2冊の”サピエンス異変”から”甘いニンジン”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 飛鳥新社
- 発売日: 2018/12/20
- メディア: 単行本
から抜粋
私がはじめて腰痛を経験したのは、1990年代はじめにコンピュータを使い始めたころのこと。
新しい勤務先の私のオフィスには椅子があり、机は窓際にあって、そこからの眺めは素晴らしかった。
まだすべてが単純明快な時代で、マウスにはボールがあった。
不埒な輩がまだ電子メールを発明していなかったから、郵便受けは書類や学内郵便で溢れていた。
このライフスタイルが私の腰痛の原因である。
私の身体が現代生活を送るには軟弱すぎたわけではなく、人体はそもそもこのような生活を送るようにできていないのだ。
現在では、どのような姿勢であれそのまま動かないことが腰痛の原因の一つであることが知られている。
しかし、これは私の物語ではない。
私は、身体が現代生活によって変えられてしまった数十億人の一人に過ぎない。
この本を読んでいる方々の多くは、自然死ではなくミスマッチ病による死を迎えるはずだ。
だがそれは、正しい(あるいは誤った)DNAを持って生まれてきたからではない。
ミスマッチ病は、身体とその身体が置かれた昨今の環境との緊張関係によって生じると考えられている。
これらの病気はいずれも私たちになじみ深い。
たとえば、2型糖尿病派人類の誕生時から発生したものの、旧石器時代のヒト族(ホミニン)の環境と食事ではこの病気の遺伝子が発現することはほとんどなかった。
当時、この病気につながるような加工食品も甘い食品もほぼ存在しなかった。
時を200万年下ると、同じ遺伝子が有害な環境にさらされている。
今や、アボガド一個よりジャム入りドーナッツを一袋買うほうが安い。
「人新世」とは何か から抜粋
種としての自分たちの営みが環境に与えてきた甚大な影響にもとづいて命名された、人類史上で特異な時期を迎えようとしている。
一年前のこと。英文学部のゼミで19世紀の文豪チャールズ・ディケンズと都会の暮らしについて講義していた時、私はこんな比較的やさしい問いを学生たちに投げかけた。
「私たちは何という地質年代にいるのだろうか?」
地質年代は19世紀に定義されたものの、定義した当の専門家たちは地質年代がどれほど古くさかのぼるのかを把握していなかった。
数千年、たかだか数百万くらいだろうと考えていたのだ。
しかし、20世紀初頭に放射年代測定法が確立されると、地球の地質年代が45億年前までさかのぼることがわかった。
歴代の地質学者による努力のおかげで、私の質問には少なくとも一つの正しい答えがある。
だが、実はもう一つ別の答えもある。
一つ目の答えは、約1万1700年前に最終氷河期が終わったのちにはじまった「完新世(かんしんせい)」である。
完新世にまつわる不思議な現象の一つに、その期間がかなり短いことがある。
たとえば、その前の「更新生(こうしんせい)」(人類はこの時代に進化した)は何と250万年続いた。
最終氷河期は人体にとって過酷だった。
寒冷期と温暖期が少なくとも20回にわたって交互におとずれ、地球上の温度はいまより平均5度低かった。
大量の水が巨大な氷柱に固定されて大気中の水分が少なくなったため、地球は極度に乾燥していた。
仮にこれらの厳しい寒冷期がなかったら、現在の地球上に私たちと異なる人類種も現存していたかもしれない。
二つ目の答えは、「人新世(じんしんせい)」(アントロポセン)だ。
この用語は「人間」を意味するギリシャ語(anthropos)と、「近年」または「新しい」を意味するギリシャ語(kainos)に由来する。
数年前にこの造語を発案したのは、ノーベル賞を受賞した大気化学者のパウル・ヨーゼフ・クルッツェンだった(ただし1873年に、イタリアの地質学者アントニオ・ストッパーニが「人類の地質時代(anthropozoic era)」という類似の用語をすでに提案している)。
人新世という言葉はまだ一般にはあまり知られていないが、もうすぐそうなる。
この本の英語版が出版されて一年くらいのうちに、正式な地質年代名として認められる予定になっているからだ。
人類が狩猟採集から農耕への移行によって周辺環境との関係を大きく変えた結果、今度は人類の身体が変わり始めた。
新たな食性によって胃だけでなく顔まで変わった。
もともとあった歯の数(いまでも同じ)は必要な数を超えてしまった。
食事が柔らかくなった結果、あごが十分に発達して広がらず、不正咬合(こうごう)が生じた。
炭水化物中心の食事は虫歯の増加につながった。
私たちの遺伝子も何とかこうした変化についていこうとするが、一貫性に乏しく速度も遅い。
つまり、ここに進化の出番はないのだ。
健康や幸福、繁殖期の痛みや病気について、進化は気にもとめない。
一万年は、種全体の時間から見ればあまりに短い。
しかし、私たちはその短い時間であくせくと世界を変えてきた。
岩石圏を変え、多種に介入し、海洋を汚染し、地層に穴を掘った。
人新世を生きる人類の身体はすでに変わり果てているが、それは進化のせいではなく、自分たちが作り出した環境に対する身体の反応によるものだ。
新たな科学的発見、新たなライフスタイル、労働パターンの変化、社会状況の変容、そのほか無数の変遷、改善、イノベーションによって、私たちが変えてきた環境もまた密かに私たちを変えてきたのだ。
訳者あとがき
2018年11月 鍛腹多惠子
から抜粋
人新世はあと一年ほどで国際地質科学連合に正式に認定される予定になっている。
この新たな地質年代「人新世」を生きる私たちの身体に今激変が起きている、というのが本書の著者の主張だ。
著者はさらに、ある気掛かりな可能性を指摘する。
人新世の影響で、作物がかつてより大量の糖を生産するようになり、ほかの栄養素が減っているかもしれないという。
いまあなたが食べているニンジンは、しばらく前のニンジンとは別物だというのだ。
原因は複合的と思われる。
おそらく、私たちが甘い作物を好み、作物の収量と外見を優先したことが主な原因だろう。
著者にいわせれば、人新世のニンジンは私たちそのものなのだ。
私たちはどんどん身体を使わなくなってきている。
昔ほど歩かないし、カロリー過多の食物を好んで食べ、座りっぱなしで、とかく快適を求める。
巻末近くで、著者はこう提案する。
これからも身体を手放したくないなら、身体の本来の機能を理解し、その能力を十分に活かすことを心がけよう、と。
第2章 経済はAI化でどう変わるか
対談相手;井上智洋
身体性が置いてきぼりにされている
から抜粋
養老▼
いま、自宅に『サピエンス異変』という、イギリス人が書いた本があるのだけれど、要するに、人間は自分が作った社会に身体が適応していないという話なんですよ。
だから、世界中の人が腰痛だと(笑)。
人間は本来歩いてないといけないのに、椅子に座る生活って変だよと言っている。
そうすると、うんと根本のところで考えてみれば、AI導入で社会がどう変わるかを議論する前に、人そのものをどう見るかが大事なんだよね。
結論から先に言っちゃいますけど、僕が一番危惧しているのは、「それなら人間を変えればいいでしょ」という意見も必ず出てくるんじゃないかっていうこと。
アメリカでは、現実にそういう動きが出てきていますね。
井上▼
「人間を変える」と言っても、どう変えるんでしょう?
養老▼
AIであろうがなかろうが、新しい社会システムに合う人間を作ればいいんだという考え方ですよ。
シリコンバレーなんかでよく、「ヒューマン・エンハンスメント」という言葉が使われていますよね。
エンハンスメントは「改良」です。
マイルドに言えば、人間の人工的な進化っていうことなんだけど、もっと刺激的に言えば、「人間を改良すること」。
それを、ヨーロッパでは非常に早くから法律で禁止しています。
人の遺伝子をいじることも含まれますから。
中国は、この手の研究に関して、一切禁止していない。
日本はアメリカに準じていて、委員会制度があって、委員会がうんと言えばいいという形です。
ヨーロッパは法律的に人の遺伝子をいじること自体を禁止している。
だから、世界の国々でも、人の改造をどう捉えるかについては、温度差がある。
そもそのAIは人が使っているものですから、問いの立て方は二つあるんです。
一つは、AI自体がどういう変化を遂げていくか。
もう一つは、それを使っている人間の方をどう考えていけばいいのか。
こういう扱いの難しい問題にどう対処していくかは、一筋縄ではいかなくなってきた。
国際的にも格差が大きくなってきちゃったからややこしいんですよね。
僕ね、あるテレビ番組を観ていて、世界の南北の格差って、ここまで開いているんだと感じたことがあったんですよ。
その番組では、一方でベネズエラの人たちが給料をいくらもらっているかが取り上げられていた。
せいぜい月給100ユーロとか200ユーロとか、そんなものです。
その一方で、スウェーデンの食事情も取り上げていて、スウェーデンでは和牛が流行っているらしいんだけど、和牛ステーキのレストランの価格が、日本円で一食5万6000円と言ってましたよ。
井上▼
うわっ、高い!
養老▼
南北の格差は、昔から無視できない問題ですけど、ここにきて顕著になってきた気がしますね。
中国が台頭してきたから、欧米とそれ以外の国々との違いが目立たなくなっているようにも見えるけれど、ITで力をつけてきたインドなんかだって、未だに深刻な貧困を抱えていますよね。
井上▼
格差を拡げる要因はいろいろあるんでしょうけれど、養老さんの言葉をお借りすると「脳化社会」の極みみたいなところにAIがあって、結局のところ、「脳化社会」を進めるほど、格差は深刻さを増していくと。
そういう捉え方でいいんでしょうか?
養老▼
そうですね。
ある意味、世界は多様になった。
とすると、AIに関して各国がどう取り組んでいくかに温度差が出てくるのは、必然なんでしょうね。
一方で端がAI側の苛烈な開発に行き、もう一方の端が人間の改造に行く、みたいな形で。
井上▼
AIのみにフォーカスするのではなく、一歩引いたところから「脳化社会」がもたらしたある種の「多様さ」に目を向けると、格差問題が加速する社会の構図が、よりクリアに見えてきますね。
「AIショック」に人間の身体は耐えられるのか?から抜粋
養老▼
おそらく遺伝子型というのは、我々の身体をずっと作ってきた情報系ですけど、改変するのにものすごく時間がかかるんです。
一万年前から百万年という単位の年月がいる。
人間が登場したのは700万年前ですから。
ところが、それを補完するために、動物は何をしたかというと、神経系を作ったんですね。
神経系で学習すれば、非常に早く行動を変えることができる。
だから、遺伝子型が作ってきた身体というシステムと、神経系がやっていること、いわば脳が作ってきた社会ですね。
これがマッチングしなくなっちゃっているんだと、だから人間は身体の方から具合が悪くなったという点を議論した本なんですね。
作者は人類の進化史の観点から俯瞰して、実に丁寧に書いています。
『サピエンス異変』は、章ごとのまとめがあり
そこでは、作者自身も身体性を取り戻すための
具体策が書かれていて非常に興味深い。
同じ著者の他の書もあれば読んでみたいと
思ったりもしたが検索しても出てこなかった。
それにしても身体性がなくなっている
このような時代に、だからこそなのかも
しれないが”AI”や”ChatGPT”が台頭している
というのも皮肉というか象徴的というか。
”人新世”は、日本では斎藤幸平先生で
知名度を上げたように思うけれども
さらに当時登録認定真っ最中だったという
どこに向けての登録なのか、よくわからないし
どちらが早いというのもあまり興味はないので
ございますが『サピエンス異変』に話戻しまして
改良された見た目の良い甘いニンジンは
今の人類そのものだ、というのはものすごく
身につまされ刺さるキーワードだと感じた
書籍なのでございました。
2冊のO・サックス博士と1冊のアシモフ博士から”音楽と脳”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/09/30
- メディア: Kindle版
序章から抜粋
種全体ーー何十億という人間ーーが、意味のない音のパターンを奏でたり聴いたりしているのは、見ていてなんとも奇妙なものだ。
みんなが長い間、「音楽」なるものに勤しみ、心を奪われている。
少なくとも、アーサー・C・クラークの小説『幼年期の終り』の中で、知能の高い宇宙人「オーバーロード」は人間に関するこの事実に当惑した。
彼らは好奇心に駆られて地上に降り、コンサートに行って行儀よく耳を傾け、最後には作曲家の「すばらしい創意」をほめたたえる。
しかし、やはりその営み全体は理解できないと感じていた。
彼らは人間が音楽をつくったり聴いたりするとき、その内部で何が起きているのか思いもつかないのだ。
なぜなら、彼らの中では何も起こらないからである。
オーバーロードという種に音楽はない。
オーバーロードのように音色や旋律を認識する神経器官がない人間は滅多にいない。
それにしても、積極的に求めるかどうか、あるいは自分をとくに「音楽好き」と思うかどうかにかからわず、ほぼ全ての人間が音楽に大きな力を感じる。
この音楽に対する性向ーーこの「音楽愛(ミュージコフィリア)」ーーは、幼児にも見られ、あらゆる文化の中心にはっきり表れており、おそらくその起源は人類誕生まで遡るだろう。
それは私たちが生きる文化によって、生活の環境によって、あるいは個人が持つ特定の才能や弱点によって、育まれたり形成されたりするものかもしれないーーが、人間の本質のとても深いところにあるので、人はそれを持って生まれたと考えたくなる。
E・O・ウィルソンが、生きものに対して私たちが抱く「生命愛(バイオフィリア)」がそうだと考えたのと同じだ(音楽自体がまるで生きもののようにも感じられるので、ひょっとすると音楽愛は生命愛の一種かもしれない)。
鳥のさえずりには明らかな適応的用途(求愛、攻撃、縄張りの主張など)があるが、構造的には比較的固定されており、大体において鳥類の神経系に組み込まれている(ただし、即興で作曲したり、デュエットを歌ったりするように思われる鳴き声も、ごくわずかだが存在する)。
人間の音楽の起源はもっとわかりにくい。
これはダーウィンもどうやら困惑したようで、『人間の進化』にこう書いている。
「楽譜をつくる楽しみも素質も人間にとってはほとんど無用の能力なので…最も不可解な才能の部類に入れなくてはならない」。
そして現代では、スティーヴン・ピンカーが音楽を「聴覚のチーズケーキ」と呼び、こう問いかけている。
「ポロンポロンと音を立てることに時間とエネルギーがを注いで、どんなメリットがあり得るのだろうか。…生物学的な因果に関する限り、音楽は無用である。…音楽が人類から失われたとしても、その後の私たちのライフスタイルはほとんど変わらないだろう」。
ピンカー自身はとても音楽好きで、音楽がなければ自分の生活をひどく味気ないと感じるだろうが、音楽をはじめどんな芸術も、直接的な進化的適応ではないと考えている。
私がはじめて音楽について考えて書こうと気になったのは、1966年、後に『レナードの朝』に書いた重たいパーキンソン病患者に対して、音楽が深い影響を与えるのを見た時のことだ。
「音楽」は、私が神経学や生理学の新しい教科書を手にした時、索引で必ず真っ先に調べる項目の一つだ。
音楽の病歴が少ない理由の一つは、医師が患者に音楽知覚に関する障害について尋ねることがほとんどない事かもしれない。
(それに反して、例えば言語に関する問題はすぐに明るみに出るだろう)。
音楽が軽視されるもう一つの理由は、神経学者が好むのは説明であり、推定される機構の発見であり、記述であることだ。
そのため、1980年代より前には音楽の神経科学はないに等しかった。
しかしこの20年の間に、人が音楽を聴いたり、イメージしたり、創作したりしている時の、生きている脳を見ることができる新しい技術のおかげで、状況は一変した。
今では、音楽の知覚と心象、そしてそこに起こりがちな複雑でしばしば奇妙な障害の神経基盤について、膨大な数の研究がなされており、しかもその数は急速に増えつつある。
このような神経科学の新しい洞察はなんとも胸躍るものだが、単純な観察術が失われる危険、臨床記述がおざなりになり、人間的背景の多様性が無視される危険も、つねにつきまとう。
明らかにどちらのアプローチも不可欠で、「旧式」観察と記述を最新技術と融合させる必要があり、私は本書に両方のアプローチを組み込もうとした。
しかし何よりも、私は患者と被験者の話に耳を傾け、彼らの経験を想像し、共感しようとしたーーそれこそが本書の核である。
サックス博士の真摯な態度が現れていると感じた。
いきなり余談、養老先生の言説で最近の医療は
データ=統計になっていると。(医療の功利化)
ちょっと表現は異なるが”アナログ”も”デジタル”も
サックス博士は、二つの合わせ技が良いと提唱。
世の流れもあるのだろうけれど、自分も僭越ながら
それが良いと思ったり。時は戻せないもの。
しかしながら、なんでも一辺倒に傾くのは
どこか恣意的なものを感じるってことを
書くことは池田清彦先生の著書を多く
読んでるからってことを言いたいだけでした。
それにしてもこの”序説”だけでも
気になる人の名前がバンバン出てくるな。
さらにこの大著、自分が気になった章は
第29章 音楽とアイデンティティ/認知症と音楽療法
が最も興味深かったが、端折ると意味をなさないため
ここには引けませんが、我が身を振り返り
ちと思い出したことが。
養老先生が書かれていた耳の機能だけは
最後まで残るってのを知っていたので
自分の母親が病室で亡くなる間際耳元で
「ありがとう!」と言ったのだった。
訳者あとがき
2010年7月 大田直子
原題Musicophiliaの-philiaは愛を意味するギリシア語に由来し、「〇〇びいき」や「〇〇マニア」など、何かに対する偏愛を意味する接尾辞として使われ、医学用語ではたとえば小児性愛のような病的な嗜好を表現することもある。
この-philiaとmusicを組み合わせたmusicophiliaは、たんに音楽が好きというよりも、日常生活に支障をきたすほど音楽にのめり込むことを意味すると考えられる。
このような音楽に対する人間の異常な身体的・精神的な反応について、脳神経学の専門家である著者が「神経作用との生理学的な相関があるはずだ」として、豊富な症例を考察しているのは本書である。
ふつう、音楽は人間の心や生活を豊かにするものと思われている。
ところが本書には、音楽に人生を乗っ取られた人、音楽を聞くと気を失う人、頭の中でつねに音楽が鳴り続けている人など、音楽に苦しめられている人が大勢登場する。
音楽を演奏しているときだけ、本来の自己を取り戻すことができる人、音楽の助けを借りてはじめて話や運動が正常に行える人、音楽がなければ人とのコミュニケーションが難しい人など、音楽が必需品とも言える人が大勢登場する。
しかも音楽はどんな文化においても発達し、中心的存在になっている。
ことほどさように、人間にとっての音楽とは不可思議で不思議なものである。
本書はどうやって音楽を認識し、処理するのか、その脳や神経の基盤を探る試みなのだが、
「人間の脳には単一の音楽センターが存在せず、脳自体に散在するたくさんのネットワークが関与している」ため、まだまだ解明されていない要素が多々ある。
本書の多彩な症例を読んでいると、やはり最終的に「音楽は神の恵みであり、恩寵である」と感じる部分が残るのではないかと思えてくる。
音楽と脳の関係、または病になってからの
音楽との関わりの発芽と因果関係など
不明点が多いのだろうとのご指摘。
”音楽センター”という特定の脳の部位で
音楽を司ってはいないのだろう、それは
芸術もしかりだろうなと。
第3章 柔らかな脳ーーオリバー・サックス
音楽やアートの能力が、突然現れることもある
から抜粋
吉成▼『音楽嗜好症』に書かれているように、もし雷に打たれることで音楽に対する興味が一挙に湧き起こるものであるとすると、音楽の能力というものは、視力のように何年にもわたる大脳皮質への入力を必要とするような類のものとは異なるということでしょうか。
サックス▼
音楽は何もないところからは生まれません。
「青天の霹靂」という言い方はあっても、実際は何もないところからは何も出てこないのです。
ですから余計に、全くクラシック音楽に興味のなかった男が、雷に打たれて変わる話が刮目(かつもく)に値するわけです。
雷に打たれて心臓が30秒ほど停止し、ある種の視力喪失(Anopsia)が起こり、脳の変換が起こったのでしょう。
いろいろな意味で、彼はこの後違った人間になっています。
より宗教的、神秘的になり、深く音楽的になった。
吉成▼
音楽の処理には脳のどの部分が関係しているのでしょう。
サックス▼
言語処理の機能は左の前頭葉と側頭葉に偏在しているわけですが、音楽は、リズム、ピッチ、感情、音程など、さまざまな要素が絡んでいるので、その処理には実はたくさんの脳の部位が関与しています。
音楽や視覚の能力は一般的に右脳で処理されているようですが(プロの音楽家は左脳で音楽処理をするというデータもある)、二、三歳になる頃に言語の発達すなわち左脳の発達によって、右脳の発達がやや抑止されるようになっているらしい。
従って、一旦抑止する側(左脳)に損傷が起こると、抑止されていた側(右脳)が解放されるという見方もできるかもしれません。
吉成▼
要するに音楽の能力は領域特定化している、すなわち他の領域と関連していないということですね。
サックス▼
はい、領域特定化しているようです。
文学や政治の世界では、こういう形での早熟ないし天才というのはないでしょう。
こういう分野は、経験や感情、回顧、自己確立などが重要になってきて時間がかかるからです。
領域特定化はしているが、どこが
影響しているかはネットワークが
解明されていないから難しい、
と読めるのでございますが、合ってるかな。
全体で一つみたいな、まさに中村桂子先生の
生きもの、生命誌にもつながるような。
違ってるかい?思い込みも甚だしかったり。
ちなみにこの書、齋藤孝先生が絶賛されてた。
吉成真由美さんって利根川博士夫人だったのだね。
どうりで高いインテリジェンスを兼ね備えていて
サックス博士以外にも、この書では
チョムスキー、ジャレド・ダイアモンドと
別の書ではドーキンス博士と
拮抗した知性で対峙しているわけだと得心。
いずれにしても脳のことって
わからないこと多いと。
アリストテレスまで遡るのだけど
脳は血液の温度上昇を
下げるだけの能力を司っていると
思われていたとこの書にはございました。
初版は1964年!
ただし、アリストテレスさんの
名誉のために付記させていただければ、
生命は緩やかな変化をするという考え方を
一等最初にされたと書かれていて、
ま、自分がアリストテレスさんに
気遣うまでもなく、疑う余地のない偉人であることは
周知の事実、ところでアシモフ博士のこの書は
とてつもなく深く別に論考したいと感じたのでした。
脳のことに話戻して、研究進んでいるとは思いますが
まだまだ未知のことが多そうで
そこからただいま現在までの事考えるだけで
なんだか、頭が破裂しそうな体調不良かつ
気圧不安定な関東地方、そろそろ朝食
取りたいと思います。