環境を知るとはどういうことか 流域思考のすすめ (PHPサイエンス・ワールド新書)



  • 出版社/メーカー: PHP研究所

  • 発売日: 2011/05/20

  • メディア: Kindle版





前々回から引き続き、同書から。


岸先生の哲学の要諦をば。


第3章 流域から考える


人間は宇宙人の感覚で地球に住んでいる


から抜粋



■岸


養老さんのように、幼少時代に川で遊んだ経験のある人と、そうした経験のない人とは、やはり感覚が違ってくるようですね。


私は自然や身の回りの環境に対する感じ方が自分とほかの人たちとは違うという違和感が、子どもの頃からずっとあった。


先ほども述べましたが、私は家の中より外の世界のほうにずっと親しみを感じてきました。


家は寝場所、自分は採集狩猟民だという実感があるので、自然と聞くと体に染みついていた近くの川や雑木林などを思い出すのがほとんどなのに、世間が自然について語るときは、遠いアフリカの草原やサンゴ礁の島の話ばかり出てくる。


そこが感性的に理解できなかったのです。


同じ都市の真ん中に住んでいても、自分はみんなと違う地図を持っていると感じながら、かなり孤独に暮らしてきたわけです。


しかし、年をとってくると、自分と同じように感じる人がいるということが流石にわかってきます。


今はそんな人たちともお付き合いするようになって、たとえば、切迫する地球環境危機の問題を考えるにしても、足もとの自然から考えていく環境活動をしっかり工夫できるようになった。




そもそも地球にどうしてこういう危機がやってきたのかというと、原因は産業文明ということになります。


産業文明がなぜ環境危機を引き起こしたか。


産業文明を執行する意思決定や企画には、地球の容量とか生態系のキャパシティに配慮する感性が基本的に欠けている。


産業革命以降、まだ300年も経っていませんが、この間、とてつもない勢いで拡大、拡大とやってきて、人口と資源と空間の問題が量的に逼迫してきました。


たとえば20世紀半ば、人口加速時には30年で倍増、一人当たりの豊さも増加しましたから、文明全体として地球に加えるインパクトは30年よりも短い期間で倍増するスピードだったと思われます。


21世紀初頭の現在でも、人口増加には強いブレーキはかかっているものの、人間社会が地球に加える物質的なインパクトはなお、4~50年くらいで倍増するくらいのペースなのではないか。


こんなプロセスが100年、200年続くはずがない。


そこに今、さらに温暖化の危機と生物多様性の危機が重なっている。


つまり、今の人間は、自分が暮らす地球という有限な場所の容量と、主観的な期待・企画や行動のバランスが取れなくなっているわけですね。




われわれが住んでいるのは、必然の網に縛られた地球の表面であって、意思決定や行動にあたっては、そこにどういう制約や可能性があるかということに配慮しないといけないということです。




たとえば、採集狩猟民には自分で歩ける範囲で採れるものを採ってくるしか方法がありません。


農業者なら、自分の力が及ぶ範囲の畑や田圃で仕事をするしかありません。


自分の中に自分の住むリアルな場所の地図がないというのは、産業文明の都市文化の中で生きる人に特有のものではないかと思います。


私たちは、足もとに暮らしの領域の定まらないE.T.(extracterrestrial)、つまり宇宙人みたいなもので、産業文明は、地べたとの関係でいうと実は宇宙人の感覚で運営されている。


これをどうするかというのが今の問題で、ことによると解決に100年や200年はかかるのかもしれません。


日々の暮らしということでいえば、朝起きて会社に行ってパソコンをたたき、昼になれば食べる物はコンビニで買い、必要な大ものはパソコンで注文して通販で手に入れるという暮らしで十分間に合うわけですからね。


しかし、地球上に住んでいる以上は、たとえば洪水はそんなこととは関係なしに、巨大都市のど真ん中でさえ、流域単位でやってきます。


さらに地震もあるし、生態系を破壊する危機もある。


都市に住む市民は、今あらためて「自分の住む場所は地球の上だ」と自覚するような地図をつくり、住む場所の感覚を取り戻す必要があるのだろうと思います。


流域という枠組み重視してゆけば、それはできるというのが私の考えですね。



今朝NHK朝のニュースで


硫黄島がわかるVRマップがニュースに。


島民の子孫が先導して開発されたと。


「流域思考」もデジタルを使えば、


良いのではないだろうか。


そういえば、同じく朝のニュースで


養老先生、俳優の渡辺謙さんと対談


メタバースのこと、やってたよなあ。


第6章 自然とは「解」である


生物学的な倫理を取り戻せ


から抜粋



■岸


人間は脳を基準にして生きていて、脳の中には主観的な世界の定型が後天的にできてしまいます。


成人して家族を支えるような年になれば、もはや世界の形成ではなく、その世界の中で「どう有能に生きていこうか」、誰でもそれが課題になる。


つまり、人間はたしかに世界の定型を形成し、修正しながら生きるわけですが、今はその定型の作り方に、大げさにいえば文明的な大変化が起きています。


環境にかかわる倫理などという領域も、実はそういう次元と深くかかわっているいるような気がするんですね。




そもそも人間は、最近流行の観念的な環境倫理のようなものを持っているのではないかと思います。


倫理を英語でいうと、ethics。ethosにつながる言葉ですね。


Ethosはethology(エソロジー:比較行動学)のethos、英語でいうとhabit’習性でしょう。


誰とどこで住まうか、それが定まれば、習慣が定まり、それがethos’ ethicsになる。


古代の哲学者はそんなふうにも考えていたはずですね。


住まうべき世界を抽象的な環境という枠で把握するのが一般化するから、環境の中の、ランドスケープや多様な生きものたちに内在的な価値をみとめるべしなどということになるのですが、その習慣そのものが倫理につながってしまう。


人間は誰とどこで住むかという問いに、地球を無視して答えはじめてからもう長くなってしまいました。


もう一度大地を暮らす習性の大切さを認識し直して、地球に住むのにふさわしい倫理を育てなければなりませんね。



あとがき 岸由二


から抜粋



地球環境危機は、その展開が、足もとのリアルな地球の限界によって、いよいよだめ出しされている状況と考えるほかないと、私は思うのである。


苦境からの脱出は、たぶん新しい文明を模索する脱出行となるだろう。


それは都市からの脱出ではない。宇宙への脱出ではさらにない。


むしろ都市の暮らしの只中において、採集狩猟民の「知り方」、時には農民の「知り方」を駆使して、足もとから、地球の制約と可能性を感性的・行動的に再発見し、もちろん都市そのものの力も放棄することなく、地球と共にあるエコロジカルな都市文明を模索する道なのだろうと私は考えている。


採集狩猟時代の人類は足もとの地表にすみ場所をさだめる地表人であった。


産業文明の都市市民は足もとにますます暗く、<家族と家>というまるでスペースシップのような人工空間暮らしと、さらには実現するはずもない宇宙逃亡さえをも妄想する宇宙人となりつつある。


その宇宙人たちが、採集狩猟の地表人のように足元から地球=環境を知る暮らしを再評価し、地表人の幸せの中で子どもたちを育てはじめ、やがて宇宙人+地表人=地球人となってゆく。


100年かかるのか、200年かかるるのかわからないが、<流域思考>を手立てとして、人類はそんな道を選んでゆくことができるのだろうと私は信じているのである。



昨今の仕事は、なんでもかんでも


マニュアル化、


経験の浅い人に向けて


読めばわかるように、


これ、情報化社会の常識なんですが


…そんなわけはないだろう。


個人の知見・体験が伴わないと


全く意味をなさないのだよ、


その上で自分の頭で考えなさいよ、


すぐ聞くんじゃないよ、


ソリューションを。


と聞こえるのは自分だけだろうか。


ちと曲解、独断的な解釈かも


しれんですけれど。


今後<流域思考>がそのままの言葉で


残るのか、変節するのかはわからないが


スピリットは継承されると良いと思った。


防災とか環境保全のことだけではなく


深い洞察を可能とする何かとしても。


コロナ・戦争のこの時代以降においても。


それにしても養老先生と対談される方達って


かなり興味深いしその対話を柔軟に


自分のものにして


ネクストステップされている


軽妙洒脱な養老先生って本当にすごいと


言わざるを得ない。


しかしそんな偉人のような養老先生でも


「家では馬鹿にされている」って


他の本に書かれているのもあって


家だとパパってそうなる傾向


多いよなあ、と妙に


納得してしまうのでした。