読書脳 ぼくの深読み300冊の記録 (文春e-book)



  • 作者: 立花隆

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋

  • 発売日: 2016/05/13

  • メディア: Kindle版






巻頭特集「読書の未来」


対談相手 石田英敬(東京大学附属図書館副館長)


若いときには知的な背伸びを から抜粋


立花

年を取って最近よく感じるのは、昔、すごく読むのに苦労した本を読み返すと何でもなく理解できてしまうことです。



石田

なるほど。



立花

それでこう考えたんです。


読む行為というのは本来単純なものなのに、自分で複雑にして難しくしているだけなんじゃないか、と。


読む行為の中身は基本的に概念操作ですよね。


脳がやっているのはせいぜい四則演算、微分積分くらいの単純な計算で、それを組み合わせて、読むという行為が成り立っていると思うんです。


若い時は、その組み合わせ方を自分自身で複雑にして、あるいは一見複雑なものを単純なものの集積に関平することができなくて、だから難しいと感じたんじゃないか。


読書をしたり、あるいは今日、石田さんとお話ししたりする際に使う脳の高次機能に費やされるリソースの割合は案外、小さいのではないかと思います。


手足を動かしたり、体のいろんな恒常性を維持したりするために費やされているリソースのほうがはるかに大きい。


そういう活動は基本的にルーチン化することで半自動的にすませることができるということがわかって、脳は脳内細胞の活動領域やメモリ領域の割り振りを大幅に合理化している。


年を取るとそういうことができる。


つまり、脳細胞をスカスカになった状態で使ってすませている。


若いときに脳全体をハイパー活性化状態に置いて、脳細胞全体に脂汗を流させていた頃にくらべると脳を飛躍的に合理的に使えるようになったのではないか(笑)。


それで昔難しいと感じた本を難しいと感じなくなる。


そういうことが起こっているんじゃないかと思うんです。


いわゆる老人力が発揮されている状態です。



石田

どうでしょう、たぶん違うと思います(笑)。


私には立花さんの文化的コンピテンス(能力)が高くなった結果、少ない努力で理解できるようになったと思われますね。


私が大学一、二年の学生たちによくいうのは、「100パーセント理解できるような本は読んでもしょうがない」ということです。


なぜかというと、完璧に理解できる本をわざわざ読む必要がないからです。


そうかといって半分以上分からないとちんぷんかんぷんになる。


だから六割とかそれくらいわかるような本を読むのがいいでしょうね。



電子書籍は紙の本を殺すのか


から抜粋


石田

いまアップルのiPadなど、スレート(石板)型のデバイスが出てきていて、それはそれで便利ですが、コデックス(冊子本、綴じ本)の備えている機能はなかなか捨て難い。


むしろスレート型デバイスの登場で、コデックス型の利点があらためて認識できるようになりました。



立花

ヴィクトール・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』


 





ノートルダム・ド・パリ(上)



  • 出版社/メーカー: グーテンベルク21

  • 発売日: 2015/03/04

  • メディア: Kindle版






という15世紀パリを舞台にした小説に、「コレがアレを殺す」という有名な章がありますよね。


そこにノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロが、印刷されたばかりのグーテンベルクの印刷本と寺院の大伽藍を比較して、「コレがアレを殺すだろう。書物が建物を」とつぶやく場面が出てきます。


グーテンベルクの活版印刷が登場したからといって、それで建物が消えることはありませんでしたが、大聖堂に象徴されるキリスト教が絶大な権力を振るっていた中世は終わった。(


写本に代わる印刷本という新しいメディアの登場が文明の交代を促したわけです。


いま、これまでの印刷本に代わる電子書籍が登場して普及しつつあるわけですが、15世紀と同じように、「コレがアレを殺す」ことはありえるんでしょうか。


 


石田

iPadのような電子的なスレートが、コデックスを殺すのか、ということですね。


いま立花さんがおっしゃったように、実際にグーテンベルクの印刷本がノートルダム大聖堂を殺すことはありませんでした。


メディア史研究でも一般に、古いメディアを新しいメディアが完全に乗っ取ってしまうとは考えられていません。


広く受け入れられているのは、成層論、つまり、新しく登場するメディアが古いメディアを完全に消し去るわけではなく、層が推積していくように、各メディアの関係が変わっていくという説です。


これまで新しいメディアが登場するたびに「コレがアレを殺す」という議論が繰り返されてきましたが、スレートとコデックスの関係だけでなく、テレビ、ラジオ、映画などマルチメディアとの関係についても考えなければならないと思うんですね。


マーシャル・マクルーハンは、活版印刷技術が生み出した文化圏としての「グーテンベルクの銀河系」による文明が間も無く終焉を迎え、テレビに見られる視覚優位の電子メディアによる文化圏の到来を予見しました。


しかし、実際に今見られるのは、マクルーハンが描いた未来像より複雑な状況です。


たしかに電子メディアは世界を席巻していますが、活字メディアの中心的役割を果たした文字が消えてなくなったわけではなく、むしろインターネットの登場で文字が復権してきたとも言えます。


ただし、文字は復権したけれども、紙の上の文字においてではないという点が状況を複雑にしているわけですが。


 


立花

たしかに、メール、メッセンジャー、ブログ、ソーシャルネットワーキングサービスなど、ウェブ上のいたるところに文字が躍っている。


インターネットの登場で、人類がやりとりする文字量は爆発的に増えたことは間違いありません。


 


石田

特に、何かコメントを付けるというのが、インターネットでの発信活動の柱の一つですよね。


記事、動画、写真などに対して多数の閲覧者がコメントを付ける。


それによってウェブは成り立っています。


動画共有サービスのニコニコ動画なら再生中の動画そのものにコメントを表示させることもできる。


しかし、現状では、コメントのつけ方に秩序が確立していません。


私はそれがインターネット上でも起こる問題の背景にあると考えています。


ウェブ上で、あるメッセージなり、コンテンツなりにコメントを付け加えるとはどういう行為なのか。


それは紙の本で言えば、注釈とか脚注をつける行為に非常に近いと思うんです。


注釈の付け方には、意見の表明、引用、参考文献の例示などいろいろある。


フランスのポンピドゥ・センターのグループと共同研究で、注釈のカテゴリーの洗い出しをしているところですが、いずれはそこで得られた成果をソフトウェアの開発に活かしたいと考えています。


先ほど立花さんが学生時代にゼミで『荘子集解』を読まれた経験を話されましたが、注釈のつけ方には書物の歴史はじまって以来の長い伝統があります。


その中で、注釈をつける行為が成熟し、制度化されてきた。


しかし、書物以外のメディアについては、それがまだ確立していません。


注釈をつけるとは、コンピュータ用語で言えば、「メタデータ」を付けるということです。


新しいメディアに対してどんなメタデータを付け加えるか。


その手段がこれから文化的に洗練されていくんだろうと考えています。



初出2013年なので、この時から10年経過。


注釈のメタデータのお考えについて、なるほどなあと。


注釈・脚注って大事で、深めるためだけにあるのでなくて


そこから膨らむこともある知的好奇心。


 


付け加えたいのは、インターネットの特性として


リンク機能もありますよね。


注釈を置くよりリンクさせて補足みたいな。


リンク以外にもJava Scriptでページ上に小窓とか


フキダシみたいのもだせますしね。


 


それと「コレがアレを殺す」記述についても補足で


この対談だけだと少しわかりにくかったので


この対談の前に立花さんが同じ引用を踏まえて


「まえがき」で言っていたことと合わせて考えると


分かりやすかった。


まえがきから抜粋



グーテンベルク革命によるルターの書物の爆発的な広がり(ほんの数年で30万部。ドイツの出版物の半分以上がルターの書物となった)が、宗教改革をもたらし、カトリック教会のヨーロッパ精神世界支配を危ういものにしたのである。



大聖堂の建物は、つまり宗教とか権威のメタファで、


本というのは一般の人たちの知識のメタファで


それとの闘争の始まり、みたいなことかと。


今自分のよく読む本のテーマに置き換えるなら、


神と科学、みたいなものにも通じるなあと。


拡大解釈しすぎかな?


 


デジタル・キュレーター から抜粋


立花

今や知を俯瞰するということが難しくなってきましたよね。


サイエンスに限っても全体を俯瞰するなんてことは誰にもできません。


あるカテゴリー、たとえば生物学についてはフォローするということができても、同時に他の物理学、化学についてもフォローできるのかといったら、それは極めて困難です。


全体をフォローしたいと思っても、それでカネを稼いでいくということがなかなか成り立たないですね。


出版の世界もかなり弱ってきていますから。


僕なんかいままではかろうじて生きてきましたけれども、どこまでこういうスタイルの仕事が続けられるのかといったら、もう瀬戸際だと思います。


 


石田

いま人間の代わりに、知をインテグレートしようとしているのは、コンピュータです。


 


立花

株取引の世界がまさにそうですよね。


株取引はいま、コンピュータですべて統御されています。


金融会社が株取引のための計算能力をひたすら高めていった結果、いまや人間は取引のほとんどすべてをコンピュータにお任せ状態だそうです。


そういう状況は社会の至るところで見られるようになっています。


 


石田

ええ。でも私はやはり人間の知が介在しない世界は怖いと思うんです。


もちろんだからといって昔に戻るのではなく、ITを基盤にしなければならない。


IT化で、テキスト、映像、音楽など、あらゆるメディアがデジタルな情報になりました。


インターネットが本格的に開始された1995年を起点とすると、それから10年間くらい、情報はバラバラなままだった。


それが再編集、あるいは構造化されつつあるのがその後の展開だと思います。


インターネットの世界はボトムアップが基本なので、放っておいても、いずれ構造化は進むのかもしれません。


しかしトップダウンで秩序を与えないと失われるものが大きいでしょう。


それではどのようにインターネットの世界に秩序を与えるのか。


そこに大きな示唆を与えてくれるのが書物だと思うんです。


 


立花

書物が歴史的に培ってきた構造は、あらゆるものを考える基本だと思います。


ぼくの読書日記がその助けになれば嬉しいですね。



ということで、立花さんの書評がこの後続く。


その中から3つだけ引かせていただきます。


 


私の読書日記 2006.12〜2013.3


脳科学・日本のメメントモリ から抜粋



ジル・ボトル・テイラー






奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)



  • 出版社/メーカー: 新潮社

  • 発売日: 2012/03/28

  • メディア: 文庫




を読み出したらところ、これが面白い。

著者は脳科学者。ハーバード大の脳組織のリソースセンターの研究者。


ある朝突然脳卒中に襲われる。


左目奥から「突き刺すような痛み」を感じたかと思うと、左脳の知的能力(言語能力など)をほとんど失ってしまう。


身の回りで起きていることの状況確認能力が失われ、判断能力がなくなり、肉体を自分で主体的に動かす能力も急速に失われてゆく。


左脳の中心部に広範な脳内出血が起きたのだ。


脳機能のすべてが「ゆっくりモード」に入っていく。


ポケットから電話番号表を記した紙を出し、電話をかけるという単純な行動すら、なかなかできない。何十分もかかってしまう。ウメキ声を出す以外、発語もできない。


パニックになって不思議でない状況の中で、脳は驚くほど静かな幸福感に満たされていた。


からだの感覚が失われ、からだと外界の境界がはっきりしなくなる。


意識が宇宙と融合して「ひとつになる」。


それは仏教徒のいう涅槃(ニルヴァーナ)に近い状態だった。


助けを呼びたくて焦っている自分がいる一方、説明のつかない幸福感を受け入れる自分がいた。


これはまことに不思議な本である。


脳科学者が自分の脳が壊れる過程と、それが回復していく過程(一応の回復は最初の8ヶ月間。フルに回復するには8年かかった)を微細に内側から語っていくことで、これまでのいかなる脳科学書も及ばぬレベルで、脳の真実が解き明かされていく。


破壊されたのが左の脳で、それが復活再生するまでいきのびさせてくれたのが右の脳の力であったところから、著者が経験的に語る独特の右脳・左脳(特に14章)は実に説得力があって面白い。


人間にはどちらの脳機能も重要だが真の世界認識にいたるには両方の機能が必要という。


「左脳マインドはわたしを、いずれ死にいたる一人の脆弱な人間だと見ています。右脳マインドは、わたしの存在の真髄は、永遠だと実感しています。」


(2009年4月)



なかなかにしびれそうな書籍で。


脳梗塞にもあてはまるんだろうか。


読んでみたいと思わせられた。


見出しにあるメメントモリ(死を忘れるな)は


この後の日本の書のことです。


これ以降見出しは立花流のもので


いくつかの書を紹介しているという


そういう法則です。ちなみに。


原発政策、オウムの精神史、移行化石と進化 から抜粋



アメリカではいまなお、ダーウィンの進化論を信じない人がほぼ半数いる。


昔から、ダーウィンの進化論を信じない人々の主要な論拠の一つが、種が進化するときの中間形態の化石が発見されていないということにあった。


しかし、近年、見つからないがゆえに”ミッシング・リンク”と呼ばれてきた中間形態の化石が続々と見つかりはじめている。


ブライアン・スウィーテク『移行化石の発見』はそのような驚くべき化石の発見史の物語。




移行化石の発見



  • 出版社/メーカー: 文藝春秋

  • 発売日: 2011/04/11

  • メディア: 単行本





 


 


たとえば、クジラは陸に上がった哺乳類が再び海に戻った種だが、陸上を4本足で歩いていた時代の化石が見つかっているし、鳥は恐竜から進化したという説が長らく本当のこととされなかったが、移行期の羽毛におおわれた恐竜の化石が発見されて本当だと信じられるようになった。


面白いのは最終章「進化は必然か偶然か」。


ある環境が与えられたら、ある進化が起こるのは必然なのか。


別の言い方をするなら、この地球環境が人間を生み出したのは必然なのか。


ある進化が起きたとき、やり直したら同じ進化が起きるのか。


1988年ミシガン大学で大腸菌を使って壮大な実験が行われた。


全く同じ大腸菌群を育て、五百世代ごとに冷凍保存していった。


三万五百世代で重大な進化が起きた。


世代をずっとさかのぼって、サンプル解凍で多数のやり直し実験をしたところ、また三万世代で大きな進化が起きたが、進化の方向は違っていた。


さらに実験を続け四万世代まで来ているが、結論は、進化は偶然の上に偶然が積み重なって起きるのだから、同じ進化じゃ二度と起こらないというもの。


人間も同じで、この進化は偶然の積み重なりで起きた。


地球環境がさらに数億年続いても同じ進化は起こらない。


我々人間が滅んだら、人間が再生することはない。


(2011年4月)



この立花さんの言い回しは深く示唆に満ちて聞こえて


震撼するような、昨今の世界事情・環境問題。


読み手の今考えてるテーマやら知識量によって


変化してしまうってのも読書の面白くて


かつ危険なところだろうな。


余談だけど、三島由紀夫をいまいち本気で読めない


というか読まないのは危険すぎるから


というのがございますかな。太宰治もかな。


もう五十歳過ぎればそんなこともないけれどね。


 


突飛なるもの、進化と文明、アクターズ・スタジオ・インタビュー から抜粋



映画好きの人なら誰でも知っているのが、ジェイムズ・リプトンの「アクターズ・スタジオ・インタビュー」だろう。




アクターズ・スタジオ・インタビュー―名司会者が迫る映画人の素顔



  • 出版社/メーカー: 早川書房

  • 発売日: 2010/06/01

  • メディア: 単行本






 


 


アクターズ・スタジオは、1940年代にできたアメリカで最も有名な俳優養成機関だ。


そのスタジオにアメリカの俳優、演出家、作家、映画監督などが次々に呼ばれ、副校長でもあるリプトンが公開で行うインタビューは、世界百二十五ヵ国で放送され(日本ではNHKBS)、アメリカでは八千四百万世帯が見ているという超人気番組。


そのインタビューは驚くほど質が高く、映画演劇研究には欠かせない資料となっている。


本書『アクターズ・スタジオ・インタビュー』はその内幕を本人自身が詳しく語ったもので、きわめつきにおもしろい本だが、あきれる他ないのが、この本の作り。


目次もなければ索引もない(索引がなかったら資料価値はほとんどゼロ)。


内容も原著が厚すぎるので訳者が大幅に削ったという。


だいたいこの訳者は、94年開始のこの番組を数回しか見たことがない由で、その価値をほとんど知らない人らしい。


解説らしい解説もほとんどない。


(2010年7月)



立花さんっぽいなあ、と思う文章。


一刀両断。索引ない本は資料価値ゼロ、


とまで言い切る。


出版社で企画に携わる人、よく読んでください。


そして自分、出版の仕事じゃないけれど


立花さんが生きていたら


「君の仕事の仕方は価値ゼロだね」と


言われないようしないとと


身の引き締まる思いのする言葉だった。