いま、世界がようやく、「つげ義春」を発見しつつある。
その象徴が、2020年のアングレーム国際漫画祭での顕彰(けんしょう)であり、
人前に出ることを嫌う作家に、初の海外渡航をうながしもした。
事前には、関係者でさえ半信半疑だった奇跡のフランス行きを、
旅立ちから帰国まで、完全密着リポートでお届けする。
フランス旅行記はあまり自分的には
興味が湧かず響かなかった。
の、つもりが読んでみたら面白かったけど
この書の一番の目玉なので引用は
控えさせていただきまして2つだけ。
つげさんフランスで食べたチーズを
「石鹸食べてるみたいで好きじゃない」と。
それから
下着も持たず現地スタッフが調達するという
凄すぎるエピソード類満載だった。
それよりも自分としては
作品と現実のギャップというか
どこまで創作なのか、ってのが気になった。
自伝的要素の強い”私小説”ならず
”私マンガ”と思って読んでる人多いと思うし
自分も全部とは思ってないけど、
多くの部分がそうだと思っていたので。
仏誌「ZOOM JAPON」インタビュー
「目立ちたくないんです」
【聞き手】ジャンニ・シモーネ【訳】浅川満寛
から抜粋
■ジャンニ
あなたのストーリーのアイディアはどこから来るんでしょうか?
たとえば旅行はインスピレーションの源でしたか?
■つげ
それはないですね。
ほとんど想像です。
旅ものの場合でも、実際に旅に行く前にスジは自分の頭の中でほとんど完成されているんです。
マンガの中で実際の場所を使うことはもちろんありますけど、お話自体は現実や僕自身の体験とは全然関係ないんです。
■浅川
勘違いして実際の経験を描いていると思っちゃう読者もいるみたいですよね。
つげさんが「無能の人」を描いたときに多摩川で石を売っていると思ったり(笑)。
■つげ
水木さんもそう思ったって(笑)。
当時はあまり会ってなかったから、たまたま会ったときに水木さんが
「多摩川の石を売ってるんだって?」って…(笑)。
つげ義春、帰国後に語る
【聞き手・構成】浅川満寛 から引用
■浅川
「義男の青春」「ある無名作家」で書かれてた錦糸町の下宿屋のトイレを改造した一畳の部屋、あそこに住んでたのは、つげさんではなくて別の人だったそうですね。
■つげ
そう。
僕はその隣の三畳間だったんですよ。下宿人も多いしトイレも年中故障しているわけ。
そのうちの一つを、下宿のオヤジさんが「ここ直すの面倒くさいから部屋にしちまえ」って改造した。
1畳半くらいですね。
■浅川
その部屋に家賃払わない人が押し込められていたんですか?
■つげ
いや、家賃払ってましたよ。
■浅川
そこも創作だったんですね!
「1畳の部屋に8年間閉じ込められた」って…錦糸町に住んでいた期間からすると計算が合わないからおかしいなと思ってたんですよ。
■つげ
まあ創作だから、いい加減。(笑)
■浅川
ちなみに一畳の部屋問題、Wiki -pediaでは事実ってことになっているようです。
(2022年現在は削除)誰が書いたのか知りませんが。
■つげ
錦糸町はでたらめな下宿屋だったからね。
住んでるのはほとんどが若い男だったんだけど、オヤジさんってのが筋骨隆々の(見た目が)怖いタイプなんですよ。
性格はそうじゃないんですけど。
オヤジさんはそういう人だったけど、奥さんが優しくて、下宿人もみんな頼りにしてましたね。
なにより、とびきりの美人。
■浅川
つげさんの作品には他にも、私小説的ではあるけれども創作を加えている部分が結構ありますよね。
■つげ
作品の中では、それなりの演出をしますから創作も混じってしまう。
■浅川
もっともらしく作り込むんですよねえ。プロの技。
■つげ
そうか、(読者は)本気にしたりして。
前にも書きましたが、読者って勝手な想像を
膨らませがちで作者と作品を混同しがちで
ございまして。
それは作者がそう仕掛けておられ、
高度なスキルで創作と気づかせないものが
あるからなのだなあと。
これらのご本人のコメントとは別に
当時の若い感性はどのように
この巨人の作品をご覧になったのだろうかと。
偶然借りていた別の書から。
「ガロ」のバックナンバーを読んだ時のご感想からの
梱包センターでバイト先で配布前の同書を購入したご感想も。
つげ義春事件 から抜粋
びっくりした。びっっっっっっくりした。
ものすごくおもしろい。
この出会いは中2の時のあの『河童の三平』をさらに上回るかもしれない。
いま思うと、はじめての出会いが『李さん一家』だったことが、私にはとても幸いしたと思う。
『李さん一家』にポカンとさせられたすぐ後だったから難解な『沼』も『山椒魚』も、『紅い花』もすんなり入ってきた。
この「事件」のちょうど一年後、バイト先のベルトコンベアで、私は『ガロ臨時増刊号つげ義春特集』と運命的な出会いをする。
一も二もなく、その日の昼休みに、私はそれを購入した。
まだ全国の書店に出回る前だ。
しかもバイトだから2割引き。
むさぼるように帰りの電車でこれを読んだのだが、すでに知っている名作群と違って巻頭の二色書き下ろし『ねじ式』に、ものすごく違和感があった。
まず主人公の顔が”ヘン”だ。悪相である。
あれだけ安定した画力を持っていた、つげ義春の絵が、なんだか妙にヘタなのだ。
しかたなく、私は『ねじ式』を何度も何度も読み返した。
読み返すうち、この違和感は、少しずつ薄らいで、その奇妙さおもしろさをどんどん積極的に味わえるようになっていった。
何度も読んでいくうちに、つげ義春の画力が普通のうまいマンガ家の絵と大いに違うことに気づいたのだ。
実はこの時点で、つげ義春は当時のイラストレーションの最先端に立ってしまっていたと私は思う。
しかし、1968年の6月といえば、横尾忠則がブッチギリだった頃のはずだ。
つげ義春の決断は『ねじ式』の絵を『ねじ式』にしなければならないと思ったことだ。
『李さん一家』の絵のままでは『ねじ式』は『ねじ式』じゃない。
つげ義春はマンガに、マンガらしくない作劇術やストーリーを持ち込んだだけでなく、新しい絵を、イラストレーションを、現代美術までを持ち込んでしまった。
というより、知らぬまにジャンルの垣根を乗り越えていたのだった。
元祖へたうま から抜粋
『ねじ式』から、突然ガラリと変わってしまったんです。
1968年のことです。
当時『ねじ式』はマンガ好きの間で話題沸騰でした。
前代未聞のマンガで、難解で、それなのになんだかぐいぐい魅きつける魅力がある。
それは、つげさんが『ねじ式』用に新しい絵を発明したからでした。
1972年『夢の散歩』の絵も、すばらしく新しかった。
白昼夢のようなこのマンガのストーリーに、このタッチ以外は考えられないという絵柄だったと思います。
特に1978年〜1979年にかけての、「稚拙なタッチの絵」の、圧倒的な効果というのは、おそるべきものだったと思います。
この、ナイーブアートのような絵をマンガに持ち込む、という革命的手法は、つげ義春が元祖だった。
ということに、私は『ねじ式』を話題にしたとき、いまさらのように気がついたんでした。
実は「へたうま」イラストレーションの元祖は、つげ義春さんだったのではないか?!
つげさん自身は自分はマンガ家であって、イラストレーターでも画家でもないと言われるでしょうが、いつも時代が無意識的に求めている「絵」を発明するという一点において、最先端のイラストレーターであり、最先端の現代画家だったと私は言いたい。
つげさんご自身は、イラストとか美術業界はおろか
世間に興味がなさそうなので、こういう評価は
特になんとも思わないのだろうけど、
50年以上前の当時、すごいことだったというのは
なんとなくわかります。
そしていま、世界がそれを認めつつあるというのは
なんか自分は嬉しい気もするけれど
ご自身は大して嬉しくもないのだろうな。
そこがまた凄いところと思ったり。
余談だけど個人的には以下の2作品が
昔から好きでした。
「長八の宿」「ほんやら洞のべんさん」
共に1968年発表。
シュールなもの、リアルすぎるものは
嫌いではないけど、好みではない
というのは全くの蛇足。
最後に養老・池田・吉岡先生たちも
マンガは読んでおられたようで
世代的に「ガロ」のリアルタイム(少し上)で
感性もリンクされたのかなと。
(養老先生のつげさんへの言及は
なかったのだけど)
京都でマンガ三昧
から抜粋
■池田
そういえば調布にいる、女房の妹が、つげ義春の子どもの担任だったらしく、家庭訪問をしたらつげ義春がいたって。
それで、多摩川の話がいっぱい出てきたんだ。
『無能の人』シリーズの中にも、多摩川の石を集めてくるおっさんの話が出てきて、好きだったね。
つげ作品で印象に残っているのは、『海辺の情景』のラストシーン。
雨の中、男が女のために病をおして海を泳いでいるわけ。
そんで女はさ、傘さして一言、「あなたすてきよ」って。
■吉岡
男ってなんなんだろうな(笑)。
家庭訪問したらいたって、
自営業なのだから当たり前なんだけど
つげさんならば話は別で
すげーってなってしまうのがこれまた凄い。
よく考えると気の毒な点でもありますなあ。
余談だけど自分は「ガロ」は後追いでして
「comic ばく」はリアルタイムで読んでいたのは
誰にも通じない自慢だったりするのでした。