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ドーキンス博士の稀代の名著を読み始めたの記 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

利己的な遺伝子: 増補改題『生物=生存機械論』 (科学選書 9)利己的な遺伝子: 増補改題『生物=生存機械論』 (科学選書 9)


  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 1991/02/28
  • メディア: 単行本

ついにこの時が来ましたです。


この書を読み始めたのでございます。


前提知識がついたから読みやすいとはいえ


やはり難しいのだけれど


なぜ今読んでいるかというと2つ理由があり


Spotifyで解説しているポッドキャストがひとつ


そしてもうひとつ強力なのが


本日NHKで小網代(こあじろ)の魅力を伝える


昼の番組に岸由二先生が出ておられたからで。


まったくの偶然で思わず録画。


しかし、岸先生を観て、一体何人がドーキンスを


連想しただろうかと勝手に嘆きつつも


そんないわれは番組制作者も視聴者も


まして岸先生ご自身もないぜよと思ったりも


したけれど読み始めのきっかけになったのは


良かったと。


1976年版へのまえがき


から抜粋


この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい

イマジネーションに訴えるように書かれているからである。

けれどこの本は、サイエンス・フィクションではない。

それは科学である

いささか陳腐かもしれないが、「小説よりも奇なり」という言葉は、私が真実について感じていることをまさに正確に表現している。

われわれは生存機械ーーー遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。

この真実に私は今なおただ驚きつづけている。

私は何年も前からこのことを知っていたが、到底それに完全に慣れてしまえそうにない。

私の願いの一つは、他の人たちをなんとかして驚かせてみることである。


私は行動生物学者(エソロジスト)であり、これは動物の行動についての本である。

私は自分がトレーニングを受けてきたエソロジーの伝統に、明らかに多くを負うている。

とくに、ニコ・ティンバーゲンは、私がオックスフォードの彼のもとで研究していた12年間に、私にどれほどの影響を与えたか、きっとわかっていないに違いない。


「生存機械」という言葉も、実際には彼の造語ではないにせよ、おそらくそれに近い。

けれどエソロジーは最近、常識的にはエソロジーに関わりがあるとはみなされていないところから来た新鮮なアイディアの侵入によって活気づけられてきた。

この本は大幅にこのような新しいアイディアを基盤として出来上がっている。


想像上の読者たちは敬虔な期待と願望の目標とはなってくれるかもしれないが、現実の読者や批評家ほどの実際の役には立たない。

私にはどうも改定癖があって、メリアン・ドーキンスが毎ページ、毎ページの数限りない書き直しを読まされる羽目になった。

生物学の文献に関する彼女の莫大な知識、理論的な論争についての彼女の理解、そして彼女の絶えざる激励と精神的支持は、私にとってこの上なく大切なものであった。


1989年版へのまえがき


から抜粋


利己的遺伝子説はダーウィンの説である。

それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやり方で表現したものであるが、その妥当性をダーウィンは直ちに認め、大喜びしただろうと私は思いたい。

事実それは、オーソドックスなネオ・ダーウィニズムの論理的な発展であり、ただ目新しいイメージで表現されているだけなのだ。

個々の個体に焦点を合わせるのでなく、自然の遺伝子瞰図的見方をとっているのである。

『延長された表現型(The Extended Phenotype)』の初めの数ページで、私はこれをネッカーキューブの例えを使って説明した


今私はこのたとえがあまりにも慎重すぎたと思っている

科学者ができる最も重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合が多い。

ネッカーキューブの例えは、誤解を招く。

なぜならそれは、二つの見方が同じように妥当だと思わせるからである。

確かにこの例えは、部分的には正しい。

「見方」というものは、学説と同様、実験によって判断できるものではない。

検証とか反証とかいう、我々がよく知っている判断基準に訴えかけることはできない。

けれど見方の転換は、うまくいけば、学説よりずっと高遠なものを成し遂げることができる。

それは思考全体の中で先導的な役割を果たし、そこで多くの刺激的かつ検証可能な説が生まれ、それまで思ってもみなかった事実が明るみに出てくる。

ネッカーキューブの例えは、このことを完全に見逃している。

それは見方の転換というアイディアは表現しているが、その価値を正当に評価することができていない。

今ここでわれわれが語っているのは、もう一つの等価な見方への転換ではなくて、極端にいうなら、一つの変容(transfiguration)についてなのだ。


私は自分のささやかな貢献がそのように位置付けされることを、できるだけ早く放棄したいと思っている。

とはいえ、この類いの理由から、私は科学とその「普及」とを明確に分離しない方が良いと思っている。

これまでは専門的な文献の中にしか出てこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、難しい仕事である。

それには洞察にあふれた新しい言葉のひねりとか、啓示に富んだ例えを必要とする。

もし、言葉やたとえの新奇さを十分に追求するならば、ついには新しい見方に到達するだろう。

そして、新しい見方というものは、私が今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりうる。

アインシュタインはけっしてつまらない普及家ではなかった。

そして、私は、しばしば、彼の生き生きしたたとえは、後の人々を助けたという以上のものであったのではないかと、思ったことがある。

それは彼の独創的な天才を燃え立たせもしたのではなかろうか?


改訂した際に、12章と13章をまったく新たに


付け加えたと記され


13章にはこんなことが書かれている。


13章 遺伝子の長い腕


から抜粋


本書のいくつかの章では、実際に生物個体を、そのすべての遺伝子を未来の世代に最大限の成功度で伝えようと努める一つの担い手と考えてきた。

われわれは、動物の個体がさまざまな行動方針について、複雑な経済学的”擬似”計算をするかのごとく想定してきた。

しかし別の章では、根本的な理由づけは遺伝子の観点から提供された。

遺伝子の目で見た生物観なしには、生物がなぜ、たとえば、自らの長生きよりも、自らやその血縁者の繁殖成功度に「心を配る」必要があるのか、特別な理由がなくなってしまう。


この二通りの生物の見方のパラドックスを、どのようにして解消すればよいのだろうか。

それに関する私自身の試みは『延長された表現型』にくわしく書かれている。

この本は、私の学者としての生涯において達成した他のいかなる事柄よりも誇らしく、喜ばしいものである。

この章は、その本の二、三のテーマの簡単なエッセンスであるが、本当はほとんど、今すぐ読むのをやめて『延長された表現型』に切り替えなさいと言いたいくらいなのだ。


そこまで言われちゃあ、合わせて


読みたくなるでしょう、普通は!


一回ざっと読んだのを思い出したけれど


難解すぎて本文を覚えてない…。


日高先生の解説しか思い出せない。


さらに『ブラインド・ウォッチメーカー』と


ドーキンス博士初期の3冊セットで


読んでみたいと強く思ったのでございますが


財力と時間がないし、古書店にも


ドーキンス博士はほぼ見かけないのだよなあ。


それは置いといて、ひとまずここまでの


感想ですが、凄まじく文章に惹きつけられるのは


比喩が深く幅広く表現力が光り輝いているよう


感じるからで、天才なのだろうなあこれはって


そこは自分が言わなくてもみんな知ってるよ!


じゃなんなのよ、と問われれば深淵なる知性に


恐れおののき読んでてぶるぶるするわー、


でもローレンツ博士の『攻撃』への


反論の余地って?書いてはあるけども


と思っております夜勤明けなのでございました。


 


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池田先生・井上先生の書から”未来”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

池田清彦先生の書のどこかに


(どれか探せなくて申し訳ありません)


これからの日本は”ベーシック・インカム”で


MMT”を勉強して理解しないとあかん


とあったので気になっておりまして


井上先生の書を読んでみたのですが


結論から言うとこれは井上先生のMMTで


自分の皮膚感覚にまで落とせないなあと


一筋縄ではいかないと思ったのでした。


読んでわかろうとするなんざあ、


100年早い、100年人生とはいえ、


ということにも気がついた。


そことは別にこの書を読んで


もっとも驚いたこととして


平成の終わり、令和の初め、コロナ禍以前に


これを唱えてたのはさすがとしか


言いようがないです。



MMT 現代貨幣理論とは何か (講談社選書メチエ)

MMT 現代貨幣理論とは何か (講談社選書メチエ)

  • 作者: 井上智洋
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/12/11
  • メディア: Kindle版

はじめに から抜粋


平成の30年間は、失われた30年で終わりました。

この時代に私たちは、多くのものを失ってきました。

デフレ不況とそれに伴う政府支出の出し惜しみによって、少なからぬ国民が生活の安定や人生そのものを失いました。

企業はイノベーション力を、大学は科学技術力を、家計は消費意欲を、若者はチャレンジ精神をそれぞれ失いました。

我が国の国力衰退は、目を覆わんばかりです。


この国を再興するには、デフレ不況からの完全な脱却を果たす以外にありません。

そのためには「拡張的財政政策」を大々的に実施する必要があります。

「拡張的財政政策」というのは、税金を減らして財政支出を増やす事です。

そうすると政府の借金は増大します。

ですが、財政の拡大なくしてデフレ不況からの脱却はありません。

それを怠ったために、失われた10年は20年となり、30年近くにまで延長されました。


それにもかかわらず、2019年10月に消費税が増税され、政府支出の出し惜しみも続いています。

デフレ不況という長く暗いトンネルの出口には、まだたどり着けそうもありません。

ではなぜ、政府は経済を衰退させるような、こうした自滅的な政策を取り続けるのでしょうか?

それは日本が財政難に直面していると危惧されているからです。


ところが、「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)」、頭文字をとって「MMT」という経済理論に基づけば、過度なインフレにならない限り、財政支出をいくら増やしても問題はない(つまり、財政危機なるものは存在しない)と主張することができます。

MMTは、非主流派の経済理論、つまり一般的な経済学の教科書には載っていない理論です。

主流派の経済学者からすれば、MMT派は「異端派」ということになります。


私は、大学の講義で「ミクロ経済」とか「マクロ経済」といった主流派の経済学を教え、学術的な論文も主流派のフレームワーク(枠組み)にしたがって書いています。

しかしながら、主流派とか非主流派といった区分に本質的な意味があるとは思っていません。

私自身は、MMTに全面的に賛成でも、全面的に反対でもありません。

明確に賛成できる部分と疑問や違和感を抱かされる部分とが混在しています。

本書はそうした立場の経済学者から著されたものです。


個人的にものすごく悲しい、平成の括られ方。


自分は、働いた年から一次定年みたいな年齢までが


まさに平成だったので、そういう認識なのか?


と肩を落としたのは言いたいだけです。


そこで立ち止まってても仕方ないが。



自己家畜化する日本人 (祥伝社新書 688)

自己家畜化する日本人 (祥伝社新書 688)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2023/10/02
  • メディア: 新書

第4章 自己家畜化の行き着く先


日本の国力の凋落が止まらない本当の理由


から抜粋


2022年度の平均年収は韓国(20位)に抜かれて21位、大卒の平均初任給は20万6000円、韓国は約30万円で、実質賃金は1997年を100として2016年のデータで89.7、ドイツ、アメリカ、イギリス、フランスなどは軒並み115以上になっているので、日本は一人負け状態だ。

直接的な理由は、本文で繰り返し述べたように、横並びでルール至上主義の学校教育、上の命令に逆らわない自己家畜化、優秀な人材をスポイルするシステムの結果であるが、日本を統治する権力側の人間にとっても、このようなやり方では日本の国力が下がるのはよくわかっていたはずだ。


それにもかかわらず、日本の国力の凋落が止まらないのは、権力にとって日本の凋落はある時点(おそらくはっきり自覚し始めたのは第二次安倍内閣の時)から、実は望むところになったのだとしか考えられない。


国民が貧乏になってきたので、企業の製品を日本人に売って儲けようとするモデルを徐々に放棄して、なるべく安く日本人の労働者を働かせて、その成果(製品やサービス)を外国に売って儲けようと考えたのだ。


そのためには国内の賃金を最低限に抑えて、儲けを最大限にして、その儲けを国民に還元しないで、権力と大企業とその取り巻きだけで分配するシステムを構築したのだ。

国力が上がらない方が、自分たちの短期的な利益にとっては好都合なので、意図的に国力を下げる政策を取り続けてきたわけだ。


そう考えれば、赤字必定なオリンピックや万博を無理やり推進(する)した理由や、消費税を目一杯上げて、国民を反抗する余裕がないほどに貧乏にして搾取する理由もよくわかる。


転換点が来るとすれば、AIが限りなく進歩して製品を作ったりサービスを提供したりするコストパフォーマンスが、労働者を雇うよりはるかに高くなった時だ。

権力の本音としては、日本人は消費者としてもはや重要ではないので、労働者として役に立たなくては、いなくても良い存在になる。

はたしてそうなって飢えに直面した精神的自己家畜化の進んだ日本人は、ベーシック・インカムを要求して政権に圧力をかけることができるだろうか、それとも、歴史上初めての市民革命を起こして、政権をひっくり返すだろうか。

それとも、権力はそれまでに憲法を改悪して北朝鮮のような独裁国家を作って、国民を弾圧するようなシステムを作っているのだろうか。


私は生きていないので、結末を見ることはでいないのは残念だけれど、若い人たちは多少でも精神的自己家畜化から逃れて、上手にそして幸福に生き延びでほしいと思う。


怖すぎる、池田先生の言説。


僭越ながら本当かなあと訝しく思う一方


言われてみて、考えてみると


いろいろ符号してしまうので看過できない。


だとしてフランス革命のようなものが


この国に起こってしまうのだろうか。


そしてさらに怖いというか怖さの種類が


異なるがドライな井上先生の書の導入をば。



メタバースと経済の未来 (文春新書)

メタバースと経済の未来 (文春新書)

  • 作者: 井上 智洋
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2022/12/16
  • メディア: Kindle版


はじめに


から抜粋


以前から私は、経済のあり方を激変させる技術として人工知能(AI)に興味を持っていました。

メタバースもまた、AIと対になって経済のあり方を激変させるだろうと考えています。

そういう意味で本書は『人工知能と経済の未来』という、2016年に私が書いた本の続編な位置付けになります。


ではなぜAIとメタバースが相補的な関係にあると言えるのでしょうか。

AIは人間の頭脳の代替物であり、AIを組み込んだロボットとともに人間の労働に置き換わっていくと予想されます。

一方でメタバースは人間が暮らしている世界(環境)の代替物であるといえます。


遠くない未来に、人間の頭脳はAIに、身体はAIを組み込んだロボットに、そして世界はメタバースによってそれぞれ置き換わっていくというわけです。

そして、この三つが揃えば森羅万象すべてが機械化されデジタル化されるという、ある意味恐ろしい状況がもたらされるわけです。


AIが普及しても人間の仕事は部分的には残りますし、それと同様にメタバースが普及しても、実空間での人間の営みは部分的には残るでしょう。

これは技術の進展度合いにもよりますが、今の技術の延長上で考えれば、食事や睡眠、排泄、あるいは医療行為や介護など、人の身体を必要とする行為は実空間で行うしかありません。

ただ、それ以外の娯楽や仕事、教育といった多くの営みは、メタバース内に場を移していくだろうと思われます。


その時、経済活動はどのようになるのでしょうか?

私は、メタバース内の経済活動は、実空間とかなり性質が異なるものになるだろうと予想しています。


現在の資本主義では、機械設備の設置には莫大な資金が必要で、その資金を提供する資本家と労働力を提供する労働者が主な経済主体となっています。

マルクス主義が想定するように両者が対立しているかどうかは別にして、こういう形で資本主義は形成されてきたわけです。

ところが、機械設備が要らなくなれば、資本主義が消滅するわけではないものの、根底から変容してしまいます。


メタバースにおける経済の主な担い手は、資金を提供する資本家でもなく、モノを物理的に作ったり運んだりする肉体労働者でもなく、アバターやデジタルな洋服をデザインするクリエイターです。


これまでも「AI時代にはクリエイティブ・エコノミーが到来する」といった未来予測がよく口にされてきましたが、メタバースの普及とともに、クリエイティブ・エコノミーはますます加速していくでしょう。


しかしそれは、ユートピアとは言えないかもしれません。

誰もがクリエイターになれるわけではないし、クリエイティブな仕事をしていても十分に暮らしていけるだけの収入が得られるとは限らないからです。


ではどうしたらいいのでしょうか?

その問いに答えるためにも、メタバース内の経済とはどのようなものか、メタバースの普及によって資本主義がどのように変容するかを理解する必要があります。

それこそが本書のテーマです。


興味深すぎる井上先生の書で。


60年代のフラワーチルドレンの行末とか


斎藤幸平先生へ意を唱えているあたりも


立体的に考察したい自分にとって深い本で。


それにしてもお二人の書を拝読し


コロナ禍を経て、デジタル化も加速し


ヒトの営みも変容するのだとすると


今後のグローバル社会や日本は


どうなるのだろうかと考えざるを得ない。


昨日投稿した日本人の洗脳がなんなのか


(なんとなくはわかる気もするが)


を実感した上で各自考えて行動していくことで


日本の凋落は止まるのかもしれないが


そもそも何を幸福とするかという


養老先生のおっしゃる”ものさし”で


自分流の勝手解釈の”前提”のようなものの


意識合わせが必要なのではなかろうか。


これだけ多様化している社会において


そこが相当ハードル高くて見えないくらい


なので政治家になりたがる人が


減少してるのだろうなあ


また政治家の知性が問われるところだよなあ


では自分は何ができるのかなあ、などと


夜勤前に思っておるところでございます。


 


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加藤典洋先生のいない2冊から”日本”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


本当のことを言ってはいけない (角川新書)

本当のことを言ってはいけない (角川新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2020/01/10
  • メディア: 新書

V 短絡的正義がもたらすもの


加藤典洋『戦後入門』を読む


元同僚の死


から抜粋


ご存知の方も多いと思うが、加藤典洋は2019年の5月16日に亡くなった。

亡くなる2ヶ月前に見舞いに行ったとき、根を詰めてcontroversial(論争の的になる)本(『9条入門』)を書いてストレスが溜まったのが、病気の原因だと思うと言い、これからは池田清彦みたいに軽く生きるつもりだ、と笑っていた。


退院したら、志木(しぎ・加藤さんの住んでいるところ)の家に、俺の持っている一番いい酒を持って遊びに行くよ、と言って、握手をして別れたのが最後になってしまった。

加藤典洋と握手をしたのは後にも先にもこの時だけだ。

握手なんかするもんじゃねえな。


戦後日本の非常に奇妙な状況


から抜粋


B29による大規模な空襲も非人道的な虐殺であることに違いはないが、とりあえずこれは措(お)くとして、戦争末期、このままでも日本の敗戦は時間の問題であった時期に、広島と長崎への原爆投下は、勝敗に関係のない無意味な虐殺であったにもかかわらず、日本政府は原爆投下直後こそ、原爆投下は国際法違反だとの抗議声明を出したが、GHQに占領されて以来、公的な抗議をしておらず、アメリカもまたほおかぶりをして、公的な謝罪をしていない。


不思議なことに被爆者も一般国民もまた、アメリカへの怒りを口にすることはほとんどなく、52年に広島市の平和公園に作られた原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているだけである。


あいまいな言葉で責任をうやむやにするのは、日本人の得意技とはいえ、原爆投下に関する限り、過ったのはアメリカに決まっているのにね。


3・11の原発事故もそうであったが、余りにも大規模な人為的な被災に対して、日本人は怒りを感じない民族なのかもしれないと思いたくもなる。


戦争に負けた日本人のほとんどは、なぜアメリカへの報復の炎を滾(たぎ)らせることがないのだろうか。


一つの答えは、長く続いた15年戦争の結果、多くの日本人は戦争疲れで疲弊しており、戦争が終わって内心ほっとしていたので、今更アメリカの原爆投下を非難しても始まらないという思いがあったのではないか。

これは加藤も指摘している。

それに、私見を付け加えれば、この戦争は元はと言えば、日本が仕掛けたものだという幾分後ろめたい気持ちもあったに違いない。


しかし、加藤の見立てでは、もっと大きな原因は、ある大きな力の下で、批判が封じ込まれたのではないかというものだ。

加藤の論点を私なりにざっくり言うと、日本の降伏は本当は無条件降伏ではなかったにもかかわらず、アメリカは原爆投下とセットで一切の文句を言わせない無条件降伏と言いなして、占領中は原爆の投下を含めて、アメリカへのあらゆる批判を封じ込めた。


日本が形式的な独立を遂げた後も、日米安保条約とそれに付随した日米地位協定により、実質的に日本を属国の地位に留めるとともに、経済的な成長を助けて、日本の不満が噴出しないように腐心した。

この辺りの事情を説明するために加藤が提出した仮説は「戦後型の顕教・密教システム」で、この仮説は見事に日本の戦後の状況を言い当てていて、『戦後入門』の白眉(はくび)である。


加藤によれば、戦後型の顕教とは、日本と米国はよきパートナーで、日本は無条件降伏によって戦前とは違う価値観の上に立ち、しかも憲法9条によって平和主義の上に立脚しているとみる解釈、密教とは、日本は米国の従属化にあり、戦前と戦後はつながっており、しかも憲法9条のもと自衛隊と米軍基地を存置しているとみる解釈を意味する。


具体的には、国民全体に対しては、日本は平和主義の独立国家であるとの認識をゆきわたらせ、権力が国政を運用する秘訣としては、対米従属の下、戦前と戦後は繋がっているという政治的感覚はとりあえずカッコに入れて、自衛隊と米軍基地によって軍事的負担を減らして、もっぱら経済大国化を目指すという、ダブルスタンダードシステムこそが、日本の戦後を支えてきたというわけだ。


アメリカの属国から抜け出す方法


から抜粋


このシステムのおかげで、日本は経済大国になることができ、多くの国民は、日本がアメリカの属国であるという事実を忘れて、経済的繁栄を謳歌することにより、民族的自尊心を満足させた、というのが20世紀の終わり頃までの日本の状況であった。

しかし、ここに来て、このシステムを支えていた日本経済の繁栄は音を立てて瓦解してきた。


加藤典洋の見立てのように、化けの皮の剥がれた安倍政権(20年当時)が続くと、日本会議の路線に沿って、対米独立を果たし、軍事大国の道を目指して世界の孤児になるか、あるいは徹底的にアメリカに従属して奴隷国家の道を選ぶかの選択をいずれ迫られることになるだろう。

前者の道は経済的な疲弊をもたらし、後者の道では国民の自尊心は全く満たされない。

いずれにせよ国民が不幸になることに変わりはない。


そこで加藤典洋の提案は、憲法9条を改正して、自衛隊の一部を国土防衛と災害救助に当て、残りの全戦力を完全撤退しても、国際的には孤立しないはずであるし、日本人の自尊心も担保できると言うわけだ。

いかにも真面目な加藤典洋らしい提案だ。

現実的でないと言って冷笑を浴びせる人が恐らくいっぱいいるだろう。

しかし、革新的な提案は、どんなものでも最初は現実的ではないのだよ。


もしこの案が実現したら『戦後入門』は21世紀初頭の古典として、長く語り継がれるだろう。

人は死んでも本は残る。

さよなら、加藤さん。ごきげんよう。


池田先生が珍しくしんみりしているようで


それはあまりにも不似合いなのだけれども


本当に残念な思いが滲んでいるように感じた。


池田先生の言葉を信じるのならば


加藤先生は最後の書を生命を賭して


書かれたと言えるのだろう。



この1冊、ここまで読むか! 超深掘り読書のススメ (単行本)

この1冊、ここまで読むか! 超深掘り読書のススメ (単行本)

  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2021/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

第6章

『9条入門』


憲法と戦後史を改めて考える


高橋源一郎 X 鹿島茂


「考える」とはどういうことか


から抜粋


高橋▼

若い世代に憲法のことを伝えることを考えても、九条だけ注目していてはダメなんですよね。

僕は大学で教えていますが、若い人や子どもたちも九条のことを教えようとすると、すごく時間がかかって遠回りになるんですよ。

なぜかというと、これは大人たちも同じなんですが、みんな社会的に洗脳されているからです。

10年、20年、30年かけて、社会的に教えられる言葉や概念をそのまま内面化している。

それを解きほぐすのは容易じゃありません。


もちろん、いまのこの対談のように、単体のテーマとして説明に時間をかけることもできますが、それ以前に、「物事を考えるとはどういうことか」とか「人の意見を疑う」とか「なぜ嘘を吐いてはいけないか」とか、そういう話から始めなければいけない。

これは教育の問題なのですけれど、それを含めて、そんなに長いわけではない人生の中で、物を考えるのは大変だけど大切だし、しかも楽しいということを、いわば愚直に語っていく。

その延長上に九条があるんですよね。


目の前で九条を改悪する話をされれば「そんなバカなことがあるか」と焦りを感じたりもしますが、そこだけで焦っていたのでは、僕たちの足元が揺らいでしまう

だから、これには二面があるんです。

じっくり時間をかけて考えるという悠長なことをやると同時に、何か起こったらデモに行くとかね。

緊急性と永遠性の両方が必要なんですよ。

そういうスタンスで対処していくしかないですね。


日本人の多くが洗脳されているから


9条に短絡的にデリケートになっていると。


確かに「憲法改正」=「9条」=


「戦争を企む輩の思惑」みたいな


公式が暗黙にあるような気がする。


それはちと一旦置いといて気になるのが


洗脳とは具体的に何を指すのか。


洗脳されている自分にはわからないため


今後のテーマにしたいと存じます。


加藤典洋先生と高橋源一郎先生の対談


一度昔読んだのだけどその時はスルーだが


これで俄然興味が湧き出ずるものに。


対談相手を経由して戻る、と言うのは


自分にしてはよくある話なのだけれども


と言いつつも、テーマが非常に重たく、


しかし切実な国土防衛というか。


国の自衛のあり方、来し方とでもいうのか、


なのでちと二の足を踏みそうだけれども


鹿島先生の対談は高次レベルの学がないと


しんどいなあ、捻り方も相当なものだし


とも思ったりもする低い学の身分とは


あまり関係のないと思いたい


いつも以上に地震が心配な日曜出勤


なのでございました。


 


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③河合隼雄先生の論評”ゲゲゲの鬼太郎”と”マカロニほうれん荘” [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

書物との対話


書物との対話

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 1993/12/10
  • メディア: 単行本

II

水木しげる


『ゲゲゲの鬼太郎』


異常な誕生の背景


から抜粋


伝説や昔話に登場する英雄(ヒーロー)は、桃太郎の例をまつまでもなく、異常な誕生によることが多い。

われわれの主人公ゲゲゲの鬼太郎の誕生は、とりわけ異常な物語となっている。

人類の誕生以前から住んでいた幽霊族は、人類によって圧迫されて地下に住んでいる。

ところがそれも絶滅に近づき、最後に残された夫婦も死亡する。

墓に埋められて三日後、妻のみごもっていた子が生まれ土のなかからはい出してくる。

これが主人公の鬼太郎である。

それと不思議なことに、鬼太郎の父親の目玉が生命力を持ち、鬼太郎につきそってくるのである。


圧迫され、忘れ去られた存在として何万年も生きてきた幽霊。

墓の中から生まれた子ども。

これらのことから誰しも連想することは怨念ということではなかろうか。

ところが、鬼太郎という子どもはまったく可愛い顔をしているし、怨念のかげりをどこにも見出せない。


このパラドックスを解く鍵として、作者が凄まじい戦争体験を持ったという事実が役立つであろう。

極限状況に追い込まれた中で作者のもった諦観は、ゲゲゲの鬼太郎の強い支えとなっている。

おそらく作者は、極限の世界の中で、生と死、あちらとこちら、敵と味方など、何かを明確に区別する隔壁(かくへき)が崩れ落ち、そこに全体としての何かが存在するという体験をしたのであろう。

怨念はそのような体験の前に力を失ってしまう。

しかし、それは消滅したのではない。

鬼太郎ファンの大人達は、おそらく、圧迫されたものの悲しみや虐げられたものの叫びを、その作品のなかから感じ取っていることであろう。


光と影の対比


から抜粋


隔壁をとっぱらった全体性の諦観はこの世のルールを無視してしまうところがある。

いろいろな妖怪と戦うが、鬼太郎は必ず勝つ。

鬼太郎は勝つために、トリックや超能力を使用するが、それはこの世のルールを簡単に無視して考えだされたものが多く、作者は申し訳なさそうに、超能力やトリックについての説明を書き入れる。


鬼太郎は必ず勝つという安心感は、少年達をひきつけるであろうが、それではあまりに平板になってしまう。

そこで、お馴染みのねずみ男が登場する。

ねずみ男という影の部分を持って、光の部分のみを代表する鬼太郎の像が立体化する。


それに、「父親の目」という極めて象徴的な存在を加えることによって、話は面白さを増してくるのである。

ねずみ男は欲に絡んで敵についてみたり、まったくへまなことをしてみたり、敵の術中におちいってしまうことも多い。

人間はいくら諦観を持っても煩悩は消滅しない。

煩悩のはたらきは諦観に磨きをかける。

いや、ひょっとしたら、ねずみ男の方が悟っているのかもしれない…。

『ゲゲゲの鬼太郎』ファンの中には、案外、ねずみ男ファンも多いのではなかろうか。


『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する多くの妖怪は、鬼太郎も含めて。ファンタジーの世界の住人ではない。

それは、かつ現れ、かつ消え、流転しつつも永遠に不変である。

日本人の心の仲野「自然」の顕現であるように思われる。

妖怪の姿をとっているが、本質的に花鳥風月の世界を描いているのである。

西洋人とあれほどまで戦った体験をもっても、われわれの魂はそこに帰ってゆくのだろうか。


鴨川つばめ


『マカロニほうれん荘』


奇想天外を超越


から抜粋


奇想天外と言っても、自転車で空を飛ぶなどは序の口で、風呂で洗いすぎて骨だけになってしまったり、自衛隊から(黙って)借りてきた戦車で登校したり、というようなことが次々と起こる。

しかも、話のテンポが速く、話の流れはどこに飛んでゆくかわからない。

どこからでも大砲の弾丸が飛んでくるような感じである。

トボケもフザケも今までのものを一段と超えていて、思わず吹き出す時がある。


漫才を映像化


から抜粋


最近ではマンガの表現も残酷さや性描写に随分とすさまじいものがあって、マンガ通でないとついてゆけないとも言われる。

筆者のようにあまりマンガを見慣れないものは、確かに一見してとまどいを感じるが、そのマンガの持つ独特の世界に入り込んでゆくと、相当な表現も気にならなくなるものである。

ところで、この『マカロニほうれん荘』は、その発想の奇抜さで若者の間に人気を博していたと思うが、われわれ老人でも案外その世界に、スーっと入ってゆきやすいものである。


いったいこれはどうしてだろうかと考えてみて、筆者はこれが漫才の手法によっていることーーー作者はおそらく意識していないと思うがーーーに気がついた。

そう思うと、二人の主人公は往年の漫才の名手エンタツ、アチャコになにやら似ているようである。

漫才はストーリーの構成ではなく、連想の流れの面白さで勝負する。

『マカロニほうれん荘』は、連想の世界を大胆に映像化している。


『マカロニほうれん荘』は、マンガの技法としては新しいものであるが、漫才という伝統的なものによっているだけに、心情的には古い味を持っている。

「203高地」などという昔なつかしい言葉がでてくるのも、このためであろう。

現在の状況は、漫才マンガが漫才を駆逐した感じだが、マンガの方は生きた人間が演じている味というものを捨象(しゃしょう)してしまったわけで、これは今後どのような効果を青年達にもたらすだろうか、と思われる。


伝統を継承する師匠から芸を受け継ぐような


漫才は確かに駆逐されたかもだが、


お笑いという芸は廃れることなく今も健在ですよな。


自分は興味ないからよく知らないけれど


テレビには連日出ているよね、芸人さんが。


漫才というフォーマットは昔のそれと


価値が異なっているのかもしれない。


明石家さんまさんが、昔は


「吉本興業に行くというのは


人の道を外れることを意味していた」的な


発言されていたが、今はそれ自体がお笑いだろう。


マンガは日本のソフトパワーとなり世界を席巻。


この後の若者に与えた影響は自分が思うのは


生活に密着しすぎて、注意してみないと


わからないくらい空気のような存在になって


今に至るような気がする。


この二つの論評は、1979年9月から11月に


『共同通信社 京都新聞』ほかで連載とのこと。


『ゲゲゲの鬼太郎』は第二期アニメの頃の


事かと思われ、『マカロニほうれん荘』は


79年に連載終了の頃かと。


『ゲゲゲ』の方は、テレビ版と漫画版だと


水木先生色が薄められているのは周知の事実。


そこを差し引いての論評としても


さすが河合先生で、”ねずみ男”に注視しておられる。


『マカロニ』も違和感なく楽しまれ


芸能の味を感じ取られたようですが


それはある種、伝統的な価値観というか


暗い土着文化をカリカチュアしていたように


思うのだけれども。


ハードロックやパンクが頻繁に出てくるのは


そういう必然を背負っていたような。


だとしても、そこも楽しめてしまう


河合先生の度量の深さや


鴨川先生の技術力の高さは恐れ入ります。


確かに『マカロニ』は新しい感性で


一瞬で突き抜けていった風としか


思えない儚さが作品全体のそこかしこにあり


ストーリーも斬新なら絵もずば抜けて上手かった。


同時期のライバル江口寿史先生と比較され


自分はどちらも今だに好きなのでございますが


この二人は当時の若者や若者予備軍に


与えた影響は計り知れないと思わずにいられない。


時代を二人が写し取っていたような


時代と絶妙にリンクしていたような


マンガで若者の生活を垣間見させてくれ


時代を牽引していたと思ってしまうが


本人達はまったくそんなつもりもなかった


だろうなあ、水木先生もだけど


これらは天才の仕事と呼べるよなあと


思う六月の暑い1日でした。


 


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②河合隼雄先生のつげ作品論評より”オブジェクティブ・サイキ”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


書物との対話

書物との対話

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 1993/12/10
  • メディア: 単行本

現代青年の感性

マンガを中心に


B 内向型感覚


から抜粋


ユングの普遍的無意識の考えが、現在の劇画の内容を説明しうることが多いと述べたが、同じくユングの心理機能に関する理論を用いて、マンガ表現の特徴を指摘したいと思う。

ユングは人間の心理機能に関する理論を用いて、それぞれ互いに対立する思考と感情、および、直感と感覚の機能を考えた。

思考は文字どおり考える機能であるが、ユングのいう感情とは、ものに対する好き・嫌い・善悪の判断を下す機能を示している。


これに対して、感覚は、五感に関係して、ものそのものの形や色などを的確に把握する機能であり、直観は、ものの属性を超えた可能性を把握する機能である。


ところが、ユングはこのような機能にそれぞれ内向と外向の二方向があると考える。

例えば同じ思考機能でも、物事の関係やそのはたらきの仕組みなどについて考える外向的思考型と、生きることの意味とか、死とは何かなど考える内向的思考型があるという。


そして、彼は現在のヨーロッパ文化では、外向的な態度の方が価値を与えられ、内向的感覚や内向的直観の機能は評価されなかったり、誤解されたりすることが多いと述べている。


このような観点に立つと、現在のマンガは、ユングのいう内向的感覚機能に頼って書かれているものがあると感じられる。

つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせることによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。

これは現在の青年の感性に強く訴えるものがあったと思われる。

そのような作者の代表としては、つげ義春をあげるのが適切であろう。

つげ義春は自分の内界を感覚的にとらえて、それを表現する。


内向とか、人間の内界というと誤解する人があって、人間の内省可能な範囲内のことと思う人が多い。

自分はどんな欠点をもっているとか、他人に対してどう感じたとか、そのように考えたり感じたりするのは、むしろその人の意識可能な自我の内部で生じていることである。


ユングが内界という場合、自我の外部に外界が存在するように、内界も心の内部ではあるが自我の外に存在するものと考えている。


そして、外界が一般に客観的な世界と言われているのと同様の意味で、この世界を客観的な心(オブジェクティブ・サイキ)の領域と呼んだことがある。


内向感覚型の人とは、このような世界が鮮明に「感覚的に」とらえられる人である。

その人は内省をするのではなく、ただ「そこに」ある世界を見たり、それに触れたりするのである。

つげ義春の作品を評して、赤瀬川原平は、


「眼の前にあって眼に見えない不思議な正体があるので仕方がないのだ。

そしてその正体は、眼に見えずにリアルなのである。

その漫画の細部は非常に触覚的であり、私たちの生活の検証にも耐えうる確証的なものである。」


と述べている。

ここに「眼に見えずリアル」などの逆説的表現を誘い出すところが、彼の作品の特徴であり、それはとりもなおさず内向的感覚の特徴なのである。

それは「触覚的」でさえあるほどのなまなましさをもちながら、どこかで非存在感を強く味合わせているものである。

それは、われわれが一般に「存在」とか「現実」というときに、どうしても外界に縛られる傾向を持つために、つげの作品を見て、非存在、非現実と感じるものだが、一方それは、まぎれもなくつげ義春が彼の感覚によって確実に把握しているものであるために、なまなましい存在感を与えるのである。

それは、自我の中で「考えだされた」偽物の「ファンタジー」作品とは異なるのである。


この後、河合先生は、つげ先生の『』を


引き合いに出され分析・考察。


別の書籍でつげ先生インタビューにて


最後の見開きページは当時は誰も


理解・評価されなかったと読んだ記憶あり。


66年2月では早すぎたとしか言いようがない。


ビートルズも来日してない日本においてとは


言いたいだけでした。


『沼』はWikiにございますが『兄貴は芸術家』と


同月に発表された、と、驚愕の事実だったのは


本当に言いたいだけです。


沼との溶解体験を作者は見事に「感覚的」に表現する。

それは実に触覚的ですらある。

乙女の首にまきつく蛇の肌の感触を、われわれは感じさせられる。

このような点が、つげを内向的感覚型であるとするところである。

溶解体験は自我の同一性の崩壊の危険をもたらす。

青年は沼との距離を取り戻すために、ひとつの儀式的行為を必要とする。

それがズドーンという銃の発射である、と考えられる。

おそらく、作者自身もこの一発の銃の発射によって、さまざまな溶解体験から自分を切り離すことができたのではないかと推察される。


次に、内界に住む心象の不可解さと残酷さについても述べておかなければならない。

このような点は、この物語に登場する娘の行動に如実に表されている。

彼女の行為をどのように判断するべきかに迷わされるが、ここで大切なことは、彼女は残酷か否か、その行為が善か悪かなどの判断以前に、ともかくそれはそのようにある [ just-so ] ということである。

感覚は事実をあるがままにとらえて、そこに判断を入り込ませないのである。

内界に存在するものが、そのままの姿で把握され描かれるという、このような傾向は、違った表現方法ではあるが、萩尾望都の作品においても認められる。


ユング博士とつげ義春先生との関連性は


河合先生ならでは、なのだけれども


さもありなんとでもいうか、目から鱗というか。


ユング博士の内向的感覚への分析・論理で


60年代だとするとヨーロッパでは


つげ作品は受け入れられなかったのかもだが


昨今は懐深くなった模様でつげ先生は


過日フランスで賞をいただいておられたかと。


内界・外界というのも、なんとなくだけど


つげ先生を言い得ているような気もした。


河合先生の指摘にはないけれども


太宰治に傾倒していたというつげ先生の


『沼』は『魚腹記』に影響されていないか


なんとなく類似性を感じるのだけど。


河合先生の書籍に話は戻りまして


河合先生にかかるとつげ先生作品も


かように料理されるのかと驚くとともに


1977年当時『読書世論調査(毎日新聞社広告局)』の


”好きなマンガ家”が1位手塚治虫、2位長谷川町子、


3位水島新司、4位ちばてつや、5位サトウサンペイ先生、


33位までの中に、なぜ、藤子不二雄先生が


いないのだろうと腑に落ちない本日は休日


午前中は河合先生の書籍を読み、午後は


近くの寺院の境内で「ダライ・ラマ自伝」を


読んでおった豊穣なひと時なのでございました。


 


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①河合隼雄先生・養老先生の書から”中年”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


書物との対話

書物との対話

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 1993/12/10
  • メディア: 単行本

”脳”を刺激する興味深い対話


養老孟司『脳という劇場』


これは実に刺戟的な対談集である。

『唯脳論』の養老孟司さんがいろんな多彩なタレントを「劇場」に登場させて対話している。

養老さんの柔軟な姿勢を反映して、いずれもそのトピックに合った興味深い視点を引き出していて、読みながら、こちらの「脳」も随分と刺戟される、というわけである。


冒頭の中村雄二郎との対話は、本書の総論と言ってもいいほどで、多くの新しい考えのヒントを与えてくれる。

中村の「形というモメントを入れることによって、あるいはさらに、それを重視することによって近代科学を超えることもできるはず」という考えは注目すべきである。


中村桂子との対話では、養老が学問というものは「既知のものを未知のもので説明する」と述べたことに中村が同感して、一般の人は科学というものを「未知のものを既知のもので説明する」と思っているので困る、と言っている。


多田富雄、大島清、などの対話と共に、「新しい自然科学観」をまさぐってゆこうとする姿勢が伺える。

ただ、素人には少し難解なところがあり解説が欲しいと思う。


免疫学の多田は「自己などという概念は崩壊しちゃった」と宣言している。

このことは心理学で考えている「自己」にまで及んできそうで、古井由吉との対話で問題とされる、「複数の自我」にまでつながってゆくと感じられた。


山根一眞との対話で養老は、頭の「良し悪し」よりも「強いか・弱いか」の方が重要だという注目すべき発言をしている。


哲学者、建築家、小説家、生命科学者、それに棋士、果ては「言いたい放題、死体放題」の南伸坊まで登場して、その幅の広さに感心するが、これら全て自家「ノウ中にあり」と唯脳論の養老先生は主張しているようである。

ーーーサンケイ新聞’90



中年クライシス (朝日文芸文庫 か 23-1)

中年クライシス (朝日文芸文庫 か 23-1)

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 1996/06/01
  • メディア: 文庫

巻末エッセイ


おとな


養老孟司


河合さんにお会いすると、いつでも「おとな」という印象を受ける。

私が「子ども」だということもあるだろうが、それだけではない。

この場合の「おとな」とは、『広辞苑』を例にとれば、

「中・近世、村落の代表者、また、実力者。乙名百姓。年寄。宿老。」といった感じである。

大げさにいえば、「日本のおとな」であろう。


いろいろ違いはあるけれども、河合さんの世代、さらに京都という土地が、こういう乙名百姓を出す培地(ばいち)なのかもしれない。

同時期に京都大学におられた数学の森毅さんも、別な乙名百姓である。

こちらもお会いするたびにそう思う。


関東という土地はどうもこういう人たちを出さない。

そういう感じがする。

その本質が重層的であるような文化というもの、それが関東にはいささか欠けているのである。

関東人はいくら金を持とうが、基本的に貧乏人の性癖を残しており、どことなく乱暴で直線的である。


関東の小説家というなら、私の頭にたちまち浮かぶのは、三島由紀夫、石原慎太郎、深沢七郎などであり、どう考えたって、これはどこか文化的ではない。


河合さんの逆の存在をいうなら、以前テレビ番組にあった『木枯し紋次郎』である。

どこが逆なのかというと、その説明はできない。

強いていえば、紋次郎は「あっしにはかかわりのねェことで」と言いつつ気持ちも身体も徹底的に関わることになり、河合さんは患者さんにいちおう仕事で関わりながら、腹の底ではむしろ「紋次郎」を演じるということであろう。

「紋次郎」は関東的で、要するに関東人は屈折したとしても、たかだかああなのである。

そこがアメリカ文化と平仄(ひょうそく)が合うところなのであろう。


考えてみれば、江戸という町の歴史は400年、おおかたのアメリカの町よりは古いかもしれないが、50歩100歩であろう。

京都は1000年、それなら関東はまだ「紋次郎」でいいわけである。


河合さんは本読みの達人である。

『書物と対話』という本もあって、読書がみごとな芸になっているのがわかる。


『中年クライシス』という本は、私はいつもの習慣で横須賀線の中ではじめて読んだ。

感心しながら引き込まれたから、そのときのことをよく記憶している。

山田太一氏の『異人たちの夏』の解説にあまりに感激したので、肝心の原作を読む気がなくなってしまった。

こういう見事な解説は、ある意味では良くない。

あらかじめ小説を読んだ人しか、読んではいけない解説なのである。

山田氏の小説が、解説ほどでなかったらどうしよう。

私はついそう思ってしまったのである。


これはものすごい目から鱗がフォールダウン。


養老先生の書評こそまさにこれ。


書評読んだらもういいです的な。


水差してすみません。


河合先生の中年への眼差しに戻ります。


「トポスを見いだし、そのトポスとの関連で『私』を定位できるとき、その人の独自性は強固なものとなる。

そのようなことができてこそ、人間は一回限りの人生を安心して終えることができるのではなかろうか。

老いや死を迎える前の中年の仕事として、このことがあると思われる。」


この文章の内容も、最初に読んだときに頭に入ってしまったのだが、引用しようと思ったら、この本が見つからなくなったことがある。

そのままうろ覚えで内容だけ引用してしまった。

この文章に出会うまで、こういう内容を意識したことは、私にはない。

しかし中年の定義としても、みごとなものだと感じられる。

そう思わない人は、たぶんまだ中年ではないのである。


養老先生がまだ解剖学者の頃の文章で興味深い。


編集者さんの仕事だと思うけれども


「巻末エッセイ」というのが時代性を感じる。


河合先生の中年の定義について、自分なりの解釈。


トポス=ギリシア語で”場所”。

話題を発見すべき場所(論点,観点)。


ということらしいのだけど、それを前提として


興味のあるものを自ら見つけ

そこにいる自分を

俯瞰できるようになると”己”は強まる。

それができたら、もう人生を終えても

悔いのないもので、めっけもんです。

もしそう思えないのだったら

まだまだ青春の途上ですよ。


と読めるのは、おそらく自分だけなのだろうなあと


思いつつ、そうだとして、自分はどうなのかを問うと


そう思えるから中年、それ以降であることを実感。


さらに感じていることとして、


早起きしての仕事だった本日、天気があまりにも良く


今日が休みだったらなあ、と思わずに


いられませんでしたことは


言わずもがなでございます。


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多田先生から”教養”を、養老先生から”普遍”を感じる [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

寛容と希望 〔未来へのメッセージ〕 (多田富雄コレクション(全5巻) 第5巻)


寛容と希望 〔未来へのメッセージ〕 (多田富雄コレクション(全5巻) 第5巻)

  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2017/12/20
  • メディア: 単行本

IV 科学と医学の未来


教養とは何か


初出;『信濃毎日新聞』1999年7月7日(『懐かしい日々の想い』)


から抜粋


予定が立て込んでいる中を、無理して能楽堂に能を観に行って来た私に大学院の学生が言った。

「お忙しいのに、よくそんな時間が取れますね。ぼくは狂言は少しはわかるけどお能の方は退屈でわかりません」

私は言下に言った。

「それは君に教養がないからです」。

そう言ってから考えた。

教養って一体何なのだろうか。


そう言えば思い出したことがある。

もう10年近くも前だろうか。

東京大学教養学部の学内新聞で、教授たちに「教養とは何か」というアンケートを出したことがある。

匿名ということもあって、いろいろ面白い答えがかえってきた。


それを読んで気づいたことは、教養というのは実利的な意味では何の役にも立たないが、人間が物を判断する時の基礎となるものらしいことだった。

実利から離れた価値を知ること

それが教養だろう。


現代のような複雑化した社会では、固定した単一の価値観で世界を判断することはできないし、危険でさえある。

民族紛争や国際摩擦は、それぞれの一方的な見方、固定した価値観同士のぶつかり合いから始まる。

それを相対的に眺めて解決の道を探る、複眼的な眼差しこそ教養なのではないだろうか。


東大には教養学部という名前が名目上まだ残っているが、大部分の大学ではここ10年余りの間に教養学部という学部は姿を消した。

代わって実利的な専門教育が前倒しになった。

ことに医学部では、6年間一貫教育という実利主義的理念のもとに、大学に入るとすぐに専門教育がスタートし、以前にあった一般教養の課程はなくなった。

4年間のカレッジを卒業することが、医学部に入る前提となっているアメリカとは大違いだ。


いきおい国家試験合格のためだけのカリキュラムが組まれ、実用的なエンジニアとしての医師を作り出すことが目的になった。

医科大学は職業訓練所になってしまったのである。

そこで教育された医師が、たとえ修理工としての高度な技術を身につけたとしても、複雑な社会的文化的背景を担っている患者という人間を理解し、治療することができるのであろうか。


理系の学生にとっても、本当に新しい発見や開発のシーズとなるはずの一般教養は、絶対に必要だろう。

文系の学生だって、いま生物学を知らずして人間の心や社会を理解することはできまい。


そういう意味では、たとえ時間の無駄と思われようとも、能楽堂に行って「死者」の眼で現実を眺めるような機会を持つことは、若者にとっても大切な「教養」だろう。


多田先生の主戦場である


免疫学のなんたるか、を自分は


まったく不勉強で理解には


自信がないのだけれど


この書は本当に興味深い


随筆で埋め尽くされている。


面白い!が満載だった。


上記の随筆はアメリカと日本の比較として


医療や学問への疑問があり


そのお考えの継承が後の、


日本でもリベラルアーツが必要であるという


流れなのかなと感じた。


この書籍全体に話を戻してまして


若い頃の回想や古典芸能についての関わり方や


科学の未来を慮るお気持ちなど、じっくり


このコレクションを全巻読みたいが時間と財力が…。


それは一旦置きまして、この書の解説が


養老先生で、表現が稚拙ですみませんが


さらに”すごい”のです。


<解説>


多田富雄さんの世代と生き方


個性とは何か


から抜粋


免疫学という、当時の最先端の科学の世界にいながら、多田さんは同時に能を離れなかった。


こうした生き方は、特に科学者にとって大切である。

システム化された科学の世界は、どうしても専門家であることを要求する。

その視点からすれば、古典芸能なんて、要するに暇つぶしに過ぎない。

でも多田さんは若い世代に世阿弥の『風姿花伝』を読むように勧める。

さらには「能と日本人の個人主義」を語ろうとする。

能が科学者としての多田さんにとって、骨肉化していたことがよくわかる文章である。


私が多田さんに出会ったのは、じつは遅過ぎたような気がする。

もう少し早く出会う機会があれば、自分がもう少し早くものを理解したのではなかろうかと思う。

だから若い人にこの作品集を読んでもらいたいのである。


古典芸能のことも、自分でそれを多少とも理解するようになったのは、中年を過ぎた頃だった。

他人のせいにするわけではない。

しかし戦後の日本社会の雰囲気では、古典芸能など、ほとんど時代遅れの産物だった。

そうしたものに触れる機会も、ほとんどなかった。

でも真の普遍性に時代遅れなどない

いわゆるグローバル化、国際化が普遍性なのではない

人間の本性に基づくもの、それが普遍なのである

多田さんはそれをよく理解し、しかもそれを身に着けていた。

その意味でも多田さんは真の教養人だったと思う。


2018年頃の養老先生の解説で


比較的に新しいのだけれども


実は別の多田先生の書籍の


解説の方が、最も強くしびれた。


2007年とのことで古いのだけれども


そういうのとはあまり関係がないようで


こういうのが”普遍”なのでしょうなあ。



寡黙なる巨人 (集英社文庫)

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

  • 作者: 多田 富雄
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2010/07/16
  • メディア: 文庫

解説 養老孟司 から抜粋

多田さんが定年で大学を辞めた1年後に、私も辞めた。

定年前だったが、もう大学にいる気がしなかった。

多田さんがいないということも大きかった。

近くに話し相手がなくなったからである。

わざわざ話さなくたって、そういう人がいるだけでなんとなく安心。

そういうことって、あるでしょうが。

なにを話したかって、特別なことはない。

きちんと決められた業務、それを果たすことだけが仕事であり、人生である、ひたすらそういう世界で、全く違う話ができるのが多田さんだっただけのことである。

高校時代から鼓を習ったこと、それも問わず語りに聞いた。

能が好きだなんて、変な医学部教授だわ。

でもわかる。

私は虫が好きで、これもはなはだ変なことだったから。


『寡黙なる巨人』のなかで、私の胸を撃つ記述がある。

病気の前に自分は生きていなかったが、病を得てからは、毎日生を感じているという意味のことである。

これだけは現代人の心に何としても届いて欲しいと、私が思うことである。


多田さんは動く指ただ一本で、これだけの作品を書いた。

あんたら、なにを寝ぼけてるんや。

五体満足でなにをブツブツいうんか。

ふざけんじゃない。


現代人は生きることを失って久しい。

能は中世の世界で、中世とは人が生きる世界だった。

それは同時に死をつねに意識することである。

平和な時代の人たちは、それを乱世とも呼ぶ。


多田さんの人生が良かったか悪かったか、そんなことは知らない。

でも多田さんが最後に真の意味で「生きた」ことだけは間違いない

それは素晴らしいことで、きっと多田さんはあの笑顔で、いまも心から笑っているはずである。


この書籍、もちろん多田先生の本編も


壮絶だけど美しい書であることは


間違いないのだけれども、この養老先生の


解説は本当に素晴らしすぎて涙を誘うのです。


養老先生の書評は本当に一種の”凄み”を


感じるものが多くて腰の抜ける思いのする


それは夜勤明けだからではないことを


謹んでご報告したいと思っておる


雨の夕刻、妻と買い物をしてきたところ


子どもは泣きべそかきながら試験勉強中です。


 


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2冊の科(生物)学の書から”生命”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし


若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし

  • 作者: 更科 功
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2019/11/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

はじめに から抜粋

ルネッサンス期以降にも、この呼び名に値する人物が何人か現れた。

しかし、ドイツの文豪で科学者のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)あたりを最後に、「万能の天才」と呼ばれる人はいなくなってしまった。


科学の世界に限っても、以前には「万能の天才」的な人がいた。

イギリスのロバート・フック(1635-1703)は、物理学の分野では、ばねの弾性に関するフックの法則を提唱したし、化学の分野でも、気体に関するボイルの法則を作るのに重要な役割を果たしたし、生物学の分野でも、細胞を発見した(実際には植物細胞の中身が抜けた細胞壁を見ていたようだ)し、地学の分野では進化論を唱えていた。

だが、現在の科学はとてつもなく巨大になり、一人の人間がすべての分野に精通することは不可能になってしまった。


しかし、いくら巨大化しても、科学は一つである。

物理学、化学、生物学、地学などと分けることもあるが、それはあくまで便宜的なものだ。

科学自体が、こういう分野に分かれているわけではない。


それは科学の本質とは別の話である。


だから、本当は「万能の天才」のように、科学を広く研究したい。

でも、それは無理なので、たくさんの科学者が協力して、科学を広く研究している。

それは仕方のないことだが、そうすると科学全体を視野に収めることは、なかなか難しくなる。

それでも、少しでも広い視野を持とうとすることは大切だろう。


科学の世界だけに限ったことではない気がする。


昨今の世の中、なんでも細分化されていて


「万能の天才」が生まれにくい空気を感じる。


それは良い事も悪い事もあるのだろうけれど。


この本は「生物学のすすめ」ではない。


この本は、生物学に興味を持ってもらいたくて書いた本である。

タイトルには「若い読者に」と書いたけれど、正確には「自分が若いと思っている読者に」だ。

好奇心さえあれば、100歳超の人にも読んで欲しいと思って、この本を書かせていただいた。


第1章


レオナルド・ダ・ヴィンチの生きている地球


『モナ・リザ』を描いた理由


から抜粋


地球は生物がすんでいる惑星だが、地球そのものは生物ではない。

でも、地球を生物だと考えた人は、昔からたくさんいた。

どうやら地球は、生物に似ているらしい。


レオナルドは、科学者としては運がなかった。

しかし、画家としては、最高の評価を手にいれることになった。

中でも『モナ・リザ』は、西洋絵画の最高傑作とさえいわれている。


この『モナ・リザ』をレオナルドが描いた理由の一つは、地球と人間が似ていることを示すためだった。

『モナ・リザ』には、女性と地球(の一部)が描かれている。

たとえば、女性の曲がりくねった髪の後ろには、曲がりくねった川が描かれている。

わざと両者を対比させて描いたと、レオナルド自身の手稿に書き残している。

人間と地球という二種類の生物を、一枚の絵の中に収めたのだ。


めちゃくちゃ面白い書籍でございます。


系統立てて、現代の身近な例を引かれて


ヤマザキマリ先生や藤子・F先生の


書籍まで引かれての”生物学”講座として


更科先生の進化論を拝読させていただき


読後は満足感に満ち溢れる。


”あとがき”が、これまたすごく


再びヤマザキマリさんネタなのだけど


そこから流れて感動のフィナーレになる辺り


さすがでございますとしか言いようがない。


肝心の生物学について、歴史上の人物から


グールド博士や本庶佑博士、山中伸弥博士まで


興味は尽きませんでした。



WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か

WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か

  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2021/03/10
  • メディア: 単行本

ステップ5

情報としての生命


全体として機能するということ


情報は生命の中心にある


から抜粋


はるか昔、子どもだったころ、あの黄色い蝶は「なぜ」我が家の庭に飛んできたのだろう?

空腹だったのか、卵を産む場所を探していたのか、それとも鳥に追われていたのだろうか?

あるいは単に、世界を探検したいという生まれつきの衝動にかられて?


もちろん、私には、あの蝶のふるまいの理由を知るすべはないけれど、はっきり言えることは、あの蝶は周りの世界と相互作用して、行動をとっていたということだ。

そして、そのために、蝶は情報を管理していたはずだ。


情報は、蝶という存在の中心にあるし、あらゆる生命の中心にある。

生体が、組織化された複雑なシステムとして効果的に機能するためには、自分たちが住む外の世界と身体の世界との、両方の状態について、情報を絶えず集めて利用する必要がある。


内側と外側の世界は変化するから、生命体はその変化を検出して反応する方法が必要となる。

そうでなければ、あまり長生きできないだろう。


蝶が集めた情報には、何らかの「意味」があったはずだ。

蝶はそれを利用し、特定の目的を達成するために、次に何をすべきかを決めた。

つまり、蝶は「目的」を持って行動していた。


あらゆる生体は、自らを維持し、組織化し、成長し、そして増殖する。

これらは、生物が自分と子孫を永続させたいという、基本的な目的を達成するために発達させてきた、目的を持った行動なんだ。


DNAの重要な機能


から抜粋


情報処理は、生命のあらゆる側面に浸透している。

情報という名のレンズを通して、複雑な細胞部品と細胞内プロセスを覗いてみよう。


最初の例は、DNAとその分子構造が、遺伝を説明している点だ。

DNAについての決定的な事実は、それぞれの遺伝子が、A、T、G、CというDNAの四文字アルファベットで書かれた、情報の「直線配列」でできていることだ。

直線配列とは、ようするに、「(文字などの)情報を直線的に並べた」という意味に過ぎないが、情報の保存や伝達にとても有効な戦略なんだ。

読者が今読んでいる単語や文章に使われているのも直線配列だし、机の上のコンピューターやポケットの中のスマホのプログラムも直線配列になっている。


こうしたさまざまな情報は「デジタル」になっている

ここでいうデジタルとは、「情報が少数の桁のさまざまな組み合わせで保存されている」という意味だ。


英語は基本的にアルファベットの「26桁」を用いている。

コンピューターやスマホは「1と0」のパターンを使用し、DNAの桁はA、T、G、Cのヌクレオチド塩基四つといった具合だ。

(少数の桁で意味をあらわす)こういった符号化の大きな強みは、一つの方式から別の方式へ容易に「翻訳」できることなんだ。

DNAの符号をRNAへ翻訳し、さらにタンパク質に翻訳するとき、細胞が行っているのはまさにこれだ。


細胞は人間が人工的に作り出したシステムが足元にも及ばないような、スムーズかつ柔軟な方法で、遺伝子情報を物理現象へと翻訳する。

さらに、人間のコンピューターは、情報を保存するために、別の物理的な媒体に情報を「書く」必要があるわけだが、DNA分子は「そのものが」情報であり、これはデータをコンパクトに保存する方法なんだ。


訳者あとがき から抜粋


ポール・ナースは生物学の世界における巨人である。

2001年にノーベル生理学・医学賞も受賞している。

でも、日本の一般読者には、もしかしたら馴染みが薄い人かもしれない。


生きものの増える仕組みが、あらゆる生きもので同じだということから、本書の245ページでポール・ナースが述べているように、現在の地球上の生きものの誕生は、35億年の歴史の中でたった一回だけ起きた奇跡であり、全ての生きものは、われわれと親戚関係にあることになる。

これほど壮大な物語はないであろう。

私はよく思うのだが、教科書風のまとめなんぞ、どうでもいい。

大切なのは、こういった驚くべき発見をした本人による「生の物語」を読んだり聴いたりすることだ。

そこにこそ、科学という営みの本質が隠されている。


この壮大な物語こそが、若きポール少年が葛藤の末に捨てた聖書に代わるものであり、現時点における人類の知の到達点なのだ。


ただし、ポール・ナースの立場は神の存在は証明できず、知ることが不可能だという不可知論であり、単純に神を否定しているわけではない(きわめて科学的な態度だと感じる)。


なぜ今、このような一般向けの科学書を彼は書いたのか。

この本の随所で、彼は、現代社会の危機に言及している。


私は文系だから科学なんぞ知らなくていい。

私は経済人だから、私は政治家だから科学はいらない。

そう考える人が多ければ、人類は、ウイルスとの戦いで劣勢に立たされてしまう。

新型コロナだけではない。

人種やジェンダーで人を差別したり、地球温暖化を否定したり、科学を学ばないことによる弊害は極めて大きい


私は数々の科学書を翻訳してきたが、これだけ心を打たれた本は、初めてだ。

それほど、ポール・ナースという科学者の家族・友人・先輩・同僚・部下・人類、そして生きものへの愛情を感じた。


竹内薫先生の訳者あとがきも感動的ですが


本編ももちろんそれに負けず


というか本編があるから、竹内先生の


あとがきにもつながるわけでございまして


両方素晴らしいというのは


言わずもがでございます。


こちらも山中伸弥先生が出てこられます。


日本の誇りだなあと感じ入る今日この頃です。


生物学とは直接の関係ないのかもしれないが


自分としてこの書で印象的だったのは、


ポール博士の実の母親と思っていた女性が


実は歳の離れたお姉さんだったという件で。


よくネガティブにならずにおられたなあと。


誰でも幼少期というのは思うようにならない、


幼少期に限らず人生が、ってことなのだけど


このエピソードは何故か胸を潰されるような


思いがしましたことをここに謹んで


ご報告させていただきたく存じます。


 


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養老先生の方丈記の解説を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


漫画方丈記 日本最古の災害文学

漫画方丈記 日本最古の災害文学

  • 出版社/メーカー: 文響社
  • 発売日: 2021/09/10
  • メディア: Kindle版


 


深すぎる養老先生の解説。


いろいろなところで先生は


『方丈記』について語られていて


”無常感”というのは言うに及ばずだが


先生らしい視点で語られ印象的なのが


”田舎の米がなかったら、都会の生活も


成り立たない事を長明は800年前から


これを喝破してたのだよ”という


文明への警鐘文脈で引かれておられたが


総体的に解説しているのは珍しいと思った。


解説


時代の転換期を生きた鴨長明


すべてのものは移り変わる から抜粋


『方丈記』は日本の古典の中で、皆さんにいちばん読んでもらいたい本である。

何より全体がごく短い。

原稿用紙にして25枚と聞いたことがある。

ごく短い文章の中に、現在実際に起こったとしたら、とてつもない大事件になるようなことが、次々に淡々と描かれている。

都の火災、養和の飢饉、大震災など、政治的な背景は源平の合戦、福原への遷都、京への帰還など、それぞれを描いても長編文学になって不思議はない。


短い生涯の間に、こうしたことを全て身近に経験してきた鴨長明の晩年の思い出話がこの『方丈記』である。

鴨長明が生きた時代は、日本の全ての転換期だった。


東日本大震災の時にもこの随筆は


注目されたけれど、コロナ禍でも


同じように語り継がれるであろうことは


誰の目からも明白でして、養老先生も


日本の特徴と合わせて指摘されている。


余談なのだけれど、昔から思っていたのは


この随筆を埋もれさせずに発見したのは


誰なのだろうかという本筋とは


ほぼ関係のない所でして


宗教家の方達が語り継いでいたのか


本編に出てくる10歳の男の子が


何か関係するのだろうかとか。


本当は皆、見ている景色は違う から抜粋


鴨長明の時代以降、鎌倉、室町、戦国時代と時代は移り変わる。

それが終わるのが江戸時代で、天下泰平、再び「変わらないもの」が中心となる。

士農工商という「身分」制度は家制度と結びついており、これは時間が経っても「変わらない」。

大名の子は大名、農民の子は農民である。


その意味では江戸時代はいわば世間そのものを情報化した。

それがほぼ300年の平和を生み出した。

鎌倉から戦国までの時代とは大きな違いである。


明治以降はその路線が引き継がれ、現代社会にまで至る。

世界中が情報化して、そこでは情報化は個人にまで及ぶ。

国民は一人一人が番号化される。

でも番号は腰が曲がったり、ボケたり、シワがよったりはしない。


テレビの普及で何が起こったか

「他人と同じ情景を見ることはできない」という感覚が失われてしまったことである。


富士山の写真を見るとする。

その写真はある瞬間に、誰かが、どこか特定の地点から見た景色である。

「同じ」情景を他の誰にも見ることができない。

だから写真であり、テレビカメラなのである。

ほかの誰も見ることはできない情景を「だれでも見ることができる」ように思わせたのが、テレビを含めたカメラの仕業である。


一卵性双生児は遺伝子は全く同じだが、生まれてしばらくすれば、違う人になる。

見ているものがいつも違うのだから、当然であろう。

個性なんて、取り立てていう必要はない。

人はだれでも、他人とは違うものを見て生きる


自分に必要なものは何か から抜粋


『方丈記』はこの世に起こり得るほとんどの災厄を見てきた人の晩年の述懐だから、若者には必ずしも勧められない内容ではないかと思う。

そもそも方丈の庵とは、段ボールハウスみたいなもので、もう少しよく言えば、モバイルハウスである。

持って歩ける程度の家だから、家族がいたら、どうにもならない。


ただ『方丈記』で一番大切だと思うことは、鴨長明の自足の思想だと思う。


ものを持たないからいいのではない。

ものがなくても、本人が自足しているからいいのである。

ものをもって、自足しているなら、それはそれで問題はない。

ものを持つ、持たないは関係がない。

自足している人は他人のことをあれこれ言わない。

文句を付けない。

鴨長明はああしろ、こうしろと他人に指図しているわけではない。

世の中はこうでした、でも私はこうでした、と淡々と述べているだけである。


おりしも世界はコロナ禍で日常が変わってしまった。

その状況で、自分に真に必要なものは何か、人生とは何かを想う機会が増えたはずである。

鴨長明の自足の思想はそれにある意味で明確に答えている。


たとえ『方丈記』を読んだことがなくても、その思想は日本人の心の中のどこかに入っているはずである。

よく言われるように、日本列島は災害列島でもある。

自然災害はこの列島に住むものにとって、避けることができない。

東北の大震災以降、その列島が鴨長明の時代と同様に、動き出したらしい。

東南海地震は今世紀前半にほぼ「予定されている」。

首都直下型地震はいつ起きても不思議はない。


大きな災害が起こる時には、『方丈記』がかならず思い出される。

なにがあっても、『方丈記』は日本社会とともに生き続けていくであろう。


予定されている地震の根拠は


おそらく尾池先生の書籍だろうことは


池田先生との対談でも察せられる。


尾池先生の書も読んでみたいと思ったが


高額で手がでないため未読なのですが。


災害の警鐘は鎌田浩毅先生の書にもあった。


僭越ながら自分も以前から『方丈記』は


注視しておりまして生来忘れっぽいのに


それを忘れていないのは20年くらい前に


音声朗読をiTuneで購入していたから


覚えているのだけど、その時はあまり


本腰を入れて聞かなかった。というか


原文朗読だったからよくわからなかった。


コロナ禍で水木しげる先生の書を読んで


再燃し様々なバージョンやら論評など


読んで理解の一助としている。


中でも白眉は高橋源一郎先生のものだけど


そちらも「モバイルハウス」っていう


表現をされていて、この平仄の合いっぷりは


単なる偶然なのだろうか?


英語がわかるインテリジェンスをお持ちだと


共通してしまうものなのか。


語学も知性もあまり高くない自分には


なにもわからない。


そもそも、浅学な自分が『方丈記』に


なぜ興味を持ったかというと


三島由紀夫先生の最後の対談で


『方丈記』の話をしていて


鴨長明の死者の数を数える心境は


すごいと言っていたからなのだった。


それからざっと30年を経過して


今のような世の中になり、『方丈記』に


再会することになるとは。


先のことは本当にわからないのだなあ


と感じ入る夜勤明け、ブックオフで


論語増補版』を購入したことも


若い頃の自分では想像だにできんかったと


思う次第でこれも経年がさせている


滋味深い何かなのかもしれないのです。


 


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2冊のノージック博士から”理想の国家”を考察できなかった件 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)


AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2020/09/29
  • メディア: 新書

第3章 AIから人間を哲学する

岡本裕一郎


病に倒れて「むしろ幸せ」という人間の感性 から抜粋


岡本▼

ところで、人の幸福を考えたとき、面白い思考実験があるんですよ。

ロバート・ノージックが1974年に発表した『アナーキー・国家・ユートピア』でこう述べているんです。

「あなたが望むどんな経験でも与えてくれるような経験機械があると仮定してみよう。脳に電極を取り付けられたまま、あなたはこの機械に一生繋がれているだろうか」と。

今で言えばVR(ヴァーチャル・リアリティ=仮想現実)のような、擬似的に幸せになれる刺激をもらえる装置ですよね。

そうした仮想空間で味わう擬似的な体験をし続けることは幸福と呼べるのかどうか、という一つの問いかけなんです。

基本的に「幸福」というものを考える時に、伝統的には二つの立場があって。

一つは、「客観的」な形で幸福を規定できるという立場。

もう一つは、自身の実感として「主観的」に幸福感を味わうという形でしか語れないという立場ですね。


例えば、最近流行ったユヴァル・ノア・ハラリさんの著書『サピエンス全史』の中では、すべての記述が何の説明もなく「幸福感」という文脈で語られているんですよ。

最初から「幸福感こそが幸福だ」という感じで、前提を問うていない。

だから、幸福感という文脈で言うならば、当然ノージックの経験機械にしろ、VRにしろ、仮想空間の中で自分の人生が過ぎ去れば、それが一番幸福だということがあり得るわけですね。

その考えをむげに否定できないのは、例えば同じお金でも、すごくありがたく思う人もいれば、「なんだこんなものか」と感じる人も当然いるからです。

例えば、客観的な知識の場面だと、どうしても自分の思いと現実との対比ということが問題になります。

ですが、幸福に関しては、現実と自分の感覚を対比しなくても、幸福感なら幸福感だけで、ある程度完結するわけです。

なので、客観的な状態ということと切り離して、幸福感を論じるという方向はありますね。


この後、養老先生は亡くなられた多田富雄先生


の病後の活躍について引き合いに出される。


何を幸福と感じるのかは主観的なもので


それを突き詰めると人間本来の”生きる”と


いうことと相反するってことなのか?


”幸福感こそが幸福”というのは


どういう状態なのだろう。かなり難しいです。


これは哲学的な命題なのだろうか。


ノージック博士の”経験機械”については


井上智洋先生も指摘されていて


思考実験という表現で仰っていたが


実際に電極を入れたってことではなく


比喩だったのだね、ノージック博士の言説は。


猿に電極ってのは養老先生と池田晶子先生の対談


仰っていたけれども、その反射で勝手解釈


してしまいました。


でも気になるノージック博士の言説は如何に。



アナ-キ-・国家・ユ-トピア: 国家の正当性とその限界

アナ-キ-・国家・ユ-トピア: 国家の正当性とその限界

  • 出版社/メーカー: 木鐸社
  • 発売日: 1994/11/25
  • メディア: 単行本


 から抜粋


諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害すること無しには)行い得ないことがある。

この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官史たちがなしうることーーが仮にあるとすればそれーーは何かという問題を提起する。

個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるのか。

本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当化(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。


国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。

暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。

それ以上の拡張国家は全て、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。

最小国家は、正当であると同時に魅力的である。


ここには、注目されて然るべき二つの主張が含意されている。

即ち国家は、市民に他者を扶助させることを目的として、また人々の活動を彼ら自身の幸福(good)や保護のために禁止することを目的として、その強制装置を使用することができない。


むずい。とてつもなく。表現の問題なのか。


小さくすれば理想のコミュニティになる


大きいから問題だと読めなくもないのだけど。


私は(本書で)、認識論や形而上学における現代的な哲学上の著作の流儀で筆を進めている。

そこには、手の込んだ議論、非現実的な反証例を持ち出しての主張の論駁(ろんばく)、面くらわせる様なテーゼ、パズル、架空の構造的条件、特殊な領域の事柄に妥当する新理論を見出すための挑戦、驚くべき結論、等などが述べられている。

この手法は、知的な面白味と(望むべくは)刺戟に資することはあっても、倫理学上・政治哲学上の真理はもっと厳粛かつ重要なものであって、このような「俗悪な」道具立てによって獲得されるものではないと感ずる人もいるかもしれない。


しかし、倫理学上の正しさというものは、我々が普通に考えているものの内には見出せないのかもしれないのである。


本書の内容については、本文中で取り上げて論じているが(序でも)さらに、後に続く議論を簡単に述べておくことが許されよう。

私は個人の諸権利を強い形で定式化することから出発するのであるから、無政府主義者の次の主張を真剣に取り上げる。


即ち国家は、暴力の独占を維持し領土内の人々全員を保護する過程で、不可避的に諸個人の権利を侵害し、それゆえ本質的に反道徳的な存在である、と。

この主張に対して私は次のように論じる。

誰もそれを意図し、その実現に努力する者がなくとも、国家は無政府(アナーキー)状態(ロックの自然状態で考えられているような)から、誰の権利をも犯す必要のない過程によって生成しうる。


ちょいと軽いタッチでは読めない。


この大作にはそれ相応の覚悟がないと


読めない。しかもものすごくぶ厚い。


そもそも自分はアナーキストでは


ないからかもしれない。


第3章 道徳的制約と国家


<経験機械>から抜粋


人々の経験が「内側から」どう感じられているかということ以外に何が問題になるのかを問う時にも、我々は重要な難問に直面する。

経験機械があれと仮定してみよう。

超詐欺師の神経心理学者たちがあなたの脳を刺戟(しげき)して、偉大な小説を書いている、友人を作っている、興味深い本を読んでいるなどとあなたが考えたり感じたりする様にさせることができるとしよう。

その間中ずっとあなたは、脳に電極を取り付けられたまま、タンクの中で漂っている。

あなたの人生の様々な経験を予めプログラムした上で、あなたはこの機械に一生繋がれているだろうか。


もしあなたが望ましい経験をしそこなうのが心配なら、複数の営利企業が他の多数の人々の人生を研究し尽くしていると仮定して良い。

あなたは彼らが提供する多彩なこの種の経験の書庫またはバイクング献立から、例えば次の2年間用にあなたの人生経験群を選び出すことができる。

2年が過ぎればあなたは、10分間または10時間タンクの外に出て、次の2年間の経験を選ぶのである。

もちろんタンクの中にいる間、あなたは自分がそこにいることを知らず、全てが実際に起こっていると考えることになる。

他の人々もまた、自分の欲する経験をするために繋がれることができるので、他人のために仕事をするために機械から出ている必要はない。

(もし全員が繋がれていれば誰が機械維持の仕事をするのか等の問題は無視しよう。)


あなたは繋がれたいと思うだろうか。

我々の人生が内側からどう感じられるかという以外に、一体何が我々にとって問題なのか。

あなたが決断した時と繋がれる時の間に瞬時の心理的苦痛があるからといってこれを禁欲すべきではない。

一生の至福(もしあなたの選ぶものがそれであるなら)と比べれば瞬時の苦痛など何であろう。

それに、もしあなたの決断が最良の決断であるなら、なぜ心の痛みなど感じるか。


自分の経験に加えて、何が我々には問題なのか。

まず我々は、あれこれ事柄を行いたいと思うのであって、それらをしているという経験だけが欲しいのではない。

特定の経験については、我々がまずそれらの行為をしたいと思うからこそ、それらをしているという経験やそれらを成し遂げたと考える経験を得たいと思うのである。

(しかしなぜ我々は、それらの活動を経験したいとだけ考えず、それらを行いたいと考えるのだろうか。)

繋がれることをしない第二の理由は、我々が特定の形で存在し、特定の形の人格でありたいと思うからである。

タンクの中で漂っている誰かは、形の定まらない塊である。

長時間タンク内にいた人がどんな人なのかという問いには答えようがない。


彼は勇敢か、親切か、知的か、機知に富むか、愛情豊かか。

知るのが難しいというだけではなく、彼には(どうであるという)あり方がないのだ。

機械内に繋がれるのは、一種の自殺である。

心象の虜になった人には、自分が如何なる存在であるかは、それが経験に反映されない限り何ら問題になり得ない、と思われる場合もあろう。

しかし、自分が何であるかが我々にとって重要だとしても、それは驚くべきことだろうか。

なぜ我々は、如何に自分の時間が充足されるかにのみ関心を持ち、自分が何であるかには無関心でなければならないのか。


第三に、経験機械に繋がれることは、我々(の経験)を人工の現実に限定するが、これは人々が構成しうるもの以上の深さや重要性を持たない世界である。

より深い現実との接点は、その経験の模造は可能だとしても、本当には一切ないのである。

このような接触をもち、一段深い意義を探る可能性を、自分自身に残しておきたいと望む人は多い。


精神に作用する薬剤をめぐる争いの激しさは、このことを明らかにしている。

この種の薬剤を、ある者は単なる局部的な経験機械と看做(みな)し、他の者はより深い現実に至る道だと看做す。

ある者が経験機械への屈服と同じだと考えるものを、他の者は屈服しないための理由の一つに従っているんだと考えるのだ!


アナーキーと国家ってのは、何となく


わかるけれど、その後なぜユートピアなのか


なにをするとそれなのかがちとわかりませんで


第3部のユートピアは後付けだ


と序文にもあったので、もしかしたら


一貫性のないものなのかもしれない。


としても、よくわからなかった。


この書名から察するに


”国家”を軸に前後反転して、


秩序(資本主義)・国家・ディストピア


と置き換えるとわかるのだろうか


という読み方をしてみても


正直よくわかりませんでした。


仮にもしそうだとしたら今の状況を


予見していたようで驚くなと思ったのだけど。


マルクスとの関連など興味深く注視しつつ


今後の課題としたいと思いましたことを


謹んでご報告させていただきたいと思います。


 


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昨年と一昨年の6月の読書遍歴を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

6月に入ってまもないのでございますが

昨年と一昨年の今頃に読んでいた本を

並べてみました。

ので、自分以外は全く有益なものでは

ございません事をお知らせでございます。

余談ですが今朝方の地震は皆様

ご無事でしたでしょうか?

▼2023年6月に投稿した記事
06-28
06-27 
06-25
06-24
06-23
06-21
06-20
06-18
06-16
06-14
06-13
06-10
06-08
06-07
06-04
06-01

養老先生を読みまくりなのは昨年から。

日高先生、阿部謹也先生も同様。

日高先生経由でドーキンスやミームや

進化論を養老先生の視線を追ってみたり

多田富雄先生を読んでみたり。

▼2022年6月に投稿した記事
06-30
06-26
06-22
06-21
06-20
06-16
06-14
06-12
06-10
06-09
06-07
06-03

ガンジー、ピーター・フォーク自伝というのが

渋すぎますが、図書館や書籍への恩恵を感じます。

人類最大の発明は書籍なのかもしれない。

それからこの頃読んでいたので忘れられないのが

この書でございまして影響は計り知れない。

年寄りは本気だ―はみ出し日本論―(新潮選書)

年寄りは本気だ―はみ出し日本論―(新潮選書)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/07/27
  • メディア: Kindle版
ここで交わされている会話に中に
本の話が相当数あり、そこから
興味が出て取り寄せ購入や借りたりして乱読
さまざまな事を考察させていただき
読書の質が、あくまで自分のレベルでって
事だけど上がった気がしており
この書籍には感謝に堪えません。
ウクライナ戦争から始まっておられて
取り上げている時事ネタや文明論など
お二人の造詣深い高次レベルの
斬り方で語られる知性にシビレましたし
今もシビレている。
その全ての言説に賛同するものではないし
そもそも全てに賛同していたら
それこそ原理主義だろう、みたいに思ったり。
いろいろな意味で勉強になった。
しかしこの書は発売日が一昨年7月なのか。
ってことはこの投稿自体を
来月にすれば良かったと若干悔やみつつ
しかも『年寄りは本気だ』の感想なら
いくらでも書くことあったのに!と思った
夜勤明けのぼーっとした頭で思ったり
している嵐の夕刻でございます。

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2冊の手引きから”虚構とリアル”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


UFOとポストモダン (平凡社新書 309)

UFOとポストモダン (平凡社新書 309)

  • 作者: 木原 善彦
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2006/02/11
  • メディア: 新書

はじめに から抜粋


まず最初に断っておかなければなりませんが、本書は個々の未確認飛行物体(UFO)目撃事件の真相(本当に「未確認」か、いたずらか、金星の見間違いか、など)を追求しようとするものではありません。

また、異星人は存在するのか、異星人は地球に来ているのか、といった問題を扱っているものではありません。


もちろん、ところどころで「この事件の真相はこういうことだった」ということにも触れますが、本書が扱いたいのはそうした問題ではありません。


本書が扱うのは、「空飛ぶ円盤」(あるいは「UFO」とそれに結びついた存在としての「異星人(エイリアン)」(あるいは「宇宙人」)に関する神話(都市伝説)そのものです。

つまり、空飛ぶ円盤や異星人について社会でどういうことが言われ、信じられてきたかを、歴史的変遷に沿って文化側面から考察するのが本書の意図です。


第3章 エイリアン神話(1973-95)


近代のプロジェクトの放棄


原子炉の核から細胞の核へ


から抜粋


前期UFO神話の時代のUFOは、その超越的ハイテクを人間に対して敵対的に行使することはありません。

仮にそのようなことが起こるとすれば、そこで用いられる兵器(例えば超核兵器)は彼らの技術レベルからして想定される破壊力が大き過ぎます。

ですから、例えば、地球上のある都市が攻撃を受けたというような物語をUFO神話に組み込むことは不可能でした。

それに加えて、「核の危機をずっと以前に乗り越えた異星人たちは平和主義者だ」というコンタクティたちの主張は、そのような暴力的な侵略物語とは相容れませんでした。

いずれにせよ、超ハイテクを持った宇宙人による人間に対する危害という要素がUFO神話の一部となる余地はありませんでした。


宇宙人による侵略という事態は、確かにUFO神話の最初期にはありうることとして人々に不安を与えましたが、異星人たちが何も目に見える行動を起こさないまま年単位の時間が経過するにつれ、その現実的な可能性はほぼ完全に消えていました。

それが超ハイテクと言った時に核兵器を思い浮かべた時代の想像力の限界でした。


しかし、その事情が1970年代に入って大きく変わります。

第二次世界大戦後しばらくは、科学と科学技術の悪魔的側面を表象するものは物理的学的なイメージ=核爆発でした。

これが70年代には、DNA組み換えなどの生物学的なイメージに取って代わられたのです。

70年代に急速な進展を見たバイオテクノロジーはさまざまな騒動や論争を呼んでいました。

この時代には組み換えDNA論争が長く続き、70年代末にはクローン人間誕生騒動が起こり、78年には世界初の試験管ベビーが誕生しました。

当然そこには社会的な不安が伴っていました。


フランスの哲学者ミシェル・フーコーは『知への意志 性の歴史1』の中で、西洋近代に登場した権力を、以前の「死に対する権力」と対比して、「生に対する権力」と特徴づけ、「死なせるか生きるままにしておくかという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するかという権力が現れた」と主張しています。(フーコー 175)

かなり時代はずれ込んだことになるのですが、これと並行することが科学技術の領域にも起こったと考えられます。


つまり、殺す権力から生かす権力、すなわち生-権力(バイオパワー)への転換が見られたように、20世紀の巨大科学技術において、究極的な殺すテクノロジー(核)から究極的な生かすテクノロジー、すなわち生-科学技術(バイオテクノロジー)への転換が起きたのです。

今や「いかに殺すか」ではなく、「いかに生かすか」が問題となってきました。

そして、第二次世界大戦以後に、先進科学技術を手にしている存在として登場したエイリアンには、科学技術のこうした根本的な変質が最も如実に反映されたのです。

そしてそこにはさらに、ポストモダン化する社会における権力の変質も重なり、キャトル・ミューテレーションやアブダクションやインプラントなどの不気味な要素を含むエイリアン神話が生まれました。


第4章 ポストUFO神話(1995- )ポストモダンのかなたへ


サイエンス・ウォーズ


から抜粋


UFO神話が前期(1947-73)の空飛ぶ円盤神話から後期(1973-95)のエイリアン神話へと変化していった背景には、第二次世界大戦に近代科学に対して芽生えた疑念が不信へと膨らんでいく過程が重なっていました。

そして近代科学に対する不信感の増大は何も大衆文化に限ってのことではありませんでした。


科学研究の領域で1970年代から大きな影響力を持つようになってきたのが、科学史・科学社会学などを柔軟に取り込んだ、学際的な「科学論」です。


科学論の重要な先駆けとなったのはトーマス・クーンの『科学革命の構造』(1962)です。

彼は科学的知識が累積的で連続的なものだというそれまでの考えを真っ向から否定し、科学は共約不可能で不連続なパラダイムの上に立っていると主張しました。

自然科学も他の学問同様に一種の信念体系のようなものに過ぎず、「科学的知識」と呼ばれているものも所詮は文化的構築物に過ぎないというのです。


科学論の中にも、「科学はさまざまな歴史的・文化的・イデオロギー的影響を受ける」というだけの「弱い」バージョンから、「科学はある時代のある社会固有の文化的約束に基づいた恣意的な言説だ」とする「強い」バージョンまで、色合いはさまざまあるのですが、70年代半ばから90年代にかけてフランスのポスト構造主義哲学の影響もあって、「強い」バージョンが大きな影響力を持つようになっていました。


その結果、90年代半ばに起こったのがいわゆる「サイエンス・ウォーズ」でした。

単純にいうなら、科学の客観性を信じる科学者と、その客観性を疑う科学論者との間の論争です。


この「戦争」は、生物学者ポール・グロスと数学者ノーマン・レヴィットが1994年に出版した『高次の迷信』に端を発します。

『高次の迷信』は科学者が科学論者の生半可な知識を批判し、その延長で、人文科学系の学問全体を批判するものでした。


これに対して科学論者側は、1996年4月、『ソーシャル・テクスト』という雑誌の「サイエンス・ウォーズ」特集という形で応じました。

『ソーシャル・テクスト』はいわゆる文化研究的(カルチュアラル・スタディーズ)な論文を掲載している左翼系の有名な雑誌です。


しかし、ここで私が問題にしたいのは「サイエンス・ウォーズ」の展開の詳細ではありません。

注目すべきは、近代合理主義的信念を体現するものとしての科学が生き延びていた時代(70年代初頭まで)には空飛ぶ円盤神話があり、科学論が盛んだった時代(70年代半ばから90年代半ばまで)にはエイリアン神話があったという対応関係です。


第二次世界大戦の科学至上主義の末期を象徴する空飛ぶ円盤神話から、70年代半ば以降の社会構築主義的な「なんでも相対主義」(つまり、客観的事実など存在しない、存在するのは全て「事実」として社会的に作り上げられた構築物だという立場)を象徴する虚構的エイリアン神話へと大きく振れた振り子は、90年代半ばに再び揺れ戻すかのような動きを見せます。


科学者と科学論者とが直接対決を果たした「サイエンス・ウォーズ」をきっかけにして、極端に相対主義的な研究を生みつつあった科学論に冷水を浴びせられた90年代半ば、それまでバブル的に膨れ上がっていたエイリアン陰謀神話も急速にしぼんでいきます。

しかし、「サイエンス・ウォーズ」が単なる認識論から実在論への揺り返しとはならず、科学(至上)主義と相対主義との間で新たなバランスが模索されつつあるのと同様に、UFO神話もエイリアンから空飛ぶ円盤に単純に逆戻りするわけではありません。


90年代半ばという新たな「電子的言語」の時代に、超「主観的」な構築物だったエイリアン神話を支えた「文章」が再び何らかの「客観的」実在へと揺り戻したとき、電子的記録の中に新たな「客観的」実在やメッセージが出現することになります。

90年代半ば以降には、偽造文書や偽造フィルムは力を失い、逆に真正な文書やフィルムやデータが新たな力を得ます。

それは前期UFO神話において謎の飛行物体の写った写真やフィルムが話題の中心だったのとある意味では似ています。

しかし、90年代半ば以降の新たなタイプの都市伝説においては、文書やフィルムやデータの扱いが前期UFO神話の時代とは大きく異なります。


トーマス・クーン博士の書は、


そういうことが書かれていたのか。


まったく気がつけないヌケサクぶりでした。


この後”書き言葉”、”話し言葉”という対比で


語られるジャック・デリダとか、


まさかのカーソンの”沈黙の春”とか


(環境破壊を指摘した時代のアイコンとしてで


特にUFOとは関係ないですが)


ラカン派精神分析学者ジジェク先生の


例え話とか日本からは大澤真幸先生や


東浩紀先生などが引かれ興味は尽きない。


新たな都市伝説へ


から抜粋


新たなポストUFO神話は当然、次のようなものになってくるのではないでしょうか。

エイリアンよりももっと複雑かつ根源的に私たちの存在そのものに関わってくる他者という感覚、いわばシステムに入り込んだアンチシステム、私たちの秩序正しい生活に入り込んだ不快で危険なノイズのような存在という感覚。

しかし、そもそもあらゆる生命は、常に外界と関わる開かれたシステムであることで生きているのですから、自己なるものの中には深く他者性が入り込んでいて、生きている限りそれは排除できません。

結果として、あらゆるものをコントロールしようとする私たちのパラノイア的な衝動そのものが、わたしたちの手には負えないものの存続という不安を生みます。

それはさまざまな仮面をかぶって私たちの前に現れえます。


新たな異質なもの(エイリアン)は、災害や伝染病に対するパラノイア的な不安という形で虫かウイルスのような姿で現れることになるかもしれません。

ウイルスはまだしも生物的な活動をするものですが、新たな神話の核にはそのような生命さえ必要ありません。

環境ホルモンのような微小な分子レベルの物質が、また新たな形で人々に不安を与えるかもしれません。


新たな神話のベールがはぎ取られ真相が暴かれた時、そこに見出されるのは、近代の理想でもなく、虚構的な陰謀でもなく、ある意味で現実的な撹乱者の姿でしょう。

神話のベールをかぶった現実。

そこにある神話性を見破るのはおそらく容易なことではありません。


時代が動いた時、大衆の社会への不安が


生まれる時、手を変え品を変え、


それに呼応するよう意識または無意識に


創られるUFOストーリー=UFO神話。


世界レベルの世相動向とUFO神話を


照らし合わせて炙り出されるものを丁寧に


検証・解説されていた書で、実は少しばかり


がっかりしたところもあったり、なかったり。


カール・セーガン博士やドーキンス博士を


前もって読んでいたから免疫はあったものの


やっぱりそうなのかあ的な読後感。


それにしても、めちゃくちゃ多くの


参考文献が出てきてそちらも興味深かったし


何よりこの書を読むきっかけが


福岡博士のおすすめ本でもあったので



福岡ハカセの本棚 (メディアファクトリー新書)

福岡ハカセの本棚 (メディアファクトリー新書)

  • 作者: 福岡伸一
  • 出版社/メーカー: メディアファクトリー
  • 発売日: 2012/12/28
  • メディア: 新書

ハイソサエティの知性な人達にかかると

UFOもこうなるのか、という浅ましい


自分の知力の低さを露呈してしまった


読書でして、そろそろお風呂掃除と


トイレ掃除してお昼ご飯でございます。


 


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