ダーウィンを超えて (中公文庫)



  • 出版社/メーカー: 中央公論社

  • 発売日: 1995/10/01

  • メディア: 文庫





対談自体は1978年。


なんとなくAmazonを見てたら


出てきたこの書籍。


早速入手して読んでみた。


当時、今西先生76歳、吉本先生54歳。


第一章 ダーウィン


生活条件と遺伝


から抜粋



■吉本


それと関連することだと思うんですけれども、『種の起源』を見ますと、生活条件が変異性に及ぼす影響には限度があって、それよりも種自体というのか、遺伝的要素の方が重大なんだと考えているように受け取れるんですけれども、それはそうでしょうか。




■今西


それは結局ダーウィンもはっきりしたことはよういわなんだ。


ダーウィン以前に、フランスで、19世紀のはじめにラマルクという人が進化論を発表しています。


そのラマルクの進化論というのは、用不用説というのと獲得性質の遺伝説という二つが柱になっておりまして、ラマルキズムから言いましたら、この二つは切り離せないものなんです。


生活条件といいますか環境の影響といいますか、それにたいする生物の側の適応が遺伝するならば、とういこれが獲得形質の遺伝になるわけでしょう。


ダーウィンも晩年には、ラマルキズムに非常に近い考えになっていくんです。


 


しかし、そのころドイツにワイズマンという人が現れて、この人が獲得形質の遺伝を否定したんです。


実験と理論の両面から否定しましたので、一般にはそれでラマルキズムというものは間違いである、というふうに認められて、今日まで来ております。


しかしセオリーはどうであろうと、進化の事実として、いちばん間違いのない証拠は化石である。


古生物学者が、ウマならウマの化石をずっと年代順に並べてみると、ひとつづきにつながっている。


少しづつ変わりつつつながっているんです。


これは獲得形質の遺伝ということがなかったらつながらへんですよ。


化石の示す事実からいえば、進化論としてのラマルキズムはまだ生きている、といえるのではなかろうか。


ところが化石を並べてといいますけれど、化石というものはそんな一年とか十年とかのオーダーで出てくるものやない。


万年単位くらいでぽつぽつ出てきたやつを並べると、続いているというんでしょう。


 


一方でワイズマンなんかの実験というのは、せいぜい五年か十年の実験でしょう。


だから、タイムスケールがまったく食い違っているのです。


実証主義も結構やけど、性急な実験によって悠久な進化という現象が、説明できたように考えたのは、ワイズマンの思い上がりでなかったろうか。


それにも関わらず、教科書にはラマルキズムは否定されたと書いてある。


 


そしておそらく突然変異と自然淘汰によって進化は進んできたという、いわゆる正統派進化論が時を得顔に記載されているにちがいないだろう。


しかし、これも一皮むいて考えてみると、非常に疑わしいものなんですね。



遺伝子が現代ほど明かされていない頃のため、


ダーウィンさんもなんとなくしか


つかんでいなかったのだろう、というのは


周知の事実。


化石がなくて立証に乏しいというのも


100分で名著でも説明していた。


それでも天才的な感覚はあったのだろうな


というのが養老先生の言説。


よく分からないところもあるけど、


いま発表しておかねば!


といった科学者としての矜持もあったのだろうなと


いうのはわたくしの勝手な推測。


 


独立発生=他元説


から抜粋



■吉本


『種の起源』を読んでみると、すべての生命が一ヶ所で発生して、そしてそれが全部空間的な分布と時間的な進化と、その両方で系統づけられると考えられています。


根本の考え方はそこから発していて、そこがいちばんの特徴のように思われますし、またいちばんの欠点のようにも思われるのです。


 


たとえば、地球上の一地域にだけ生命が発生する条件ができて、ほかの地域に類似の条件がなかったと考えることは科学的じゃないように思います。


確率統計論からいっても、どういう考え方を持ってきてもそうです。


たぶんそこが致命的なんじゃないか、またそこを疑わないかぎりは、ほかのことをいくら疑っても致し方ないんじゃないかと感ずるのですが。


 


■今西


いまおっしゃっているのはつまり事実の問題で、ダーウィンの進化論の問題ではないような気がする。


たとえば、32億年前の地球がどういう状態にあったかが、事実として明らかになれば、その中でどこがいちばん生物の発生に適当な場所であったかということも、おのずからわかってくるでしょう。


 


■吉本


つまり、この場合で言いますと、化石などからわかるのですか。


 


■今西


32億年前の化石はありませんけれども、たとえば現在の地球を例にとってみたら、高分子的な有機物が生物に変わるというような化学変化は、ある程度の高温度が要求されたのではないでしょうか。


そこで、地球上に極と赤道というものが32億年前でもあったとします。


すると、そのときの地球の赤道の海で、あるいはその波打ちぎわあたりで最初の生物が発生した、と考えられないこともない。


 


■吉本


それはいえると思いますね。


 


■今西


また、赤道といっても地球をぐるっと取り巻いているでしょう。


その赤道のすべてで、すべて同一の生物が発生したと考えるのも一つの考え方かも知れぬけれども、東の方と西の方では別々の種類が発生したと考えてたっていいんです。


一種類やったか数種類やったかというようなことは、いまのところまだお預けにしとかならんやろね。


 


■吉本


お預けにせんならぬということだったらわかるような気がするんです。


ダーウィンのこの考え方はとてつもない考え方のようにぼくには思えますね。


 


■今西


おっしゃることが、ちょっとよくわからんのですけれども。


ダーウィンの考え方は、当時有力だった伝播説に立っているというだけで、そうおかしいところはありませんよ。



一箇所から生命が発生って無理あるだろうという


吉本さんに対して、そこはそう目くじらたてんでも、他にポイントあるんやから、っていうのか今西先生。


でも、生物学的素人の自分も吉本先生のこだわりはなんとなくわかる気がする。



■吉本


第十三章の「生物の相互類縁。形態学。発生学。痕跡器官。」のところで、由来は胚の構造の共通性をいうので、成長した生体がどれだけ違っているかとは関係ないんだといっています。


それはそのとおりになりますね。


 


■今西


さっきも同じような問題が出されましたね。


由来というのは進化の道すじといっても良いし、系統といっても良いけれど、たとえば、人類とゴリラとは、千数百万年前に共通の祖先から分かれ、別々の道をたどって、一方は人類になり、他方はゴリラになった。


これが由来です。


 


いまでも系統と類縁関係をゴッチャにしてーー類縁関係からいえばゴリラやチンパンジーが人類にいちばん近いーーそのうちに現存のゴリラが人類に進化するような錯覚を起こしている人が、ないとも限らない。



40年前、小学校の時の担任が、


動物園の猿は進化しても人間にならないんだよ、


と言ってたのを思い出す。


ダーウィンや進化論を主とした対話では、


当然だけど今西先生の独断場で


吉本先生は完全に聞き役なのだけど、しばらく後


マルクスとエンゲルスに話が及ぶと


立場逆転のようで面白い。


というかこの対談全般的に面白くて興味深い。


 


第二章 今西進化論


実験室の還元主義について


から抜粋



■今西


たとえば起源なんていうことは、実験室ではわからへんですよ。


進化を実験室で明らかにできるかということですね。


実験室ではプロセスがわかるだけで、これはハウツーですよ。


我々が大学へはいった頃から、すでにそういう徴候が顕著でして、自然科学というものは、ホワイ(Why)を研究する学問じゃなくて、ハウ(How)を研究する学問だというてる人がありました。


 


それでプロセスがわかり、ハウがわかったら、ホワイは分からなくても、今後は人工的にモデルをつくるとか、あるいは工業生産に直結さすことができるとか、いうことになりますね。


よいか悪いかは別として、いまの自然科学は、そういうことに手をかしていますね。


 


そして、そういうことがやっぱりさっきいった、いまの自然科学の還元主義と結びついているのや。


恐ろしいことには、分子生物学でいろいろなことがわかってくると、早速遺伝子の操作とかそういうことを考えたがる。


これは一種の遺伝子工学ですな。


 


それができたからといって、遺伝子はいつどうしてできたかとか、生物はどうして定向進化するのかというようなことは、なにもわかってこないかも知れない。


いまの自然科学はもっと根本から批判されてもええのないか。


 


■吉本


実験室条件というのは自然条件とはまた質が違うということですね。


 


■今西


私がアメリカでサルを材料にしている実験室を訪問したとき、手足をしばられて実験台に上げられおったサルが口をパクパクさせているのや。


なにかいいたくて、それで訴えてとるのやね。


それは、こんなに苦しめされているのは耐えられないから、どうか解放してくれというているように、私には受け取れた。


そしたら案内してくれている人にも、情況がわかったんでしょうか、


「君にみたいにフィールドの仕事ばかりしている人は、こういうところを見たくないでしょうね」


といってくれた。



科学の闇の部分を指摘される今西先生。


科学者とそれを利用する人間のモラルについては


利根川博士も指摘されていたと記憶しております。


柳澤桂子先生もモラルの低下を危惧され僭越ながら


このブログで何度も書かせていただき大変恐縮です。


 


第三章 マルクスとエンゲルス


動物と人間


から抜粋



■今西


エンゲルスの著書に、『家族・私有財産及び国家の起源』というのがあって、広く読まれていますね。


そこで、この本の中に述べられていることと、私の理論とはどこが一致しておってどこが違うのか。


できたら、吉本さんからかなり突っ込んだところを聞いていただくと、面白いと思う思うんですが。


 


■吉本


エンゲルスの基本的な考え方はどこにあるかといいますと、人間も生物だが、他の生物とどこが違うかといえば、人間は自己意識を持った生物だということだと思います。


だから、人間の社会というものの現在、過去、未来を考える場合、生物としての人間は、いわば自然の流れの中で、それなりに進化したりしなかったり、種として停滞したりするだろうということが一つです。


 


さらに自己意識をもった生物であるということから、人間だけが人間社会というのを作っている。


つまり、生物としての人間というものの流れの歴史の上に、人間の自己意識の所産が作り上げた人間社会というものを構成している。


そこのところが人間が他の生物と違うところだというのが基本点だと思います。


 


そしてもう一つは、人間社会というものをどういうところでつかまえれば、あたうかぎり科学的につかまえられるかと考えると、経済社会構成というものを基本に見れば、いちばんいいだろうというのがーーーこれはマルクスの考え方でもありますけれどもーーーエンゲルスの考え方だと思います。




さらにもう一つエンゲルスの考え方の特徴は、人間は自己意識の自己展開としての精神の世界というものを、過去から未来にわたって生み出しつつある。


そしてそれはいってみれば、書物とか印刷物とかに現れない限りは目に見えない、一つの文化を構成しており、それは人間がつくっている人間社会の構成の上層にあるものだ。


 


エンゲルスは「上部構造」という言葉を使っていますけれども、上層にある構造だといっています。


だから、人間社会の現状および過去、未来をはかる場合には、その三つを考えなくちゃいけない。


つまり生物としての人間の歴史というものと、人間だけが固有につくっている人間社会の構成、さらにその上に、人間が自己意識を持っているために生み出された精神の文化というもの、その三つを考察しなければならないというのが、エンゲルスの考え方のいちばん基本にある点だ、というふうにぼくは理解します。


 


それに対して今西さんのお考えというのは、たとえばいま私が申し上げたことのどこに該当するわけでしょうか。




■今西


いちばん問題は、マルクスもエンゲルスもダーウィンよりちょっと新しい人で、いずれにしても19世紀の考え方に立脚している、ということですね。


その後百年以上たって、そのあいだにずいぶん科学が進歩したんです。


 


それを一つも踏まえずに、いまだに、マルクス、エンゲルスというて、そのままのものを受け継がれているのは、ちょうどダーウィンが百年前に、ダーウィン的な自然淘汰論を出して、それがそのまま受け継がれているのと同じである。


そういう点では全く現在にマッチしない理論が生きているというので、そこが非常におかしいんですよ。


 


エンゲルスの考えの三つの点をおっしゃいましたけれども、その中でいちばんの問題は、自己意識を持っているのは人間だけである、ということです。


これは独断なんです。


動物は自己意識を持っていないということを前提にしているわけでしょう、人間だけが持っているといえば。




■吉本


それはぼくの言い方が悪いだけで、エンゲルスの理解によれば、自己意識を持っているという意味合いは、違う対応概念、つまり精神文化の問題で言いますと、概念の表現である文節化された言葉というものを持っている。


しかも言葉を持っているというだけじゃなくて、言葉の展開を軸にした文化をつくっているということです。


そういうところが違うと思います。




■今西


進化というのは一つの歴史であって、言葉を使うとか道具をつかうとかいうことが、突然に起こるんでなくて、進化の結果として起こってくるわけです。


だからそれらがどの時点で発生したかということを知るためには、サルの時代から現代人までのあいだを一度つないでみることが必要なんですね。


ところが、そういうことが、十九世紀では行われておらぬのです。


当時は人間と言ったら、すぐ十九世紀の人間をそのままもってきて、それをサルなり他の動物と比較している。


その間の移りゆきはとばしている。


 


■吉本


それもたとえばエンゲルスはエンゲルスなりに、「サルの人間化における労働の役割」という論文で一応やっております。


 


■今西


やってますけれど、それは頭の中で考えたことであって、裏づける事実というものはもっておらなかった。


そこがわれわれから言いますと、科学的でないということです。


これはエンゲルスやマルクスの責任でなくて、ヨーロッパの思想というものは、一応人間とほかの動物とを切るんです。


動物といいましても、チョウやトンボを例にとれば、ある程度は人間と切れていますね。


しかし、動物はチョウやトンボばかりではない。


 


たとえば、われわれに血のつながりからいうていちばん近いのは類人猿です。


ゴリラとかチンパンジーとかですね。


これらの動物の生態あるいは社会生活というようなものは、ここ二十年くらいの間にわかってきたんです。


その知識に照らしてみると、当時の人のいったことには、当たっているところもある代わりに、また全然当たっておらぬこともある。



近代的知性について


から抜粋



■今西


ここで近代的人間の特徴を考えてみます。


人間とは意識があるゆえに動物でなくて人間なのだ、といいだしたのも近代的人間ですが、その意識尊重をさらに拡大して、理性万能というところへ持ってくるんですね、カントをはじめ、西洋哲学はみなこの傾向がある。




その点からいえば、資本主義社会であろうと、社会主義社会であろうと、みな同じ過ちを冒し、同じ行き過ぎにおちいっているのやないかと思うんです。


そしてこれを救うものは、政府でも文部省でもない


そうではなくて、一人一人の人間が、こういう社会では息苦しいとか、味気ないとかいう気持ちになってきますと、自然に変わっていくのじゃないですか。


さきごろ、中根千枝さんの本を読んだら、日本の社会は軟体動物やと書いてありました。


つまり、上からの指図とか、理性的な計画とかいうものによるものでなくて、自然に変わるということでしょう。


あるいは変わるべくして変わるということでしょう。


そういう軟体動物的な日本の良さが、そのうち次第に世界へ広がるのやないか




■吉本


今西さんの自然観というのは、19世紀人でいうと、ニーチェの考え方とともて似てるんじゃないかという気がするんです。


ニーチェは、生物的自然状態というのを含むのが最上の状態なんだと。


また思想というものも、屋外つまり自然の中を歩いていて、その歩いているリズムを実現してないような思想はだめなんだという考え方です。


だから、ヘーゲルというのはだめなんだと、ニーチェは口をきわめてヘーゲルを否定していますね。


ヘーゲルは逆に、自然状態に放置しておいたら、人間というのは強い奴はいくらでも強くなって、かならず不公正、不平等、あらゆることが起こる。


だから、それを理性と悟性で持ってカバーして、そして人間固有の社会を作っていくのが理想的なんだという考え方です。


 


また、エンゲルスというのはそうじゃなくて、生物状態がいいとはいわないんだけれども、原始状態がいいと入っておりますね。


「原始共産制」という言葉を使っているけど、国家以前の人類の状態、つまり新石器時代以前の人間の状態というものがいちばん理想的なんだ。


つまり生産手段を共有しておいて、それを分ける。


その分けるのも平等に分ける、こういうのが理想的なんだと考えています。


 


そして人間の歴史は一路堕落の道を走っていく。


とくにエンゲルス時代、19世紀の資本主義の無意識的な興隆は、もっとも堕落した状態だというのがエンゲルスの考え方です。


そこで、理想の社会としてエンゲルスが描いていたのは、原始共産制時代、つまり国家以前の国家、共同体以前の共同体です。




ニーチェはむしろ動物状態が理想だというふうに考えています。


ヘーゲルは、だんだん人間の観念が高度になってきて、国家を編み出し、法律を編み出し、宗教をつくり、そしてもっと高度な観念、絶対観念みたいなものを編み出していく中で、人間社会の理想を遂げていくという考え方を徹頭徹尾持っています。


 


しかしこれらの基本にあるものは、自然あるいは自然状態というもののどこに理想の原型を置くかで違ってくるような気がするんです。


ぼくは、いまの資本主義社会も社会主義社会も理想だとはちっとも思えないということでは全く同じなんです。


 


ただぼくは、理想の可能性も論理の可能性も、人間の知恵の可能性というのも、ちっとも絶対的ではないが、より良くなるだろう、あるいは、していくということはなんとなくあきらめがたいもののように思います。




■今西


ルソーも「自然に還れ」といいましたね。


キリスト教はよくわからんけれども、原罪とか最後の審判とかいうものが出てきますね。



吉本先生の言葉って平素でわかりやすいが


とてつもなく深い。何度も読みたくなるのです。


今西先生ご指摘の日本社会論なのか


中根千枝さんの書籍、読んでみたい。


吉本先生のニーチェの解釈


生物的自然状態というのを含むのが最上の状態」って


そんなことを言う人と思えなくて新鮮。


超人思想、永劫回帰ばかり目立つので。


余談だけれど、この書籍、最後に纏まっている


編集部作の注釈がわかりやすくて良いです。


『種の起源』について概要説明があっての


今西論の説明がわかりやすい、というのと


なぜこの二人の対談なのかも明確になった。



ダーウィンのこのセオリーにたいして、変異への着眼において個体主義に陥り、それに実証できない「自然選択」を結びつけたもので、それゆえダーウィンの進化論はドグマ(独断)に過ぎない


ーーーこれが今西氏のダーウィニズム批判の核をなすと言える。


今西進化論は、まず事実とセオリーは別にすべきだとしたうえで、種社会のレベルで進化をとらえるところに特徴がある。


ダーウィニズムはもとより、「進化」論をも超えて「社会」論へとすすむ性格をもつことは、本文でも十分うかがえる。



今西先生の理論って映像の方が


圧倒的にわかやすいのでご興味ある方は


こちらをどうぞ


って自分があるんだろう!って話ですな。