章 発見」から抜粋

ビートルズという名前には、なにか人を惹きつける
神秘的なものがあるのではないだろうかと、
いまになって私は考えたりしています。
現在、ビートルズは世界規模で大成功をおさめた
スターになってしまっていますから、彼らの成功の
原因となった要素を明確に分析することはもうできません。
しかし、ビートルズが、ビートルズという名前のかわりに、
たとえば、リヴァプール・フォーといったような
散文的な名前であっても、やはりこれだけの成功を
おさめ得たかどうかということになると、
こんなことは考えてみてもしょうがないのですが、
やはり、ビートルズ、という名前が持っている不思議な
力みたいなものをどうしても考えてしまいます。
私の生活のなかにある日、ビートルズが
入ってきたのですが、その入ってきかたには、
ひとつの興味深い局面を見ることができます。
ビートルズの四人が、私のレコード店に来ているのを、
何度も見かけていた、という事実です。
もちろん、そのときは、その四人の若者が
ビートルズだとは、知らなかったのです。
皮のジャケットを着てジーンズをはいた、
薄汚れた感じの四人の若者が、午後になるとしばしば
私の店にやってきて、店の女の子たちと話をしたり、
カウンターのところにたむろしてレコードを
試聴したりしているのを、私は多少なりともうるさく
思ったことが少なからずありました。
気さくでいい若者たちなのですが、身なりがむさ苦しい
感じで、ワイルドなところもあり、髪は明らかに
長すぎるのでした。
午後のひまつぶしなら、どこかちがうところで
やってくれるといいのだが、と私は店の女の子に
言ったことがあります。しかし、彼女たちが言うには、
その四人の若者たちは、みな態度はきちんとしていて、
話をすると大変に面白く、たまにはレコードも
買っていくのだ、ということでした。
それに、レコードの良し悪しの判断が、
その若者たちはとてもたくみなのだと、
店の女の子たちは言っていました。

「第五章 これだ!」 から抜粋

EMIでの最初のレコーディング・セッションでは、
ビートルズは、「ラブ・ミー・ドゥ」を録音しました。
ポールとジョンが共同で作った、一度聞いたらちょっと
忘れられないような曲です。
当時はまだとても珍しかったのですが、ハーモニカを
使ったのです。このハーモニカをつかうことも
そうですけれども、ビートルズは非常に
いろんなことを創案して実際に行って見せたのですが、
いろんなん人たちがさかんに真似したおかげで、
そのいずれもが、いまではすっかり陳腐なものに
なってしまっています。
「P・S・アイラブユー」も、同時に録音しました。
ジョージ・マーティンもエンジニアたちも、
この二曲を気に入ったようでした。
しかし、まだEMIからレコーディング契約を
取り付けることはできず、録音を終わってEMIから
出てきた時には、希望で胸いっぱいに膨らん
でいきましたけれど、おかねはなく、経済的な状態は
不安定なままでした。
卑俗なネオンの輝くレーパーバーンで仕事をするために、
ビートルズはまた飛行機でハンブルグまで飛び、
私はリヴァプールのレコード店へひき上げて
そこの仕事をしながら、EMIからの連絡を待ったのでした。
7月に、連絡が来ました。
パーラフォン・レコードとのレコーディング契約に、
私は署名したのです。ビートルズも、
いよいよこれで大スターの道に立ったわけでした。
パーラフォンのトレードマークは、
ポンドのしるしの£なのです。
ビートルズがやがてかせぎ出す運命にあった、
まるで信じられないほどの額のおかねの、
これは象徴だったのでしょう
私は、そのときまだドイツにいたビートルズの
四人に電報を打ちました。
「イーエムアイトケイヤクデ キタミンナニトツテモダ 
イジ ナコトシカモスバ ラシイコト」
という電文でした。
ビートルズの四人は、それぞれに絵葉書を
送ってくれました。
ポールは
「印税前渡金を一万ポンドほど電報為替で送ってください」
と、書いてよこしました。
ジョンは、
「それで、いつ私たちは百万長者になれるのでしょうか」
と書き、ジョージからの絵葉書は
「新品のギターを四丁、さっそく注文しておいてください」
とありました。

ビートルズが初々しいです。成功してからの話は

あまり面白くないというか

まあそうだろうなみたいなことだった。

ジョン・レノンの辛辣な態度というか、でも老成もしてたとか。

大人気の台風の時に彼らがどうしていたとか。

ビートルズに関連した人たちのチーム力というか

リレーションシップが良い「仕事」と

「結果」につながる様が面白くもあるんだけど。

ブライアンやジョージ・マーティンがいて、いわゆる

「大人」が環境を整えてくれたので、

「仕事」がしやすかったのだろう。

それにしても奇跡的な出会いや出来事の連続で、これも

強運というやつなのかな。

この本には出てこないけど、この後(65年以降)も

色々致命的な失敗もしてるんだけど、「音楽」の力で

失敗を跳ね除ける様がすごいし、何と言っても

最後に「アビーロード」だからなあ。

有終の美とでもいうか。

ま、「仕事」って言うとアレだけど、

「音楽」が純粋に素晴らしいんだよね。

余談だけど、解説の片岡義男さんの解釈が

面白かったので以下に引用。

書籍名について、原文の方がよく中身を表してると思った。

解説 片岡義男

この本は、1964年にイギリスとアメリカで刊行された、
ブライアン・エプスタイン著「地下室いっぱいの音」の、全訳だ。
ブライアン・エプスタインは、ハンブルグや
リヴァプール以外のところではまだ無名のグループだった
ビートルズの可能性に目をとめ、マネージャーとなって育て上げた人物だ。
題名にある「地下室」とは、ビートルズが地元のリヴァプールで
出演していたクラブ、キャヴァーンのことだし、
「音」は、ビートルズの演奏を指している。
ビートルズが、ブライアン・エプスタインのような、
不思議な、しかもある意味では非常に優れた人物を知り、
彼にいっさいをマネージされたことは、たいへんに幸せな
ことだったのだという事実が、本書を含めて、
ブライアン・エプスタインに関していろんなところで
断片的に書かれたものを読むと、よくわかるのだ。
「地下室いっぱいの音」は、本来は
ブライアン・エプスタインの自叙伝であり、
彼個人の生い立ちからはじまり、ビートルズとの関係は、
キャヴァーンではじめて会ったときから、
アメリカで大成功をおさめてひとまず世界的に有名な
グループにしたてあげた1964年いっぱいくらいまでについて、触れてある。
わずかな材料をもとに判断するしかないのだけれども、
学校に通っているあいだずっと、そして、家業の家具店を
真剣に手伝う気になりはじめた頃まで、エプスタインは、
自分の周囲の状況に、肉体的にも心理的にも、
うまく適応できず、常に何かといえば周囲から
いじめられる弱い者であったらしい。
エプスタインにとってもっとも苦手な状況はたとえば
軍隊みたいなところで、事実、彼は、一種のノイローゼと
判断されたうえでそれを理由に陸軍から除隊されている。
(略)
ブライアン・エプスタインは、たいへんに
クリエイティヴな才能を、ちょっと奇妙なかたちで
持っていた人だったと言えるだろう。
ビートルズと知り合うまでのブライアンが、
よく言う挫折した人であったのかどうか、
これはよくわからないけれども、自分のクリエイティヴな
才能を具体的に発揮させる道をさがしていたことは、たしかだ。
と同時に、いわゆる旧世代と、いわゆる新世代との、価値観
生き方の完全な違いみたいなことも、
どうひかえ目にみても少なくとも心情的には、
重要な触れあいをブライアンは体験していたのではないかと、
推測できる。
1950年代の半ばから1960年代にかけて、
人間が生きていくことに関する価値観の転換
若い世代の側から本能的におこなわれ始め
そのおこなわれつつある実際のありさまを、たとえば
ビート・ミュージックとして、ブライアンはリヴァプールのなかに
自分の目で見ることができたのではなかっただろうか。
自分が適応することのできなかった世界は、
まぎれもなく旧世代のほうのものであり、
それにくらべるととてつもなく自由でエモーショナルで、
芸術的ですらある新しい世代のほうに、ブライアンは
傾斜したのだろう。
年齢的にも、当時のブライアン・エプスタインは、
両方の世界を見わたせる位置にいたし、
生活にはまるっきりこまらないという柔軟な立場も、
大いに幸いしたに違いない。
1966年8月のおわりにサンフランシスコで
おこなったコンサートを最後に、ビートルズは、
4人いっしょはステージに一度も出ていない。
この時が最後のステージになることを
ブライアンは知っていて、自分でそう発言してもいた。

よく知られているように、

ブライアンの最期は謎とされているけれど、

この本を読むと、ビートルズとの関係がものすごく強力で、

だからこそ、ビートルズがステージを辞めて

レコーディングに専念すると、音楽的素養のない自分への

これからが見えるようで落胆が激しかったことがわかり

(勝手な推測ですが)若干辛くなってきます。

これもまたよく言われることだけど、

後期ビートルズにブライアンが

生きててマネージしてたら解散しなかったのでは、

みたいなのもわかる気がするが、両者は66年ごろから

成長度合いというか波長というかバイブレーションが

合わなくなってきたのだろう。

その状態では、どっちみち解散または独立は

したのだろうなと個人的には思う。

本の話に戻すと、最も印象的なところは、

ブライアンが最初にビートルズのライブを見たとき、

なんか惹かれるものがあった、ってところで。

ブライアンは自分は音楽はよくわからないって

違う箇所で書いてあるんだけど、

音楽って聴くものというより、身体で感じる(浴びるもの)ものと

言っていたのは、かの大瀧詠一さんでした。

ブライアンも身体が反応したってことなんだろうかね。

そういえばブライアンをテーマにした映画ができると

Webニュースで見たのは2年くらい前か、

もし公開されるのなら観てみたいと思った。

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