虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか



  • 出版社/メーカー: 早川書房

  • 発売日: 2001/03/01

  • メディア: 単行本





序文 から抜粋



私の初めての著書『利己的な遺伝子』を出版してくれた外国のある編集者がいった。


あの本を読んだあと、冷酷で血も涙もない論理に震撼して三日眠れなかった、と。


別の複数の人間からは、毎朝気分良く目覚めることができますか、という手の言葉をもらった。


遠い国で教師をしているという人物からも手紙が来た。


この本を読んだある女生徒は、ともに人生とは目的もなく空疎なものだと知らされて泣き出してしまった、と。


他の生徒まで虚無的な悲観論に染まってしまっては大変だと思ったこの教師は、泣き出した女生徒に、友達にはこの本のことを言わない方がいいと忠告したそうだ。


このように、救いがない、無味乾燥だ、といった非難は、しばしば科学に対して投げつけられる言葉である。


科学者の方もわざとそのような表現を好む。


私の大学のピーター・アトキンスは著書『エントロピーと秩序』(1984)において次のような調子で述べている。




私たちはカオスから生まれた子供である。


そして何かが変化するとき、その奥底では腐敗が起きている。


根底には、ただ崩壊があるのみで、カオスが食い止めようのない波となって押し寄せてきている。


カオスになることには、何も目的などはなく、あるのは、カオス状態に向かう方向だけである。


宇宙の内部を奥深く冷静に見つめると、このような、なんとももの寂しい真理が見えてくるが、これこそ私たちが受け入れなければならない現実なのである。




このような発言はまさにサッカリンの持つ偽の甘味を一掃するものであり、この世界にまつわる感傷的な幻想を剥ぐため、あえて選ばれた声高な言葉なのである。


しかしこの言葉は、個々の人間が持つ希望をないがしろにするものではまったくない


確かにこの宇宙には究極的な意思や目的などなにもないだろう。


しかし、一方、個人の人生における希望を宇宙の究極的な運命に託している人間など、私たちのうちに一人として存在しないこともまた事実なのである。


それが普通の感じ方というものだ。


われわれの人生を左右するのは、もっと身近で、より具体的な思いや認識である。


本来、生きる意味に満ちた豊かな生(せい)を科学が意味のないものにしてしまう、という非難ほど徹底的に的外れなものもあるまい。


そういう考え方は私の感覚と180度対極に位置するものだし、多くの現役の科学者も私と同じ思いだろう。




しかし、私に対するそのような誤解のあまりの深さに、私自身絶望しかけたこともあったほどである。


だが本書では気を取り直し、あえて積極的な反論を試みることにした。


ここで私がしたいのは、科学における好奇心(センス・オブ・ワンダー)を喚起することである。


というのも、私に対する非難や批判はすべて、好奇心を見失った人々に由来しており、それを考えるとなのか心が痛むからである。


私の試みは、すでに故カール・セーガンが巧みに行ったことでもあり、それゆえに彼の不在が今はいっそう惜しまれよう。


ともあれ、科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が感得しうる至福の経験のひとつであるといってよい。


それは美的な情熱の一形態であり、音楽や詩がわれわれにもたらすことのできる美と比肩(ひけん)しうるものである。


それはまた、人生を意義あるものにする。


人生が有限であることを自覚するとき、その力はなおさら効果を発揮する



ここから数年して「神は妄想である」のような書を


出されれば冒頭のような女生徒がいても


おかしくはないだろう。


ドーキンス先生も絶望してたことがあるとか。


にもかかわらず、心が痛み


自分の意図したところではないのだ


とおっしゃるドーキンス先生。


うーん、真意がわかりかねる。


自分のキャパの限界なのか。


第12章 脳のなかの風船


から抜粋



妻と私はどちらも、ある旋律に心奪われて眠れないという事態に困ることがたびたびある。


その旋律は頭の中で何度も何度も繰り返し、情け容赦なく一晩中流れる。


ある旋律は特にあくどい罪人で、たとえば、トム・レーラーの「マゾヒズム・タンゴ」であったりする。


これは、(素晴らしい韻を踏んだ言葉とは違って)なんら重大な利点を持たないメロディーであるが、一度とりつかれたらまず振り払うことができない。


よくあることだが、昼のあいだに危険な旋律の一つを脳に取り込んだなら(レノン&マッカートニーもまた別の重大な罪人である)、どんなことがあっても寝る時間になって口ずさんだり口笛で吹いたりしてはならない。


他人に感染させる恐れがあるからだ。


一つの脳の中の旋律が他の脳に感染するという発見は、まぎれもないミームの話である。



ビートルズとほぼ同世代でイギリス人。


曰く言い難いが、ドーキンス先生って洒落ている。


それは池田清彦先生にしたら、騙されてるんだよ


ってことなのか。


自分もどちらとも確信を持てないのだよねえ。


なんといっても『利己的な遺伝子』を未読なので


なにもいう資格もないのだけどもねえ。


 


なぜ読まないかというのはあの厚さにある


というのも無きにしも非ずですが


有名な書籍って捻くれているから抵抗あって。


いずれ読んでみたいと思っているんだけど。


 


それにしても、本書、長くて難しいのだよ。


こういう時は優れた訳者による解説が助かります。


訳者あとがき:ドーキンスVSグールド


2001年3月



本書は、リチャード・ドーキンスの最新作Unweaving the Rainbow(1998)を訳出したものである。


タイトルは、詩人キーツの言葉に由来する。


キーツはニュートンを嫌っていた。


なぜなら、ニュートンは、虹を物理学的に解体し、光のスペクトルとして説明してしまったことによって、虹の詩的側面を損なってしまったからである、と。


そんなことはない、むしろそれは逆である。


虹を解体(アンウィーヴ)したことによって得られた新しい世界観によってこそ、この地球、この宇宙に対する”センス・オブ・ワンダー”が喚起されるのであり、それが本当の「詩性」の源となるべきものなのだ。


ドーキンスはそう考えて、正義感あふれる筆をふるった。


それが本書である。




第1章、2章でまずドーキンスは、科学によって喚起されるべき良き詩と、科学を騙った悪い詩に世界をばっさり二分したあと、返す刀で、イギリスの知識人に見られるような、科学を実利的なものとして低く見る態度を切り捨てる。


そうした上で、彼は、虹を解体して得られた新しい世界観のシンボルとして「バーコード」という言葉を持ってくる。


遠い星からやってくるかそけき光のスペクトル中に含まれるフラウンホーファー線の「バーコード」が、私たちが決してたずねることのできない世界の成り立ちを語ってくれること(第3章)音の世界も周波数のバーコードとして解体しうること、および脳がそれを見事に再構成してバイオリンの音に変えること(第4章)を論じる。


それから、彼は、遺伝子のバーコードともいうべきDNA指紋鑑定法の有効性を懇切丁寧に解説してくれる。


さらに、DNA証拠を巡って、法廷ではこの証拠の意義を理解できるような人がかえって、陪審員として忌避されてしまう現状をなげく(DNA証拠を退けるための弁護士の作戦である)(第5章)。


続く、第6、7章は、訳者にとっても特に興味深い章だった。


私たちの脳にはある種の特殊な傾向がある。


それは、まれにしか起こらないような「偶然の一致」になにかしら深い意味を見出しがちである、という傾向だ。


多くのオカルトやトンデモ科学は巧みにこれを利用して人をだましているのだ。


ドーキンスは「ペトワック」という彼ならではの新術後を作ってこの詐術を排す。




霊能者がテレビ番組で、放送を通じて全英の腕時計に念力をかけたところ、全国から「止まった!」との電話が殺到した事件の謎にもいどむ。


さらにドーキンスは、人間が持つこのような認識上の傾向を、急速に社会が情報化した中で取り残された脳のなせるわざとして進化論的に説明する。


そのロジックの切れ味はさすがドーキンスというべきだろう。




このあとの章(第8、9章)はドーキンス理論の支持者にとっても、批判者にとっても見逃せない重要な論点を含む。


ドーキンスのライバル(論理上でも商売上でも)、スティーヴン・グールドは、進化の単位は、あくまで個体であって個々の遺伝子ではない、として利己的遺伝子説を糾弾した。


なぜなら、環境からの淘汰圧は、表現型たる個体にこそ作用するのだから、と。


爾来、ドーキンスVSグールドの仁義なき戦いが始まる。


特にドーキンスの辛辣さには驚かされる。


本書第8章でも延々13ページにわたって、グールドのベストセラー『ワンダフル・ライフーーバージェス頁岩と生物進化の物語』批判が展開される。


読者としては、両書を読み比べて論争を楽しみながら(いずれも早川書房刊である!)どちらに分があるのか評定してみるのも良いだろう。




思えば、進化論ほど人気のある科学論争も他に類を見ない。


それは結局、ヒトが自分の成り立ちを自分で言葉にしたいからなのだろう。


ダーウィニズムがなお十分に説明しきれていない最大の問題点は以下のように要約できるだろう。


すなわち、複雑なシステムであればあるほど、そのシステムを構築するサブシステムが多くなる。


しかし、各サブシステムは、全システムが完成するまでは、機能を持ち得ない。


機能を持ち得ない以上、サブシステムの組み立て過程では、自然淘汰が働く余地がない。


なのに、生命をつかさどる複雑な系はいずれも、あたかもサブシステムを一定方向に糾合するかのように斉一的にシステムを組み立てている。


なぜこのようなことが可能だったのか。


つまり、盲目の時計職人は、画竜点睛の「点」となる部品を入れるまで、どのように時計(として機能する以前の時計)の組み立て工程を長期間にわたって一定方向に維持することができたのだろうか?


この問題に対するドーキンスの答えは、最終章にあらわれる「自己増殖的螺旋上昇(スパイラル)」という鍵概念(キーワード)に、萌芽的な形で込められているように見える。


しかしなお、その推進力の由来は未解明の課題として残される。



刺客ともいうべき、グールドさんですか。


聞いたことはもちろんあるのだけど、こちらも


読まないと埒があかないようですなあ。


 


福岡先生の先日のテレビ拝見


かなり面白かった。


動的平衡」も読んでみたい。


 


科学には無縁だった2−3年前からすると


最近の読書歴には自分が一番驚愕。


 


とはいえ、全くの余談だけど


こういうのも実は


萌芽は前からあったりするんだよねえ。


アインシュタインは好きだったし


これも曰く言い難しで、あえていうなら


それはなんとなくマインドだったりして


それをいうなら、昨今読み散らかしている


養老先生も昔から読んでいたしで。


 


角度とか視点が異なってて


今のこの時期だから見えてくる何かというか。


 


自分は音楽が昔から好きで


ロックというジャンルの反体制の


マインドって実はここらと


繋がっていたりするのかも


しれないなあ、などと


全くどうでもいいことを考える


休日前の夜でした。