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魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言:リチャード・ドーキンス著、大田直子訳(2018年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言

魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/10/18
  • メディア: 単行本

ダーウィンとウォレスについては


いろいろ取り沙汰される事多いが


2001年時点では両遺族は友好な関係を


ドーキンスさんの橋渡しで結ばれたようで


ドーキンスさん、良い仕事しましたね。


 


第二部 無慈悲の誉(ほま)れ


「ダーウィンよりダーウィン主義的」


 ーーダーウィンとウォレスの論文(※)


から抜粋


ダーウィンとウォレスが別々に思いついたアイデアは、人類が思いついた最も偉大とは言わないまでも、とりわけ偉大なものだったと、私は言いました。

最後に、この考えを普遍的に展開したいと思います。

私は自分の最初の本の第1章を、このような文で始めました。


ある惑星で知的な生物が成熟したと言えるのは、その生物が自己の存在理由を初めて見出した時である。

もし宇宙の知的に優れた生物が地球を訪れたとしたら、彼らが私たち人間の文明度を測ろうとしてまず問うのは、私たちが「進化というものをすでに発見しているかどうか」ということであろう。

地球の生物は、三十億年もの間、自分たちがなぜ存在するのかを知ることもなく生き続けてきたが、ついにそのなかの一人が真実を理解し始めるに至った。

その人の名は、チャールズ・ダーウィンであった。

(『利己的な遺伝子』より、日高・岸・羽田・垂水訳)


「そのなかの二人」として、ウォレスの名前をダーウィンと対にしたほうが、ドラマチックではないが公正だったでしょう。

しかしいずれにしても、ここでは先に述べた、普遍的な見方をさらに展開させてください。


ダーウィンとウォレスの自然淘汰による進化の理論は、地球上の生命だけでなく生命一般の説明だ、と私は考えています。

宇宙のどこかで生命が発見されれば、細部がいかに異なっていても、私たち自身の生命形態と共通する重要な原理がひとつある、と私は予測します。

それはおそらく、ダーウィンとウォレスの自然淘汰のメカニズムにおおむね等しいメカニズムの指図のもとで、進化したものでしょう。


この点をどれだけ強く主張するべきか、まだあまりよくわかっていません。

私が完璧に自信を持っている弱いバージョンの主張は、自然淘汰以外には有力な説がこれまで提案されていない、というものです。

強い言い方をすれば、ほかに有力な説が提案されるわけがない、となります。

今日のところは、弱い言い方にしておこうと思います。

それでも意味するところは衝撃的です。


自然淘汰は、生命についてわかっていることすべてを説明するだけではありません。

力強く、エレガントに、無駄なく説明するのです。

いかにも度量のある理論、解決しようとしている問題の大きさにほんとうに見合う、度量のある理論です。


ダーウィンとウォレスは、この考えにうすうす気づいた最初の人物ではなかったかもしれません。

しかし問題が重要であり、二人が同時に別々に思いついた答えも同じくらい重要であることを、最初に理解した人物でした。

これは彼らの科学者としての度量の大きさです。

優先権の問題を解決した時の互いの寛容さは、彼らの人間としての度量の大きさです。


※=1858年、チャールズ・ダーウィンは、当時のマレー連合州から、ほとんど無名の博物学者で収集家のアルフレッド・ラッセル・ウォレスが書いた原稿を受け取って驚いた。

ウォレスの論文は自然淘汰による進化の理論、ダーウィンが初めて思いついたのは20年前にもなる理論を、非常に詳しく説明していた。

理由はいまも議論の的だが、ダーウィンは1844年に自分の説を完璧に仕上げていたにもかかわらず、それを発表していなかった。

ウォレスの手紙でダーウィンは一気に不安に突き落とされる。

彼は当初、自分は優先権をウォレスに譲るべきだと考えた。

しかし、友人でイギリス科学界の重鎮だった地質学者のチャールズ・ライエルと植物学者のジョセフ・フッカーが彼を説得して、一つの妥協案を提案した。

その結果、ウォレスの1858年の論文とダーウィンが先に書いていた二篇の論文が、ロンドンのリンネ教会で読み上げられ、それによってともに功績を認められることになった。

2001年、リンネ教会はまさしくその場所に、その歴史的出来事を記念する飾り額を掲げることにした。

私はその除幕式を行うように招待されたわけだが、これはその時に私がおこなったスピーチを少し短縮したものである。

ダーウィンとウォレス両方の家族とお会いし、初めて互いを互いに紹介できたのは喜ばしいことだった。


ダーウィンさん、発表が遅れた理由は


グラジュアリズムであったというのは


養老先生が指摘されていた。


上記エッセイはほっこり系だけど


他のはあいかわらず、やばいです。


ドーキンス先生節、炸裂。


執筆時期や内容から


トランプ政権・ブレグジットのエッセイが


タイムリーネタで売りのようだけど


自分としてはそれよりも


以下のエッセイが気になってしまった。


ここまでぶっちゃけた


言説を展開されて良いのか、と


いらぬお節介でございます。


 


第四部 マインドコントロール、災い、混乱


イエスを支持する無神論者


から抜粋


『目には目を、歯には歯を』

と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。

悪人に手向かうな。

もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。

もし、だれかがあなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。

求めるものには与え、借りようとするものを断るな。

『隣り人を愛し、敵を憎め』

と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

(マタイによる福音書5章38~44節)


人情の優しさをミルクと表現するのはたんなるたとえであって、考えが甘いように聞こえるかもしれないが、私の友人のなかには、その人をそんなに親切に、そんなに無私無欲に、そんなに一見非ダーウィン主義的にしているものを、瓶に詰めたいような気がする人が男女ともに数人いる。

進化論者は人間の親切について説明づけることができる。

どうして遺伝子レベルの利己主義から動物個体どうしの利他行動と協力が生じうるのかを説明しようとする、「利己的な遺伝子」理論十八番(おはこ)の血縁淘汰と互恵行動の確立されたモデルを一般化すればいい。

私が話しているような人間の超親切は行きすぎである。

それは神経の誤射であり、親切についてのダーウィン主義的見解からの逸脱でさえある。

しかしそれは逸脱であっても、促して広める必要のある種類の逸脱なのである。


なぜ人間の超親切がダーウィン主義からの逸脱であるかというと、自然集団では自然淘汰によって排除されるからだ。

私のレシピのこの三番目の材料について詳しく述べるスペースはないのだが、経済学者が自己利益を最大にするよう計算されたものとして人間の行動を説明するときに用いるような、合理的選択理論からの明かな逸脱でもある。


もっと単刀直入に言おう。

合理的選択の観点からすると、あるいはダーウィン主義の観点からすると、人間の超親切はまったくのばかである。

しかし激励されるべき種類のばかであるーーそれがこの記事の目的なのだ。

どうすれば激励できるのだろう?


ところで、同じように愚かな考えが伝染病のように広まっていく例を、私たちは知らないだろうか?

知っている、神にかけて!

宗教だ。

宗教的信念は合理的でない。

宗教的信念はばかだ。

ただのばかでなく、超ばかだ。

宗教は本来分別のある人々を、禁欲主義の修道院に送り込み、ニューヨークの超高層ビルに突っ込ませる。


宗教は人々に自分自身の背中をむち打たせ、自分自身や自分の娘に火をつけさせ、自分の祖母を魔女だと糾弾させる。

それほど極端でないケースでも、毎週毎週、麻痺するほど退屈な儀式の間ずっと立ったりひざまづいたりさせる。

もし人々がそうした自傷的な愚かさに感染しうるなら、親切に感染させることなど造作もないはずだ。


宗教的信念は確実に伝染病のように広まり、さらにはっきりと代々伝わっていって長期的な伝統をつくりあげ、そこだけ合理性を欠く文化的飛び地(エンクレーブ)を促す。

なぜ人間は宗教と呼ばれる奇妙な行動をとるのか、たとえ私たちには理解できなくとも、それは紛れもない事実である。

宗教の存在は、人間が不合理な信念を熱心に受け入れて、それを伝統のなかで垂直に、なおかつ伝道によって水平にも、広めることの証拠である。

この感染しやすさ、不合理なものの感染に対するこの明らかな弱さを、純粋に善用することはできるのか?


人間には崇拝するロールモデルから学び、それをまねる強い傾向があるのはまちがいない。

条件がそろえば、疫学的な影響は目覚ましものになりうる。


キリスト教自体、そのようなテクニックに相当するものによって広まった。

最初の仕掛け人は聖パウロで、のちに牧師や伝道師に引き継がれ、組織的に改宗者の数を増やそうと試みられ、それが指数関数的成長になることもあった。

ならば、超親切な人の数を指数関数的に増やすことはできるのか?


私は最近エジンバラで、その美しい都市の元主教リチャード・ハロウェイと公開討論を行った。

ハロウェイ主教は、ほとんどのキリスト教徒がいまだに自分たちの宗教に重ね合わせている超自然主義から、明かに脱却していた(彼は自分自身をポスト・キリスト教徒、あるいは「回復期にあるキリスト教徒」と表現している)。

宗教的神話の姿勢に対する畏敬の念は失っていなくて、その念だけで教会に通い続けている。

そしてエジンバラでの討論の途中、彼が述べた意見が私の核心部にグサリと入ってきた。

彼は数学と宇宙論の世界から詩的神話を借りて、人間性を進化の「特異点(シンギュラリティ)」と表現したのだ。


表現は異なるものの、彼が意味したのはまさに私がこのエッセイで話していたことだった。(※)

超親切な人間の出現は、40億年にわたる進化史上かつてないものである。

ホモ・サピエンスという特異点のあと、進化は二度と同じにはなりそうもないように思える。


※=彼はシンギュラリティを、超人間主義の未来学者レイ・カーツワイルが用いた意味で使ったのではなく、物理学者の用法のまた違った隠喩的発展形を示していたのである。


後記

このエッセイはイエスが実在の人物だったという前提で書かれている。

彼は実在しなかったとする少数派の学派が歴史家のなかにいる。

彼らを支持する事実はたくさんある。

福音書はイエスが死んだとされてから数十年後に書かれたもので、書いたのは彼と会ったことがない無名の弟子たちで、強い宗教的計略を動機としていた。

さらに、歴史的事実についての彼らの理解は私たちのものとは大きく異なり、旧約聖書の預言を実現するために平気でつくり話をしている。


翻訳者の力量も大いにあると思うけど


科学・欧米文化、宗教を深く知らんでも


あまり気にならずすっと読めた。


シンギュラリティ」について、


ピーター・バラカンさんと


養老先生のSpotifyトーク


チラッと言ってたけど、


これからはコンピューターを


神と崇めるような時代が来るかもと。


いや、宗教の代わり、だったか。


 


それにしてもイエスは架空の人物って…


そこまで明確には書かれてないけども。


ドーキンスさんではないが


池田清彦先生も吉本隆明先生が


そのようにいておられていたと。


 


もし架空の人物だったら、


いろいろ世界的にやばいように


思うのだけど…


自分はキリスト教じゃないが。


典型的な日本人でございまして。


ならば余計なお世話か。


 


でもって、解説がすこぶる面白かった!


 


解説


鎌田浩毅(京都大学大学院人間・環境学研究科 教授)


から抜粋


最後に、本書のようにテーマが多岐にわたる大部の科学書を読む際のコツを述べておこう。

理解できないことは分からないままにしておいて、とりあえず通じるところだけで読み進めるのである。

まず理解できた部分だけで全体の話の筋を追う。

そして、全容が見えてきたら、分からなかった箇所を少しだけ振り返る。

それでもまだ分からなかったら、決して無理はしない。

というのは、今の自分には必要ない内容かもしれないからだ。

無理をせず分かるところだけ飛ばし読みするのが、そのポイントである。

また分厚い科学書を読みこなすためには「解説やあとがきから読め」という裏ワザがある。

本文に取りかかる前に、巻末の解説を先に読んで「教えて」もらうのだ。

解説にはエッセンスが要領よく説明されており、加えて著者の生い立ちやバックグラウンドも書いてある。

ここを読むだけでも本文理解のキーとなる概念が見えてくるだろう。

実は、科学書が読みにくいと思う人の最大の障壁は「心のバリア(敷居)」なのだ。

そして「読み始めたら最後まで読まなければならない」という固定観念がある。

しかし、一冊の本をくまなく理解するのはそもそも無理で、「著者と意見が合わない」と思ったら読むのをやめても一向に構わない。

すなわち「本は読破しても偉くない」。

くわしくは拙著『理科系の読書術』(中央公論)を参考にしていただきたい。


本書をきっかけに「科学的思考法」に触れ、人類の知的遺産全体に読者の視座が広がることを期待したい。


素晴らしいです。


読書術については


養老先生・立花隆さんも限りなく近い事を


仰っておられた。


僭越で恐縮ですが同感なんです。


鎌田先生の本も読んでみたい。


さて、今日は天気良いので掃除と


布団を干しております。


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