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井上智洋先生の共著から”身体性”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

最近よく聞く”資本主義の限界”


”脱成長”、”マルクス”などが頭にあり


ベーシック・インカムMMT


導入することを提唱される


(これも是非あるシステムですが)


井上先生をフォーカスした


読み方をしてみた。


資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~ (光文社新書)

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  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2021/03/16
  • メディア: Kindle版


第11章 脱労働社会における人間の価値について


バーチャル・リアリティの発達した社会は悪夢か?


から抜粋


脱労働社会になれば未来のために頑張る意味は相対的に薄れるので、人はより刹那的で動物的になっていく。


エンターテイメントも大脳新皮質に訴えかける思想性のあるものよりは、本能や情動をつかさどる大脳辺縁系に訴えかけるものが増えていき、動物的、刹那的なものが好まれていくかもしれない。


バーチャル・リアリティの世界に没入して楽しむだけの生活もあり得る。

働かなくてもいいわけだから、ずっとヘッドマウントディスプレイをつけてバーチャルの世界を生きる人も増えるかもしれない。


人々がバーチャルの世界に完全に没入することは、倫理的にいけないかどうかという以前に功利主義的にまずいかもしれない。

リアルで起きる災害のような有事に備える必要があるからだ。


しかし、それは未来の世界で初めて直面する問題というわけでもない。

比喩的に、私たちの日々の生活そのものがバーチャル空間のようだとも言える。

私たちは世界で起きているテロリズムや飢餓、今後起こるかもしれない災害や戦争といった恐ろしいリアルから目を背けて、安穏とした夢うつつのような消費社会をむさぼっていられる。

そこへ、3.11のような災害が発生するとそうしたバーチャル空間のような安穏とした生活が破壊される。


そういった功利主義的な問題が仮に解決されたとして、バーチャル空間にひきこもって快楽をむさぼる生活を送ることは望ましいのだろうか?

それはドラッグの問題に置き換えてもよいかもしれない。


私は、ミュージシャンや俳優がドラッグをやろうがやるまいが個人的な関心はない。

「ドラッグをやっているミュージシャンの音源を販売停止にせよ」

と本気で憤っている人の気持ちもよくわかならない。

健康を害するのであれば依存症には支援が必要だと思うが、副作用がない場合はどうか?


アメリカの哲学者ロバート・ノージックの思考実験にあるのだが、脳に電極を挿し、直接的に脳内環境をうまくコントロールして幸福感を味わえることが可能になったとしたら、社会はそれを抑止すべきだろうか。

副作用もなく、この「プレジャー・マシン」(快楽の機械)が幸福感を与えてくれるとして、人々はいろいろと面倒な現実社会への参加意欲を持ち続けることができるのか?


私は今のところ、このプレジャー・マシンで楽しむ「自由」を否定するロジックを持ち合わせていない。

ただし、それが全面化した社会を悪夢のように思っている。


私たちが普段感じる感覚は全て脳が作り出している。

この主張に関して今まで様々な反論がなされてきたが、脳科学の研究では今のところ「すべて脳が作り出している」という証拠しか結局出てこない。


何を言いたいかというと、人間関係で得られる幸福感こそが「真の」幸福などとは言えないかもしれないということだ。

最終的には脳内物質のコンディションが人間の快・不快を決定づけているのではないか?

それは例えば神経伝達物質セロトニンの量が多めに出ているとか、そういう情緒のない話である。


人間関係を良好にして幸せが得られたとしても、脳内物質が作用して幸福感を感じさせているという意味では結果的に同様のメカニズムである。

心や精神と言われるものは、結局(脳の)物質性に還元できてしまう。


だったら、薬物やバーチャル・リアリティによって、快楽や安らぎや充実感を得続けることも倫理的に否定できないのではないか?

LSDは1960年代には、「インスタント禅」と呼ばれていた。

坐禅を組んで得られる悟りの境地に副作用のない薬物で至ることが可能だとしたらそれは許されるのだろうか?


誤解してほしくないのだが、私はあらゆる人々が薬物やバーチャル・リアリティによって快楽に溺れているだけの社会をおぞましく思っている。

しかし、そのおぞましさがどこからやってくるのかまるでわからないのである。

そのような社会を否定することのできる説得的な哲学を私は知らない。


”悟り”について、人間関係(俗社会)から


切り離され、修行の結果会得した


2500年前のブッダを引き合いに出され


現代では以前よく見聞きした


「マインドフルネス」に一部転嫁され


企業の研修などにも応用されていると。


自分としては、バーチャルでの”悟り”は


違和感があって、身体性を伴わないそれは


”悟り”と呼べるのだろうか、みたいな。


それも全て脳が作り出している、


脳も身体じゃ、という水掛け論になりますが


脳や身体を人為的にコントロールするのって


どうなんだろう?と思うのは


昭和生まれで時代遅れだからなのか。


身体性からと、バーチャルからの”悟り”が


同じものという認識でよいのかが


自分にはわからない。


音楽を聴いてモチベーション上げるのと


どう違うのよ、と言われると反論できない。


できるとしたら電極を脳に入れるのと


音楽聴く、という入力の形式は


圧倒的に違うよ、くらいで。


さらに言うなれば、では


歯を矯正するのはどうなん?とか


ペースメーカーは?とかの疑問に


近似しているような気がしておりまして


いや、先生方や世間様まして自分に


喧嘩売っているわけではございませんよ


イノセントな疑問でございまして。


これは研究の余地がかなりあってもしや


人類のライフワークと呼んでもいい


領域の仕事なのかもしれない


全く主題とかけ離れた読み方をする


資本主義に毒されている自分らを


なんとかせんと熟考及び鍛錬しつつも


久しぶりの休日、読者三昧または


本狩り(古書店フィールドワーク)と思いきや


家族と休みが合う少ない機会なので


まず掃除、その後外出して食事でもと


目論んでいる呑気なお父さんなのでした。


 


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