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長谷川眞理子先生の”ダーウィン愛”を拝見する [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

人間の由来(下) (講談社学術文庫)


人間の由来(下) (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/10/12
  • メディア: 文庫

ダーウィン独自研究の一環で拝読というか

拝見というか…。


長谷川先生の訳であればなおさら。


まずは表4の紹介文から抜粋。


センセーションを巻き起こした『種の起源』から10年余、ダーウィンは初めて人間の由来と進化を本格的に扱った

昆虫から魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類を経て人間に至る進化を「性淘汰」で説明する本書は、助け守り合う「種」こそが「存続をめぐる争い」を生きのびると説く。

下巻は魚類から人間までを扱う諸章と結論を「訳者解説」とともに収録。


なのですが、とにかく、長い。


すみませんが、ざっと、読むどころか


見た、という程度で、これは


”拝見”というべきでしょうなあ。


結論を中心に読む不届者ですが


そんなヒト、多いのではないでしょうか。


第21章 全体のまとめと結論


から抜粋


本書で到達した主な結論は、人間が何らかのより下等な生物から由来したというものであるが、このことは、現在では、確かな判断を下す能力のある多くの博物学者によって支持されている。


この結論を支えている基礎は、これからも揺らぐことは決してないだろう


人間と下等動物の間で、胚発生の過程や数多くの形態構造が、重要なものも瑣末なものも含めて非常に類似していることや、人間の保持している痕跡器官、人間にときどき見られる先祖返りの形質などは、否定することのできない事実である。

これらについては昔から知られていたが、最近になるまで、人間の起源に関してそれらが何かを語ることはなかったのである。


しかし、現在のわれわれの生物界全体に関する知識をもってすれば、それらの持つ意味はもはや間違えようがない。

これらの諸事実を、同じ分類群に属するメンバーどうしの間の類似性や、過去と現在における地理的分布、地質学的変遷などの他の事実と関係づけて考察するとき、進化の偉大な原理は、明確に、確固としてそびえ立っている。

これらの事実のすべてが間違ったことを語っているとは、とうてい考えられない。


未開人のように自然現象をばらばらなものと見ることでは満足できない人なら、人間を独立した創造の産物だと考えることは、もはやできないだろう。


人間の胚が、例えばイヌの胚などと非常によく似ていることや、人間の頭蓋、四肢、全体の形態構造が、それぞれの部分がどのように使われているかということは独立に、他の哺乳類のそれと同じ設計によってつくられているということや、現在の人間は持っていないが四手類には共通にみられるようないくつかの特別な筋肉などが、ときどき人間にも出現することなどの、数多くの相似的事実は、人間が他の哺乳類との共通祖先の子孫であるという結論を、これ以上ないほど明白に指し示していると考えるわけにはいかないだろう。


神への信仰は、人間と下等動物とを分ける最も大きな違いとされるばかりでなく、しばしば差異のなかでも最も完璧なものと見なされている。

しかしながら、すでに見てきたように、この信念が人間に生得的、本能的なものであると主張するのは不可能である。


一方、すべてのものに存在する精霊のような媒体に対する信仰は普遍的に見られるようであり、それは人間の理性と力が相当に進歩したことと、想像力、好奇心、驚異などがさらに大きく発達したことから生まれてきたのだろう。


神に対する本能的な信仰心があるということが、神の存在そのものを証明していると、多くの人々が論じているのを私は知っている。

しかし、これは早まった議論である。

もしそうなら、われわれは、人間よりもわずかばかり強い力を持っているだけの、多くの残酷で悪意に満ちた精霊の存在をも信じなければならなくなるだろう。


そのような存在に対する信仰は、恩恵に満ちた神への信仰よりもずっと広く世界中に広まっている。

宇宙全体の創造者としての、普遍的で慈愛に満ちた神という概念は、長く続いた文化によって人間の精神が高められるまでは、人の心の中には存在しなかったのだろう。


論調がすごくドーキンス氏に似ている気がした。


逆なのだろうけど。


というか科学を追求すると宗教との対立になり


どうしても似てしまうのだろう。


人類の福祉をどのように向上させるかは、最も複雑な問題である。

自分の子どもたちが卑しい貧困状態に陥るのを避けられない人々は、結婚するべきではない。

なぜなら、貧困は大きな邪悪であるばかりか、向こう見ずな結婚に導くことで、それ自体を増加させる傾向があるからである。

一方、慎み深い人々が結婚を控え、向こう見ずな人々が結婚したなら、社会のよくないメンバーが、よりよいメンバーを凌駕することになるだろう。


すべての人々は、競争に対して開かれているべきで、最もすぐれた人々が、最も多くの数の子を残すことは、法律や習慣によって阻まれるべきではない

存続のための争いは重要であったし、今でも重要だが、人間の最も高度な性質に関する限りは、さらに重要な力が存続する。

自然淘汰は、道徳感情の発達の基礎をなしている、社会的本能をもたらした原因であると結論してかまわないだろうが、道徳的性質は、直接的にせよ間接的にせよ、自然淘汰によってよりもずっと強く、習慣、理性の力、教育、宗教、その他の影響を通して向上するのである。(※)


※=ここでダーウィンの指摘には、のちの優生学を導くもととなる考えがたくさん含まれている。

彼自身は優生学的な政策を提言していないし、人類の道徳水準の向上には、教育や習慣の方がずっと大きな役割を果たしていると述べてはいるものの19世紀の階級社会を背景にした当時の常識的思考からは、優生学的な考えが容易に導かれたのだろう。


自説をゴリ押ししているんじゃないよ、


検証の結果、事実なのよ、と読めるのは気のせいか。


さらに感じたこと、


あらぬ”優生学”とか


トンデモ本とリンクされてしまうのは


なんとなく感じていたけど、長谷川先生の説明で


腑に落ちたような。


当時の科学では未解明な部分を


グレーゾーンとすると


そこから派生して勝手解釈のもと


国家や個人に利用されてしまったのかなと。


訳者解説 から抜粋


本書は、そもそもヒトという動物の進化を論じるものである。

ところが、その大部分に性淘汰、つまり雄と雌の違いが論じられているのはなぜだろう?

そして、肝心のヒトの進化については、最初に簡潔に述べられるだけで、最後に長々と人種の違いが述べられるのはなぜだろう?

100年以上も前のダーウィンが、ヒトの進化を論じようとすると、ヒト全体とともに人種の成り立ちを説明せねばならなかったこと、そして、当時論じられていた宗教的な人種の成り立ちを説明せねばならなかったこと、そして、当時論じられていた宗教的な人種論とはまったく異なる人種論を展開せねばならないとダーウィンが強く感じていたこと、この二つを現代の私たちが理解せねば、本書の意図を理解することはできないだろう。


いまや、人種についてはたいした問題ではない

しかし、ダーウィンが本書で展開した議論は、その後ますます発展して、動物の行動生態学、生殖生物学、人類遺伝学、人類生態学、人間行動発生学として花開いているのである。

この発展の基礎を築いた大家として、ダーウィンの努力を賞賛したい

2016年8月 長谷川眞理子


ゲノムが明らかになっていなかったがゆえ


間違いも多いと言われるダーウィンの進化論は


上から目線で語られてしまいがちだけど


長谷川先生の愛ある翻訳と解説で


そうではないことを正され


ダーウィンの本意に近づくことに尽力されておられる。


それには時代背景を理解しないとって、これは


古い音楽とか映画とか文学とかにも通じるなあ、と


またまた自分のフィールドに持っていって


理解しようとする自己解釈の権化のような


自分を再発見した暑くなりそうな関東地方の


早朝で、ものすごく静かだけど、


子供の駆け足の音が聞こえたのは


夏休みだからか。暑いわけだよ。


 


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