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コモンの再生:内田樹著(2020年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

まえがき から抜粋


「コモン(common)」というのは形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですけれど、名詞としては、「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒地」のことです。

昔はヨーロッパでも、日本でも、村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。

それを村人たちは共同で管理した。草原で牧畜したり、森の果樹をキノコを採取したり、湖を川で魚を採ったりしたのです。

ですから、コモンの管理のためには、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になります。


コモンの価値というのは、そこが生み出すものの市場価値の算術的総和には尽くされません。

そこで草を食べて育った牛の肉とか、採れた果実やキノコや、あるいは釣れた魚の市場価値を足したものがコモンの生み出す価値のすべてであるわけではありません。

それはむしろ、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りができる主体を立ち上げること、それ自体のうちにコモンの価値はあったのだと思います。

わかりにくい言い方をしてすみません。ちょっと問いの立て方を変えます。

「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りをする主体とは「謎」のことでしょう?

それは「私たち」です。そうですよね?

「私たちの共有するこのコモンを、私たちでたいせつにしてゆきましょう」という言明を発することのできる主体は

「私たち」です。

つまり、コモンの価値は、「私たち」という共同主観的な存在を、もっと踏み込んで言えば共同幻想を、立ち上げることにあった。「私たち」という語に、固有の重みと手応えを与えるために装置としてのコモンは存在した。そう僕は思います。


資本主義的に考えたら、別に土地なんか共有しなくてもいいわけです。

共有しない方がいい。

共有して、共同管理するのなんて、手間暇がかかるばかりですから。

使い方についてだって、いちいち集団的な合意形成が必要です。

みんなが同意してくれないと、使い方を変えることもできない。

そういうのが面倒だという人が

「共有しているから使い勝手が悪いんだよ。

それよりは、みんなで均等に分割して、それぞれが好きに使ってもいいことにしよう」

と言い出した。


実際に英国で近代になって起きた「囲い込み(enclosure)」というのは、この「コモンの私有化」のことでした。

それが英国全土で起きた。

その結果、私有地については、土地の生産性は上がりました。まあ、そうですよね。「オレの土地」なわけですから。

必死に耕して、必死に作物を栽培し、費用対効果の高い使用法を工夫した。

資本主義はそれで正解だったんです。

でも、それと引き換えに、「私たち」と名乗る共同主観的な主体が消滅した。


もともと共同幻想だったんですから、「そんなもの」消えても別に誰も困るまいと思った。

ただ、気が付いたら、村落共同体というものが消滅してしまっていた。

みんなが自分の金儲けに夢中になっているうちに、それまで集団的に共有し、維持していた祭礼や儀式や伝統芸能や生活文化が消えてしまった。

相互扶助の仕組みもなくなった。


その後「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」都市プロレタリアの惨状を見るに見かねたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって「コモンの再生」が提言されることになりました。

それが「共同体主義」すなわち「コミュニズム」です。


共産主義」という訳語だと、僕たちにはぴんと来ません(日常生活に「共産」なんて普通名詞がありませんからね)。

けれども、マルクスたちが「コミュニズム(Communism)」という術語を選んだときに念頭にあったのは、抽象的な概念ではなく英国の「コモン」フランスやイタリアの「コミューン(Commune)」という歴史的に実在した制度だったのです。


ですからもし、最初にマルクスを訳した人たちが「コミュニズム」を「共有主義」とか「共同体主義」とか「意訳」してくれたら、それから後の日本の左翼の歴史もちょっとは相貌が違っていたかも知れません。

僕がこの本で訴えている「コモンの再生」は、思想的には「囲い込み」に対するマルクスの「万国のプロレタリア、団結せよ」というアピールと軌を一にするものです。

グローバル資本主義末期における、市民の原子化・砂粒化、血縁・地縁共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために、もう一度「私たち」を基礎づけようというのです。


ただ僕はマルクスほどスケールの大きいことを考えてはいません。

僕が再生をめざしているコモンはずいぶん小ぢんまりしたものです。

かつて村落共同体が共有した草原や森、あるいはコミューンを構成していた教会とか広場とか、その程度の規模のものです。

いわば「ご近所」共同体です。


「共産」という言葉は確かに、誤解を生みやすいかも知れない。


ご指摘のように「意訳」されてたら違っただろうな。


内田先生の言説はわかりやすいし、とっつきやすい。


それに加えて情報量の凄さに裏打ちされた文章で


人生の苦楽が滲み出てて思慮深く、かつ爽快。


全くの余談だけど、


内田先生、「赤旗新聞」にも原稿寄稿されてて没に


されたってなことが、つい最近ご本人がツイートされてて、


そういえば先生「共産党」を支持してたな、と思い


個人的に思い出されることがあった。


自分の父親が、50歳すぎた頃だったか


車に轢かれて左手、右足が機能しなかった。


横断歩道じゃないところを渡っていたらしく


保険ですごく揉めてたってのは、まあいいとして。


その後、15年くらい経過。


要介護4だったか、暮らしていたマンションの


ドアのポストに毎日のように


「赤旗」新聞が来ていたようだった。


当時父は70歳くらい。


特に共産党を支持してたわけではない。


部屋の片付けに共に行っていた妻が


推測したことは


「偶然ではなく、誰かが入れてるのでは?」だった。


そこからさらに自分が推測、赤旗勧誘の方または


共産党に共鳴されたと思われるお方が


父がいたときに、来られて


多分父も家にいたので暇だったし


日本の行く末なんかで玄関先で話し込んで


共感したんだろうなと。


弱者に寄り添う党だからなんだな、と。


話は内田先生の書籍に戻りまして、


日本の政治についての質問で、2年以上前


コロナ禍の非常事態宣言を出すのが遅れ、


欧米と異なり、最終判断を各自治体任せに


なっていた頃(20年2月)この差や危機感の違いを


内田先生、一刀両断。


「国民は市民が作った人工物である」から抜粋


日本と欧米では「国家」のとらえ方が違うからだと思います。

日本人にとって政府は「お上」ですけれど、欧米では政府は「公共」です。

「お上」は文字通り天から降臨してきたものです。

人民よりはるか前から存在し、人民が死滅しても永遠に生き続ける。


でも、ヨーロッパの近代市民社会論における国家はそういうものではありません。

ロックもホッブスも言っていることはだいたい同じで、それは国家というのは、人間が自分達の問題を解決するために手作りした「装置」に他ならないということです。


彼らの説では、古代の人々は自己利益を最大化するために互いに争っていた。

「万人の万人に対する戦い」です。


歴史的事実としてそんなことが本当にあったかどうかは知りません。

けれども、とにかく「そういう話」を採用して、近代市民社会を基礎づけた。

国家というのは市民が身銭を切って作った人工物であるということになっている。

国家のやることに文句があったら「抵抗」したり「革命」したりする権利が保障されている。

アメリカの独立宣言にも、フランスの人権宣言にもそう明記しています。

自分が手作りしたものですから、使い勝手が悪くなったら修繕して使い延ばす。

当たり前のことです。


しかし、日本人はそういう考え方をしません。

なにしろ市民革命の経験がないんですから仕方ありません。

江戸時代の「うちの殿様」が明治になって「天皇陛下」にシフトして、敗戦の後「アメリカ」にシフトしただけで、日本の市民たちは、かつて国家に抵抗したことも、革命したこともないんですから。

自分自身の私権私財を自分の意志で抑制し、供出し、公共を立ち上げたという歴史的記憶がない。


もちろん、国は社会構築的な「つくりもの」だということを看破していた賢者はいました。

福沢諭吉は、「立国は私なり、公に非ざるなり」と言い切りましたけれど、残念ながらこのような国家感は広く人々に共有されたわけではありません。

日本人にとって「お上」は民の意志や生活と無関係にそこにいて、民を睥睨(へいげい)しています。

それが日本人にとっての「自然」なんです。

自分たちの日々の活動そのものが日々「公共」を基礎づけており、為政者は自分たちのために働く「公僕」であるという意識がわれわれにはありません。

「公僕(Public servant)」という言葉だけは知っていても、その言葉からイメージするものが何もない。

とりあえず、僕はこの文字列を見ても、何も思い浮かびません。

議員や閣僚が「公僕」でない以上、市民たちが「公民(citizen)」であるはずもない。

そういう名前の社会科の教科書があるそうですが、「公民」と聞いて、「ああ、あのことか」と得心するという人がどれだけいるでしょうか。


「公民」というのは、あるときは身銭を切って政府を支える義務があり、あるときは立ち上がって政府に抗う権利があると思っている人のことですが、そういう発想そのものが僕たちにはない。


実際に安倍内閣を

「われわれが権限を委託した機関」だと

思っている人は国民の10%もいないと思います。

半分以上の国民は

気が付いたらよく知らない人が首相になっていて偉そうにしているけれど、権力者に逆らっちゃいけないんじゃないの……」とぼんやりと思っている。


他の方も指摘されておりますが、


日本の政治は資本家抜きには存在できないような


構造になってしまっているので


欧米のようにはいかないのだろう。


さらに、「お上」と「公共」の違いというのが


内田先生の言説で腑に落ちるような、なんとも言えない


残念っぷりでございます。


「あとがき」から抜粋


ほとんどが時事ネタなので、中には数年前のこともあり、「これはいったいいつの話だ?」と遠い目をするようなトピックもあったと思います。

僕は未来予測についてはわりときっぱりと「言い切る」ことにしています。

ですから、「安倍三選は九分九厘ない」とか断言しているのを読むと、ちょっと赤面します。

でも、予測が外れたからといって、そういう不都合なテクストを抹消するというのはちょっとフェアじゃないような気がして、そのまま残しました。


改ざんしねえぞ、これも自分のキャリア、引き受けるぜ、という


武道家スピリッツなのか、そういうタチなのか。


どちらもなんだろうね、かっこいいっす。


親近感湧き出ずるのは、母親の旧姓と同じだからか。(関係ねえだろ)


他にも引きたい文章がたくさん。


明治以降、日本と西欧との関わりとか、


日本の政治の低迷っぷりとか


コロナ禍、後の世界とか興味満載、


内田節炸裂な自分にとってユニークな書籍だった。


養老先生の書籍もそうだけど、


時事ネタと絡めた御大の言説って面白いし


時期外れると嘘みたいに安く売られているから、


高所得じゃない自分は本当に助かる、古書店。


この書籍も少しすれば安くなるかもしれないので、


そしたら買います。


借りててすみません。(誰に謝ってんだよ)


でも、これもコモンだよね、図書館の本って。


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