話し言葉から「唯脳論」を考察したく


早い話が簡素でわかりやすい気がした


からなのだけど、だからと言って


分かったとは、これまた曰く言い難し。


もともとの地頭が明察・明瞭では


ないのでって諦めてどうすると


鼓舞しながら読む。




脳という劇場 唯脳論・対話篇



  • 作者: 養老 孟司

  • 出版社/メーカー: 青土社

  • 発売日: 2005/10/01

  • メディア: 単行本





あとがき から抜粋


 



これまで、島田雅彦氏と一冊、柴谷篤弘氏と一冊、長い対談の本を作ったことがある。


しかし、多くの人との対談を集めた「対談集」は、これがはじめてである。


収録した対談は、私には、かなり長時間にわたる、という印象がある。


それは、その間に、自分の考え方がどんどん変化したからであろう。


まずはじめ、私は解剖学の専門家として出発した。


それから、解剖学とはなにかを考えるようになった。


それが『形を読む』としてまとまった。


解剖学とはなにかという問いは、ヒトの作業は、結局は脳に帰結するはずだという『唯脳論』となる。


それは、今度は、身体論となって、解剖学の対象に戻った。


いまでは、だから、身体論を考えている。


ここに集められた対談は、私にとっては、その間の考え方の変化を示している。


いまでは、そうした考え方も、やや異なってきた点があるが、こうして話がのこっていると、自分がなにを考えていたか、それがよくわかる。




脳と身体を扱うことは、しかし、結局はヒトそのものを扱うことである。


そう思えば、人間のすることは、ほとんど射程に入ってしまう。


ヒトの研究が、結局はいちばん面白いらしい。


医学畑から出発すれば、どうしてもそうなってしまうのであろう。


副題の意味はそういうことである。




井上靖に『射程』という小説がある。


主人公は神戸の不良で、最後は自己の「射程」を超えて破滅する。


私はこの小説が好きで、これを読んでいて、電車でいくつかの駅を乗り越したことがある。


この対談集も、私の射程を示している。


この先どうなるか、それはわからない。



科学の成立


進化の起源


対談相手:大島清(生殖生理学。京都大学名誉教授)


「種」がア・プリオリに存在するか


から抜粋



大島▼


恐竜で思い出したんですが、恐竜の時代にはべらぼうに巨大化しましたね。


あれはやっぱり遺伝子の変化というか、巨大化の道というのは、成長ホルモンか何かをコントロールするような何かが遺伝子に起ったんでしょうか。


 


養老▼


それがよく分からないのは、魚とか両生類では成長がとまるということがあるのかという話があります。


コイは寿命がなくなるまで一応大きくなる。


(略)


動物の中で、やっぱりある程度成長の限界というか、これが成体であるということが言えるのは、どうも鳥と哺乳類じゃないか。


 


大島▼


それ以上は大きくならないと。


 


養老▼


はい。成長ということと生殖ということで何で一致させなければいけないのでしょう。


成長のある段階になったら生殖可能であると。


昆虫なんか種類によったら幼虫の段階で生殖可能ですけれどね。


哺乳類の場合にはかなり義理堅く、ある成長段階にきた時に、特に人間の場合、そこで生殖可能であると。


(略)


ここで成長はやめだよということを決めた方が得だったんだろうと思うんです。


それがどうして得だったかというのは知りませんけれども、おそらく複雑なシステムになると、やっぱりあるところで切ったほうがいい。


こういう問題はここで切っておいて、それ以降はほかのことに専心するという。


(略)


たとえばわれわれの目ですと、でき上がったらそれで固定しています。


神経細胞もふえませんが、魚の場合特に両生類のカエルの場合ですと、網膜の周辺領域は成長の過程でつけ加わってくる。


目が大きくなりますから網膜自身も大きくなるし、神経細胞も外側につけ加える。


ところが、人間がそうやって絶えず成長していって、神経細胞がつけ加わっていったら、情報処理がどうなるかというと、非常に複雑になるんじゃないか。


 


大島▼


胎生期に細胞の数とかを調べてみますと、相当ふえておりますね。


それから生まれる直前、あるいは生まれてからしばらくして正常に戻る。


つまり、量を増やして質を調整するというようなところが、目だったら、特に胎児期、それから生まれてからほんのしばらくそういうのが続きますので、そういうことはもっとマクロに見て、動物の種でいろいろと按配されるんでしょうね。


 


養老▼


魚とか両生類というのは、それをやらないで、最後まで大きくしていった。


だけど、それをやると、たとえば中枢のコントロールは非常に難しくなっていく。


絶えず新しい細胞が参入してきてしまいますから、どっかで切っちゃて、その中で洗練するということを、われわれの頭は知っているわけですね。


だから、あとは間引く一方ですね。


 


編集者▼


遺伝子の数なんかは、両生類あたりが一番多いらしいですね。


 


大島▼


アフリカツメガエルなどヒトのDNA量の八倍も持っている。


 


養老▼


特にシーラカンスみたいな、ああいう無気味な魚。情報というのは、どうもコツは間引きにあるみたいですね。


 


大島▼


それを人口調節のためにサルもやっていれば、人間もやっている。


 


編集者▼


遺伝子レヴェルでもやっているということですか。


 


大島▼


遺伝子レヴェルでもやっている。マクロでもミクロでもやっているというのはすごいね。




編集者▼


ダーウィンの『種の起源』を読むと、最後の方で種自体が確定しないんじゃないかということを、ダーウィン自身が書いていて、無限に中間段階があるので種というのを本当に決められるかどうかということを懐疑的に書いているところがあります。


サルと人間の場合でも種の問題とか、中間段階があるかないかということでいろんな議論があると思うんです。


たとえば生殖可能であるか、可能でないかとか、そういうことで種を徹底的に定義していくという方法もあるでしょうし、だけども、変化していくと考える場合に、必ず中間段階を考える。


その場合、中間段階がないか、あるかということが、進化の問題を考える時には大きな問題になってくると思うのですが…。


 


養老▼


私はア・プリオリに種というものはあると思います。


それは論理じゃないんです。


私は昆虫を好きで集めていまして、小さいときから種というのはア・プリオリに存在するというふうにまず思っていましたね。


私が考えて『種の起源』の一番インチキなところは、<種の起源>という題をつけたことだと。


彼は変種、亜変種とか、中間段階を無限に認めていくんです。


 


大島▼


彼は、だから連続させるために…。


 


養老▼


そうです。連続させなければ、あのセオリーが成り立たない。


ですから、それを最近の古生物学者は漸進(ぜんしん)説と呼んでいるわけですね。


漸進説はおかしいと。


ダーウィンの説はそこが間違っているんだという言い方をするわけです。


私はいま答えは持っていないんですけれども、おそらく関係があるんじゃないかと思うのは、これは物理学に似ていて、ニュートニアンで考えれば、連続的に考えられます。


しかし、量子力学になると不連続に考えるしかない。


そして、生物学の量子とは何かというと、種なんです。


生物というのは、仏様の教えじゃないけど、アリから人間までずっと連続なものであれば、どこに線を引くという理由もない。


ところが、人間というのはなぜか知らないけれども、二通りの考え方をする。


一つは連続もう一つは不連続です。


つまりアナログとディジタルと言ってもいいんです。



「ディジタル」という響きが懐かしい。


90年代はみんなそう表記してたよ、そういえば。


それはどうでもいいとして、


ダーウィンの時代にはもちろん


デジタルはなかったのだけど


極論するとダーウィンはデジタル的観念を


持っていたってことなのかな。



だからダーウィンに味方して言うとすれば、私は種の重みというのを考えるわけです。


ホモ・サピエンス、ヒトという種とカブトムシの種、それから大腸菌の種の重みが同じかということを考えますと、これはどう考えたって同じだとは考えられない


実際に個体の重量をはかったって、ケタが違いますから。


それを同じ種というカテゴリーで区切るのは、これは確かにおかしいというのは、誰でも賛成してくださるんじゃないかという気はするんですね。


人間というシステムは非常に複雑なシステムで、それに比べると大腸菌ははなはだ簡単なシステムで、それは重量に出ていますというわけで、ケタが違うでしょう。


ところが、分類学はそれを種として同じ重みの不連続の単位にしてしまうわけですね。


それはたぶんおかしい。


原核生物の種と哺乳類の種とが同じ種であるというのもおかしい。


しかし、哺乳類なら哺乳類というある限られたグループをとってみますと、その中に分離した単位があることはまた誰でも認めると思う。


それではヒトとサルの中間段階があるかというと、これは時間というファクターを入れていくと、あると考えざるを得ないんですね。


どこかで祖先が共通にならざるを得ないんで、最初に分かれた時には、それは交雑可能であったんじゃないですか。


 


大島▼


古生物学者は化石にしか頼れないでしょう。


そうすると、やっぱり断続的なんですよね



<時>の観念と進化論


から抜粋



養老▼


ゲーテが進化論者であったかないかという問題ですが、ダーウィンはある種の<時>の観念を持っていたけれども、ゲーテは持っていないから進化論を立てることができなかったという。


私が見ていますと、ゲーテは<時>の観念をどういうふうに取るかということについて迷っていたから、ダーウィンのような進化論を立てることが出来なかった。


つまり、<時>に何種類あるかということですけれども、ダーウィンの時代には既に<時>というものは、現在、進歩史観と簡単に言われますけれども、そういうふうな過去から未来に向かって一方向に時が流れるという、そういう<時>が19世紀に成立していたんじゃないかという気がするんですね。


その<時>を前提にしますと、進化論というものは一応成立する。


それ以前は、そういうふうな<時>の観念がもう少し曖昧であって、逆に言えば<時>に関して自由が許されていたわけです。


ですから、聖書の中には宇宙の創世から最後の審判までの<時>が全部一冊の本に入っている


そういうふうな<時>の扱い。


それから、瞬間という<時>があるんです。


これは非常におかしな<時>であって、『ファウスト』の主題はその正念場ですよ。


瞬間に向かってこう呼びかけた方がよかろう。とどまれ、おまえはいかにも美しい


これはゲーテの『ファウスト』の中の科白なんです。


しかし、ゲーテという人は同時に原型という観念を一方で追求する。


原型というのは、これは永遠の姿なんですね。


つまり、生物には基本的な姿があって、それは永遠に変わらない


現代風に言えば、これは構造です。


ところが、同時にゲーテという人はメタモルフォーゼということをいうわけです。


メタモルフォーゼというのは永遠に変転するわけですね。


その変転する姿の一瞬をとどめるものが美ですね。


同じ人がウルティブス(原型)ということを求める


だから、ゲーテの頭の中では<時>というものは無限に揺れ動いて止まらない


瞬間と永遠の間ですね。


ところが、ダーウィンはおそらくそこについては何も疑いを持たなかったんじゃないか。


<時>というのは過去から未来に向かって物理的に、無条件に、ただ流れていくものである、と。


そういうふうな<時>の観念がはっきりした時、進化論が成立するんだろうと思います。


 


大島▼


<時>に対する観念が、ゲーテと違うということは言えるね。



ゲーテもダーウィンも日本では馴染み深いけれど


ゲーテは海外、特にドイツでは


日本ほどではないというのは


養老先生の対談で聴いたことがある。


古い哲学者というような認識なのかなあ。


自分は興味あるのだけど、なかなか読む機会がない。


連続と不連続、瞬間と永遠の間、を考えて


この二人を捉えると共通の何かがあるのだろうか。


深すぎて見えません。でも面白い。


 


余談だけど、養老先生の書って


これは初出1991年らしく


今のようなメジャーになられる前の


もののようで。


平成で最も売れた書籍『バカの壁』を


中心として


2003年以前、2003年以降とすると


「以降」の方が圧倒的に読みやすく


簡素なものが多いのだけど


なんか物足りないように思ってしまったり。


 


「以前」はかなり難しいと感じる。


でも、「以前」の方がなんとなく


面白いと感じてしまうこの頃でして


昔の書籍を買い漁っております。


よく分かってもいないのだけど、


なんか面白いのだよねえ。