脳が考える脳―「想像力」のふしぎ



  • 作者: 柳澤 桂子

  • 出版社/メーカー: 講談社

  • 発売日: 1995/01/20

  • メディア: 新書





はじめに から抜粋



科学者には、おおきく分けて二つのタイプがあるように思えます。


その一つは、まったくわけのわからない混沌とした現象に興味をもつタイプです。


これを夢想家タイプと呼んでおきましょう。


もう一つは、ある程度謎が解けかけた現象を細かく解析していくことの好きなタイプです。


これを理論家タイプと呼びましょう。




科学の謎ときはジャングルを切り拓くようなものです。


まず、ヘリコプターで上から眺めて、どこから切り込むかを考えます。


ブルドーザーで木をなぎ倒して運び込む道をつけます。


この辺りまでが夢想家タイプの研究者の好むところです。




理論家タイプは、このあとを引き継ぎます。


木を切ったり、道を舗装したり、あるいは広場の草を一本ずつ抜き取るような作業もあるかもしれません。




どちらのタイプがよいというのではなく、両方のタイプがあるから、研究がうまくいくのでしょう。




私は典型的な夢想家タイプで、どこから手をつけてよいかわからないような問題に出会うとわくわくします。




1950年代からの生命科学は、夢想家にとってたいへん幸せな時代でした。


次から次へとヘリコプターの出動を要請されるような場面がありました。


ところが今やほとんどの問題は理論家たちの手に渡り、最後に残ったのは脳の問題だけになってしまいました。




脳の問題が、専門家以外の人にとっておもしろい点は、私たち自身の経験として謎を実感できることです。




たとえば、遺伝暗号の解読の問題は、生命科学のハイライトの一つでしたが、これを自分の経験として実感できる人はいないでしょう。


自分のからだの中で、DNAを鋳型(いがた)にしてタンパク質が合成される過程を感じることはできません。




ところが、脳の問題は、なぜ、ものが見えるかとか、記憶とは何かとか、私たちにとって非常に身近に感じられるはずです。




このような経験をもとにして、夢想家遊びをしてみませんか?




イメージというのは、視覚と深い関係のあるものです。


そのような視点から、眼を通して外部の情報がどのように脳に取り込まれ、その情報がどのように統合されて全体像となるかということをまず探ってみたいと思います。




イメージというのは、また、記憶と深く関連しているということも、経験的に納得していただけるでしょう。


記憶のないところにイメージはあり得ません。


視覚したものがどのように記憶されるかということを知ることも、イメージについて考える上で何かのヒントをあたえてくれるかもしれません。




さらに、イメージは、人間が生まれつき持っている思考傾向の影響を受ける可能性があるという考えがあります。


そのようなことを知るためには、人間の思考形態が、どれくらい遺伝的に決定されているかということも考えなければなりません。


それには神経系がどのようにして形成されていき、その過程に遺伝子がどの程度関与しているかということを、考えなければなりません。




さらに、一つの言葉が形、色、感触、音、匂いなどのイメージを同時に産むことを考えると、いろいろな器官を通して知覚され、脳に記憶された情報が同時に思い起こされる機構を考える必要があります。




たとえば「桜」という言葉を聞いたときに、あなたが思い起こすものを考えてみてください。


桜という言葉のもとにいろいろな情報が統合され、それらが同時にイメージとして浮かんでくることがわかると思います。




また、イメージというと夢との関連が気になります。


本題と少しずれると私は思いますが、夢が人間の無意識層のあらわれとして、精神科医療に使われてきたことなど考えて、夢についても少し触れてみました。




この本の中では、言語とイメージの関係についてはっきりした結論は述べていません。


現在の脳の科学の進展の段階では、まだはっきりした答えに至ることは難しいでしょう。




けれども、かなりのことがわかっていて、それを素材にして、いろいろと考えて楽しむことができるところまで到達できると私は思います。


夢想家にとっていちばん楽しい時期です。


皆さんもいろいろと考えて、考える喜びを味わってみてください。


そして、自分の仮説ができれば、これからの脳科学の進展を見守るのがずっと楽しみになります。


そのつど自分の仮説を修正していかなければならないでしょう。


あるいは、修正の必要のないほどうまく合う場合もあるかもしれません。


そのようにして、はっきりと自分の仮説といえるほどのものを作れない方でも、科学の思考のおもしろさを感じとっていただければよいと思います。


 


平成6年11月 柳澤桂子



おわりに 


「わからない」喜びと「知る」楽しみ から抜粋



さて、この本では、視覚を例にとって外部からの情報がどのようにして取り入れられ、統合され、記憶されるかということをお話ししてきました。


また、そのために必要な神経回路がどのようにして形成されるかということも述べました。


けれども、イメージとは何かということに対するはっきりした答えは得られませんでした。


言語につきまとうイメージは、どのような脳の機構によって想起されるのかという問題は依然として謎のままです。




科学では、たくさんのわからないことが混沌としています。


そこに小さなスポットを当てて、見えた断片をつなぎ合わせていきます。


その断片と断片の間はイマジネーションでつなぐのです。


誰も思いつかない断片どうしをつないでうまくいったときには大発見になります。


大発見というほどでもなくても、うまく断片をつなげたときの喜びは、言葉で表現できないほどすばらしいものです。




けれども、ここで気をつけなければならないことは、混沌としたものにスポットを当てたとき、私たちは、自分たちの脳の回路を使ってものを見ているのだということです。


私たちの脳とはちがった認識機構をもった生物が研究したら、まったくちがった見え方になるかもしれません。




私たちの科学は、私たちの認識の枠にしばられています。


そのような意味で、科学上の発見はすべて仮説です。




私たちは営々として仮説の積み木を積み上げて、そのことに喜びを見出しているのです。


そして、その一部を、科学技術として応用しています。




科学には、知識とか技術のイメージがつきまといますが、科学の本来の姿は、生物を含めた宇宙の法則を探っていくことです。


宇宙の法則は大変美しいものです。


それを、なぜ美しいと感じるかということは、また大きな問題ですが、とにかく美しいと思います。




そして、私たちは美しいものを知ること、見ることに大きな喜びを感じます。


まして、自分でその法則を見つけだしたとしたら、その喜びはいかばかりでしょう。




星空をイメージしてみてください。


明るく光るたくさんの星のように、私たちはたくさんの発見をしました。


けれども、その背後に広がる大きな宇宙のように、私たちがまだ知らないことがたくさんあります。




「ほんとうに知る」ということは「知らないことがいかに多いかということを知る」ことであると私は思っています。



素晴しすぎて形容しようがありません。


という形容を僭越ながらさせていただきます。


知っていることなぞ、ほんの一部


謙虚に臨まなければ何事も見えてこない。


柳澤先生のこの書を支えている書籍たちを


参考文献としてあげられておられる。


興味あり自分のテーマとリンクした時


ぜひ読んでみたいと思った秋の夜でした。



パシュラールの詩学』及川馥 法政大学出版局(1989年)


ソシュールの思想』丸山圭三郎(1981年)


知識と想像の起源』J・ブロノフスキー(1989年)


音楽と言語』T・G・ゲオルギアーデス(1994年)


『抒情の源泉』武川忠一(1987年)


はじめにイメージありき』木村重信(1971年)


『最新脳科学』矢沢サイエンス・オフィス編(1988年)


記憶は脳のどこにあるか』坂田英夫(1987年)


妻を帽子とまちがえた男』O・サックス(1992年)


神経成長因子ものがたり』畠中寛(1992年)


脳の進化』J・C・エックルス(1990年)


夢見る脳』J・A・ホブソン(1992年)


夢を見る脳』鳥居鎮雄(1987年)


眠りと夢』J・A・ホブソン(1991年)


本能と研究』N・ティンバーゲン(1975年)


神話の力』J・キャンベル/飛田茂雄訳(1992年)


無意識の心理』C・G・ユング/高橋義孝訳(1966年)


『夢って(ホントは)なに?』E・ドルニック(1991年)