遺伝的プログラム論 人間は遺伝か環境か?――遺伝的プログラム論 (文春新書)



  • 作者: 日高 敏隆

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋

  • 発売日: 2006/01/20

  • メディア: 新書




人間の人格は「遺伝」か「環境」かの


日高先生なりの論考でどちらも興味を超えて


深かくて考えさせられた。


 


はじめに から抜粋


われわれの人生を決めているのは、結局のところ何なのだろう?



白人はもともと遺伝的に優れていると主張する人もいたし、女は男より本来的に優れていることを述べた本もあった。


しかし白人にもいろいろな人がいるし、女だってさまざまだ。


よい家系と言われる一族にもどら息子が育つし、どうにもならないと思われていた家族からすばらしい人が出ることもある。


要するに遺伝か環境か、という単純な問題ではないのである。


では、どうなのだ?


そこで、遺伝という漠然としたものを、遺伝的プログラムとその具体化という視点から考え直してみることはできないかと思ったのである。



第二章 大人になるのは大変だ


遺伝か学習か から抜粋



学習は必要でないという結論になった行動は生得的(遺伝的)行動として行動生理学の研究対象的問題として、自然界におけるその機能が論じられた


このあたりのことについてはローレンツの『ソロモンの指輪』とニコ・ティンバーゲン(ティンベルヘン)の『動物のことば』、あるいは『ティンバーゲン 動物行動学』に詳しく述べられている。



学習が必要でない、ってのは現代人には


聞き捨てならない、いや2度読みしてしまうワードだ。


自然界における機能としてはそうかもしれず


機能というのは獲得するもので、ってのは


養老先生のだったか書いてあった気がするから。


それにしても、ティンバーゲンさんって、


先日読んだドーキンスさんの自伝の解説で知ったが


ドーキンスさんのお師匠さんだと。


世間は狭いというか、ジャンルを追求すると


人がつながっていくのが世の慣わしでございます。


 


第五章 人間と言語の不思議な関係


言語の学習 から抜粋



人間の子どもはごく小さいときから他人の言葉をまねながら学習していくように見える。


いろいろと言ってみて、妥当であったものを覚え、そうでないものは消していくという、いわゆる条件づけのようなプロセスで覚えていくというのが、昔からの一般的な考え方であった。


だから親は絶えず赤ん坊に話しかけ、このプロセスを促進せねばならないとも言われてきた。


けれど、アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーが比較的近年になって発表した「生成文法理論」によれば、人間の言語の学習は、まさに人間に備わった遺伝的プログラムの具体化にほかならないというのである。




チョムスキーの考えを、非常に巧みな例え話に置き換えてくれたのが、アーサー・ケストラーだ。(邦訳『機械の中の幽霊』)




農家に3歳くらいの男の子がいて、窓から表をぼうっと見ていた。


そこへ郵便屋さんが手紙を配達に来た。


するとその男の子がかわいがっているイヌが、郵便屋さんを見て咬みついた。


郵便屋さんは怒って、いきなりそのイヌを蹴飛ばした。


びっくりした男の子は急いで台所へ飛んでいって、お母さんにそれを告げる。


”The postman kicked the dog!”




するとお母さんはそれを聞いて、すぐその意味を悟り、「まあ、大変」と言って飛んでくる。




ここには不思議なことがいくつかある。


ぼくなりの理解で述べてみよう。



3歳の子にはじめて起きた現象を


誰からも教わらずとも、


単語を正しく並べて


母親に伝えることができたのは


何故か、と考察される。



つまりこの文章は、この子が生まれてはじめて作った文章なのだ。


にもかかわらず、彼は間違いなく、起こったことを話せた。


なぜそんなことが可能なのか?


この子が見たのは「イヌを蹴っている郵便屋さん」であった。


それがなぜ「郵便屋さんが」「イヌを蹴ったよ」という文章になったのか?




少々理屈っぽく言えば、郵便屋さんという単語は、郵便は配達する人を意味しているだけあって、どんな格好をしているか、どんな服装をしているか、今何をしているかなどということは何ひとつ想定していない。


「郵便屋さん」は、辞書の中にだけでてくる完全に抽象的な言葉なのである。


「蹴る」という単語もそうである。


これには誰が蹴るかということは含まれていない。




そのときに男の子が見たものは「イヌを蹴っている郵便屋さん」だった


これをこの子は、何をしているかということとは本来関係ない「郵便屋さん」という言葉と、誰がするかということは本来関係ない「蹴る」という言葉とに分けて、「郵便屋さんが蹴ったよ」と言ったのである。




イヌを蹴っている郵便屋さんというのは、ひとつの実体である。


その「ひとつの実体」を見た途端に男の子は、それを「郵便屋さんが」「蹴ったよ」という二つの言葉に分けてしまったということだ。




どうしてこういう具合に分けることができたのか。


それはわからない。


わからないというか、そのようにするのが人間の言語に関わる遺伝的プログラムなのだと、チョムスキーは言うのである。




さて少年は、「蹴っている郵便屋さん」というひとつの実体を、何をしているかとは関係のない「郵便屋さん」と言う「主語」と、「誰がするか」とは関係がない「蹴る」と言う「動詞」(「述語」)に分けてしまった。


そのためには、主語になるべき概念と動詞(述語)になるべき概念とが、どちらもちゃんと確立され、言語化されていなくてはならない。


主語と述語はいつもそれが一体となって、ひとつの現実を表している。


たとえば「私は学生です」と言ったとき、その人そのものが学生なのである。


学生であるということはその人が学生なのであって、学生であるということと、私というものが別々にあるわけではない。


しかし、文章で表すときには、「私は」「学生です」というふうに二つに分ける。


チョムスキーによるとこの組み立て方こそ人間の言語の特徴であって、人間の全ての言語において同じなのだという。



なんか、難しいゾーンに入ってまいりました。


いわんとするところはわかるが。


言葉の前に現実があり、それを具現化しようと


アウトプットすると人間の言語になり


組み立て説明しようとするということか。


後で読み返そう。


チョムスキーさんって言語学者さんだったというのは


初耳というのはまったくの主題ではございません。


 


対談


なぜ今「遺伝的プログラム」なのか?


日高敏隆 X 佐倉統(東京大学大学院情報学環助教授)


基本的なところは変わらない から抜粋



日高▼


ぼくは人間というものは、本質的には大昔からちっとも変わっていないと思っているのですよ。


ハーヴァード大学にミヒャエル・ヴィッツェルという神話学の先生がいるんです。


彼によると、世界の神話はアフリカで始まって、それが世界中に伝わっていったらしい。


そのときにいちばん大もとは世界の起源で、どの神話もそこから始まっていく。


土地によってそれが竜になったり、巨人になったりと形を変えて伝わっていくんだけれども、結局、もとはアフリカにあるという、そういう論文を書いているんですよ。




佐倉▼


神話の生成文法みたいなのがあるわけですか。


 


日高▼


そうです。


それはそれですごいんだけれど、伝わっていくという話は、途中の人に失礼じゃないかと思うんだ。


最初の人しかものを考えられなかったということでしょう。


後世の人だって世界の起源については考えていたはずだし、たまたまみんな同じような話になったと考えるほうが妥当じゃないかなあ。


今、日本の天文学者たちが、何百億だかかけてすごい望遠鏡をつくってくれと文部科学省に言っているんですよね。


ところが文科省は、「そんなお金ありません」と突っぱねる。


だけど学者たちはなんとしても14億光年昔の宇宙を見たいんだ。


「早くやってくれ、早くやってくれ」


と要望を出す。


文科省は、「先生、今年はダメだし、まだ二、三年待ってもらわないといけない」というと


「いや、そんなに待てない!」。


すると文科省の人が


「先生、だって14億光年昔の話でしょう。二、三年くらいいいじゃないですか」って(笑)。


それは冗談だけれども、要するに宇宙の起源を見たいということですよ、結局は。


そうすると、ヴィッツェルの話と同じじゃないかと思うんです。


天地の起源は何かということをいろいろ考えて、そこから神話ができていく


何万年の昔と今と、人の考え方は変わっていない


インターネットで人間の本性が変わるという話が出たときに、ぼくはそう答えたんです。


みんなが知りたいと思っていることは、あんまり変わりはないんでしょうね。


そういう意味では、「時代が変わったから、人間はこう変わる」という議論はちょっと待ったほうがいいと思うんです。


変わるのは、具体化の方法と、具体化する場合だけなんですよ。




佐倉▼


元のところにあるモチベーションは同じですよね。


私たちの起源はなんだろう?


世界の起源はなんだろう?ということを追求する。


京大の佐藤文隆先生が


科学者というと、どこかで書かれていました。昔、坊さんがやっていたことを、今、科学者がやっている


と、どこかで書かれていました。


科学の全部がそうではないとしても、確かにそういう面はありますよね。


進化論にしても、動物学にしても。


 


日高▼


みんなそうです。


ドーキンスも「われわれ人間はどこから来たか?」などと書いている。


結局のところ、それは昔から人が考えていることなんです。


それに対する答え方が少しずつ変わるというだけの話で、モチベーションはまったく同じだと思う。




佐倉▼


モチベーションはまったく同じだけれども、昔の神話だとか、宗教、あるいは哲学的ものと、今の科学のやっていることは、実際の成果やそこに至る方法論など、もちろん違いもたくさんありますよね。


同じ部分と、違う部分を両方うまく視野に入れていくということになるんでしょうね。




発想が同じだということを踏まえてなんですけれども、神話や宗教、哲学というのは、ある程度、人間の直感のようなものにしたがっていますよね。


でも、自然科学がそれらと一線を画しているところは、実証的な知見と数学の論理のようなものを積み重ねていくことで、人間の直感的なイメージの範囲を超えられることだと思うのです。


宇宙を考えるとき、人間はどうしても自分たちが世界の中心だと思います


地球が丸いという話になると、地球が宇宙の中心で、太陽が地球の周りを回っていると考える。


そのうちに、太陽が中心だという話になる。


ところが太陽系は、銀河系の端にある。




では銀河系が宇宙のすべてかというと、銀河系も宇宙全体から見たら、端にある。


進化もそうだと思うんですけれども、人間というのは特別な存在だという思い込みから出発して、そうではなくて、ずっと繋がっているきているのだということになる。


人間というのは常に、自分たちは特殊で世界の中心だと思っている


そういう直感的な思い込みというか、偏見というか、先入観に対抗して、科学的な知識というのは常に、人間を特別ではない位置に追いやってきています。


だから、モチベーションは同じでも、そこから出てくる帰結、たとえば


「神様が人間をつくった。人間は特別な存在だ」


というのと、


人間もあまたある神羅万象の中のひとつなんだ。もう少し自然の前に謙虚になりましょう


というのとでは、われわれにとっての意味が違う部分もかなりあると思うんです。



傲慢な状態だと調子は良いかもしれないが


他者のことが受け入れにくくなるのだろうな。


謙虚な姿勢だと受け取りやすくなる。


しかし、そこで問題があるのが


謙虚な人を利用しようとする輩がいて


それをかわすには、って問題でして。


今のところ答えとしては


利用されないように疑り深く見極める


としか言いようがない。


 


って日高先生から離れてしまったが


先生の書籍は本当に深くて面白い。


子供の頃に受けた疎外感が


自分も先生ほどではないにしてもあり


それが独特の共有感覚とでもいうのか


はなはだ僭越ながらも、感じる。


YouTubeでご本人の肉声もあったし


NHKにもあったのを


先月くらいに観たが


もっと先生の考え方を追求してみたいと


動物にはあまり興味はないので不思議だけど


そう思っております今日この頃でございます。