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① 初歩から学ぶ生物学:池田清彦著(2003年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: Kindle版

はじめに から抜粋


2001年に『新しい生物学の教科書』(新潮社)を上梓した。

1999年から2000年にかけて、朝日新聞社から出ていた科学雑誌「サイアス」に

「教科書にない『生物学』ーー文部省検定の裏をよむ」

と題して連載したエッセイをまとめたものだ。検定教科書をだしにして生命の原理を述べたつもりであったが、現代生物学になじみのない人には、少し難しかったようだ。

生物学を知らない人でも二日で読める、と「はじめに」に書き付けて何人かの読者の方に

「ウソをつくな」と叱られた

それで本書を作る気になった。

具体例を厳選して、なるべく単純な話で生物学の原理を理解できるようにしたつもりだ。

今度こそ、生物学を習ったことのない人でも二日で読めるに違いない。

だからと言ってレベルが低いということではない。

扱っているのは、生命論、生態学、発生学、進化論、分子生物学等など各分野のホットな話題である。


第一章 生命についての素朴な疑問


1 生きているってどんなこと? から抜粋


「生きているとは何か」「生命とは何か」という疑問は、昔から多くの人の関心事であった。

この疑問に答えることは難しい

(略)

その昔、「生きている状態」と「生きていない状態」との間には根本的な違いがあり、その違いは単純に「魂のようなもの」の有無にあると考えられていた

この考え方を「生気論」という。

プラトンは、形あるものをそのものたらしめる本質を「イデア」と呼び、それ自身としてイデアは独立して実在すると考えていた。

ヒトはヒトのイデアがとりつくことによりヒトになり、ヒトのイデアが離れれば形あるものとしてのヒトは死んでしまうと考えた。

生気論に近い考えである。

ルネサンス以降、科学が発達してくると、生物も機械などと同様に物質でできていることが次第に理解されはじめる。

この頃、デカルトが「生物といえどもすべては非常に複雑な機械である」という「機械論」を提唱した。

その後、さらに多くのことがわかってくると、「生物はやはり機械のように単純なものではない」という意識が広まり始める。

デカルトでさえ、ヒトの心は身体とは別だと考えていた。

その結果、生物についての考え方は、

①生物は本当に複雑な機械なのか、それとも機械以上のものなのか、

②機械以上のものだとしても、魂や生気のようなものを物質とは独立に想定しないと説明できないのか

という疑問に応えるかたちで発展してきた。

現代生物学はどのような立場をとっているのだろう。

端的にいえば

「生命や心や魂が存在するとしても、それ自体として独立に存在しているわけではなく、物質からできている生物に附随して存在していることは間違いない」

という立場をとっている。

そう思わなければ、科学や生物学はその存在意義を失ってしまう。

霊魂や生気が物質とは独立に存在するならば、科学者や生物学者は、物質としての生物を調べる意味がなくなるからだ。

「生物は物質からできている」

という立場をとる現代生物学は、

「物質がどのような状態で存在していると、そこに生命という現象ができてくるのか」

ーーつまり、

「生物を構成する水、タンパク質、脂質、糖質、核酸(DNA)などの複雑な要素が、どのように相関しているのか」

を解き明かし、そこから

「生きているとはどんなことか」

を一般の人が納得できるようなかたちで説明しようとしている。


一方コンピュータや自動車などの機械も物質からできている。

まず、機械と生物とは何が違うのかから考えてみなければならない。

両者には似ているところもある。

自動車でも生物でも、外部からエネルギーを取り入れ、それを何かに変換して出力するという構造になっている。

ではどこかが違うのか。

さしあたって違うところは、生物には自律性があるが、自動車には自律性がないことだ。


自律性がありさえすれば生物かというと、そうともいえない

太陽光をエネルギー源として動く機械を考えてみよう。

集光器があって、適当な制御プログラムを組み込めば、勝手に動く機械を作ることはできる。

しかし、その場合でもこの機械は、自分を構成しているものを自分で作らないが、生物は自分で作る。

もちろん、どちらも物質でできているという点では同じといえば同じだが、機械はシステムを自分以外の他社がつくり、生物はシステムそのものを自分が作る。

傷の治療を考えてみよう。

コンピュータは古くなったり壊れたりしても、自分で自分を新しくしたり修理したりすることはできない。

誰かが直してやらなければならないが、人間をはじめとする生物の場合、多少の怪我や病気であれば自分で自分を治す能力がある。

自分で自分を治すことは、システムそのものを自分で構築することができることと表裏一体なのである。


現在、人間は精巧なロボットを作ることができるようになった。

しかし、システムを作っている物質自体を変えていくような機械(つまり生物)はまだ作ることができない。

どんなに精巧なロボットを作っても、ロボットはあくまで作られたままである。

生物は、見かけはさして変わらないように見えても、体を構成しているタンパク質などは日々変化している。

人間の場合、最も変化のない部位は骨である。

死んでも骨だけは残ることを考えても、骨という物質がなかなか変化しないことはうなずける。

しかし、骨といえども生きている限り、7年くらい経つと物質すべてが入れ替わる。

骨でさえ7年なのだから、10年前の自分と今の自分は、全く違う物質でできていることになる。

皮膚や細胞をはじめ、食道や胃も日々新しくなっているのだ。


今はAIが進化して、どの程度精巧にロボット、


できるのだろうか気になるけど。


それと、「生物」「生命」を考えるとどうしても、


生命科学者の柳澤桂子さんの論説が浮かんでしまう。


人間が踏み入れて良い領域なのだろうか、とか。


それと別に思うこととして、今は異なるようだけど


「生物は機械のようなもの」と考えていた昔の科学。


だけど、ノーベル賞の利根川さん、立花隆さんとの対話で


「人間は精巧に作られた機械みたいなもの、将来全てが解き明かされる」


と仰っていたのもなんだか被っているよなあ。


同じことを言っているのか、微妙に違うのか、とか考えあぐねる。


いずれにせよ、「生き物=精巧な機械」っていうのは、


納得しにくいのだけど、人間は7年で細胞レベルが


全部入れ替わるってのは養老先生がよく仰っていたのもあり、


池田先生の説明でアグリーでございますが。


 


自己同一性の維持 から抜粋


もう少し、「生きている」とはどういうことかを考えてみよう。

人間は十年前と今とでは自己を形成する物質が全て変わってしまっている。

にもかかわらず、「自分は自分だ」と認識している。

つまり、「自己同一性」という意識を持っている。

変化しているにもかかわらず、なぜ「自己同一性」が生じるのか。

人間以外の生物も意識よりもう少し低いレベルで自己同一性を維持しているように見える。

時計ならば、多少酸化したり、古くなって傷ついたりすることはあっても、十年前と今とで時計を構成する物質は基本的には変わらないので「同じ」だと言える。

ところが、生物は自分を構成する物質をどんどん変えながら、なおかつ全体としては同じという奇妙な「空間」なのである。

しかも、自身と外との関係を不変に定めない暫定的な状態のまま、その都度内と外を確定しつつ自分自身を保っている。

本当は変わっているにもかかわらず、同一状態を保っているかのようんな”モノ”なのだ。

 

これを「オートポイエーシス」といい、ギリシャ語で「自らを作る」という意味である。

生物はあらゆる意味で自分で自分を作り、それを常に現在進行形で行っている。

自分はいつも自分なのだが、「これが自分だ」という時点がなく、明日になれば自分が変わってしまう。

それでも自分を維持する作業を続けている。

これが生物であり、その特徴の根底をなしているのが、「物質が循環する」ということなのである。


オートポイエティックな生物 から抜粋


生物は38ー35億年前に生まれて以降、その後もずっとオートポイエティックなシステムだけは絶対に手離さず、それをただひたすら空間から空間へと伝えていった。

そう考えれば、遺伝を考える上で一番重要なものはDNAというようりもそのようなシステムそのもの、つまり生きていること自体なのである。

単純にいえば、DNAが遺伝されるのではなく、オートポイエティックなシステムが遺伝されてきているのだ。

現在でも、小学校や中学校の教科書では

「父親の精子と母親の卵子が合体して、新しい生命が誕生する」

などと記載されているが、それは誤りである。

生命はすでに35億年以前に誕生しており、その生命が今もただ継承されているだけであって、精子と卵が合体したときにはじめて誕生したわけではない。

精子も卵もそれ以前に生命なのである。

「生きているとは何か」「生命とは何か」という疑問を、科学や生物学で説明しようとすると、以上のような結論を導くほかない。

それが嫌だという人は、人間には霊魂があり、死んだ後も霊魂が残るというような考えを取るしかない。

もちろん、そう考えるのは個人の自由であり、それで世の中が説明でき、自分が納得できればいいのである。

しかし、生物学の立場からは、それは違うといわざるを得ないのである。


小学校・中学校レベルでの生命の誕生には、


池田さんのいうリアルを伝えるのは早計なのではないだろうか。


確かに池田さん指摘のように「誤り」なのだろうけど。


小・中学で伝えるべきは真実とか真理よりも、


大切なことがあるのではないかなと。


だから現実見てない平等バカが増えるんだよ、って怒られそうだけど。


余談で話ずれるけど、「生命の神秘」的な流れで思い出されるのが


上記でも引いた、利根川・立花隆さんたちのテレビ対談。


二人の相違点は、


「人間には生命の神秘なんてものはない」


「いや、それがないと…」


っていうのが押し問答されてて。


自分はもし答えなければならないとしたら


どちらを取るだろうか、なんて


この本、今回だけでは終わるのはもったいなくて


継続して研究しようと思っております。


お腹すいちゃったので、これには何にも勝るものない。


その後、お風呂・トイレ掃除もしないといけないし。


失礼します。


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