②環境を知るとはどういうことか・流域思考のすすめ:養老孟司・岸由二著(2009年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
環境を知るとはどういうことか 流域思考のすすめ (PHPサイエンス・ワールド新書)
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2011/05/20
- メディア: Kindle版
前回から引き続き、同書から。
「流域思考」の説明と
その後、岸先生の哲学に触れて
「流域思考」の生まれた背景を考察。
第3章 流域から考える
大地の構成単位は「流域」である
から抜粋
■岸
小網代は、子どもでも1時間で、「ああ、地べたってこうなっているんだ」と<流域>の自然を実感できます。
そこで彼らに、たとえば、「あと八万年くらいたって、もう一回氷河期が来れば、鶴見川なんかはガタガタに削られて、小網代のような谷になってしまう」という話をしてあげると、わかってくれます。
小網代を見ているからわかるのです。
「ここを330倍すると鶴見川流域。2万4000倍すると利根川流域だよ」
などと教えてあげるのもいい。
日本には一級水系が109もありますが、どの水系に対応する流域でも基本構造は同じです。
生きものの体の単位が細胞で、細胞がわからなかったら生物がわからないのと同様、大地のことを知るが目には、その構成単位である<流域>のことを知らなければならない。
実は、大地の表面をどの単位で理解すればいいのかについて、国際的な基準は確立していません。
行政単位はもちろん人工的に、しばしば激しい争いなども起こしながら決めてゆくわけですが、地球生態系のデコボコ構造に即した大地の決め方に、基本方式はないのですね。
一所懸命に決めようとしている研究者が一部にいますが、あまりに複雑で一般化していません。
私がその区切りを考えるとすると、よほど特殊な土地でなければ、ほとんどの地べたは雨の水でくぼみますから、日本列島も世界の大陸も、大小の流域がジグソーパズルのピースになっているような状態だと言えるのではないかと思います。
私がグーグルアースが、ワンクリックで地球全体の全表面を流域に分けるプログラムをつくってくれないかとつねづね考えています。
プログラムは難しくないはずですし、そうしたら全世界規模で大地の認識が激変すると思いますね。
平面の地図だけではわからない、
ハザードマップも、ないよりはあった方が
いいのはもちろんだけど。
それをWebでフリーでリリースされれば、
大勢の役に立つことうけあいかと。
わかる人がいて、旗ふらないとってのは
いわずもがなだけど。
日本初のネオ・ダーウィニズム形成学者として から抜粋
人間と自然との関係を軽視するのは、マルクス主義も同じです。
そのことに触れる前に、私と生態学との関わりを述べておきたいと思います。
私が進化生物学に進みきっかけはハゼでした。
ハゼには大きな卵を産む種と、小さな卵を産む種がいます。
どうしてそんな分化がおこったのか。
これが、昔から日本の魚類生態学の懸案になっていて、伊藤嘉昭さんや今西錦司さんが、家族の進化と関係づけて
「保護が加わっていると大きい卵をちょっと産む。保護が加わらないと小さい卵を数多く産む」
といっていたのですが、それはおかしいんじゃないかとずっと思っていました。
で、自分の中にモデル的にまったく違う理論が出てきた。
保護が加わると、場合によっては卵は小さくなるという逆の理論です。
これは考えてみれば当たり前の話で、自立するとカビなどがつきやすくなるけれど、保護されていればつかないから、小さくでも生存できる。
そう考えると、たとえば、ランの種が小さいのは菌と共生して保護されているからで、ヒマワリの種が大きいのは、保護されていないからだということになる。
こんな風に考えることができたのは、私が日本の生態学者の中でかなりませたネオ・ダーウィニストだったからです。
大学の一年生だった1966年に、ジョン・メイナード・スミスの『The Theory of Evolution』(進化の理論)という、当時ペリカンで世に出ていた本を読んで、こんなにすっきりした理論があるんだと感動しました。
でも当時の日本の生態学はまだまだ古いソ連の生物学の影響が極めて強く、ルイセンコ主義(スターリンの庇護を受けて、メンデル遺伝学やそれにもとづく進化の総合説を否定し、獲得形質の遺伝にもとづく独自の生物学説を唱えたが、1954年、フルシチョフによるスターリン批判を契機に実権をうしなった。日本の政治的な生物論議の世界では1970年代に至るまでかなりの影響があった)が政治好きな生物系の学生の頭の中ではなお全盛だったと思います。
メンデルや集団遺伝学が面白いというと、当時私が在学していた横浜市大の生物科では、岸はアメリカかぶれの機械論者などと言われました。
「岸の頭の中をみんなで弁証法にしてやらないといけない」
などと、憐れまれていた。
彼らは、もうフルシチョフのスターリン批判が終わっていたのに、これからルイセンコ主義の生物学が本格的に台頭するなどと信じていましたね。
日本の戦後の生態学の世界は、不思議なマルクス主義が本当に広く根付いていた分野なのです。
1960年代にネオ・ダーウィニズムで生態学をやろうなどという考えを起こしたのは、全国で私くらいのものだったと思います。
主たる原因は、当時の私がひたすら政治的な世間知らずだったということかとは思うのですが。
70年代に入ってなお孤立して一人でやって、卵の大きさもネオ・ダーウィニズムの理屈で説明すると息巻いていました。
市民運動をやりながらでしたが、そういうことは頭だけでも考えられますから、それで、グラフモデルにちょっと微分を使っただけで、モデルがポコンとできました。
そのまますぐに論文にしたら世界初に並ぶ面白いアイデアだったのですが、面白がってよぶんなこともいろいろ考え、ゴテゴテとしたとても複雑なシステムをつくってしまった。
で、あるとき、お前のやっているのと同じ説がアメリカの雑誌に出ているぞと言われたわけです(笑)。
遠い昔の懐かしい思い出ですね。
そのような下地がありましたから、たとえば『人間の本性について』(原書は1978年、岸由二訳、思索社、1980年)のE・O・ウィルソンや『利己的な遺伝子』(原書は1976年、日高敏隆、岸由二ほか訳、紀伊国屋書店、1991年)のリチャード・ドーキンスなどが出てきた時に、彼らが何をやっているかということが内在的にわかりました。
正しいかどうかはともかく、自分がやっていることと同じアプローチで仕事をしている研究者が新しい潮流を作り出しているという感じがあって、当然彼らを支持しました。
その段階で彼らをほめていたのはたぶん私と、さらに若手の一部だけだったと思います。
あるとき、岩波書店の編集者の粒良(つぶら)さんが、
「面白い本が出たから、岸くん、読んで感想を教えてくれる」
と言って一冊の本を差し出したのですが、それがドーキンスの『The Selfis Gene』(『利己的な遺伝子』)でした。
ざっと読んで、面白いから訳そうと提案したのですが、八杉龍一先生が
「これは機械論の本だから、弁証法を旨とする岩波書店が出してはいけない」
とおっしゃって、没になりました。
まだそんな時代だったんですね。
それで結局、紀伊国屋書店から刊行されることになり、翻訳を頼まれた日高敏隆さんが
「こういう乱暴なネオ・ダーウィニズムがわかるのは岸だろう」
と指名してくれ、翻訳作業に加わることになったんですね。
私がなぜマルクス主義にならなかったかというと、象徴的にいえばマルクスとエンゲルスが扱った「フォイエルバッハ・テーゼ」に違和感があったからです。
フォイエルバッハ・テーゼの一つに
「人間の本質は社会的諸関係の総体だ」
というのがありますが、極論すれば、学生時代の私のまわりのませたマルキストは、それだけで仕事をしているように感じられました。
誰かが「これは人間の本質だ」といったら、
「本質なんてない。それは社会関係で決まるんだ」
と言い放って、そこで社会的説明に限定したストーリーテリングとなる。
でも、本当は人間同士の社会的諸関係だけではなく、人間と自然との関係だってあるはずです。
はなからそれを危険視して、しかも進化的な思考なども排除して思考停止したってしょうがないじゃないか。
そう思って、ソシオバイオロジーの人間論にも共鳴しているところがあって、ウィルソンを翻訳したのもその影響でした。
ソシオバイオロジーというと、ナチスが信奉した優生論と同列と本気で誤解している人がいるのですが、二つは全く違うものです。
そうした思想が全体主義のとんでもない世界をつくっていたのですが、ウィルソンはそんな生物学的本性は計算上絶対ありえない、ただし親戚とか近所の人に強く共感し、自己犠牲的にふるまう傾向は、遺伝的な性質としてあり得ると記述しているだけなのですね。
民族的に自己犠牲的に同一化する習性も階級本能も、ヒトの生物進化の産物としては絶対にありえないという全体主義否定が、社会生物学的な人間論の文明的な貢献といったっていい。
ウィルソンも、ハミルトンも、ドーキンスもそう考えていた。
実に明解なものです。
私は人間と自然との関係にも、遺伝的な背景が働くと考えています。
たとえば、言語を習得する言語本能のようなものがあって、それが活性化したときに、あるパラメーター(媒介変数)が入ると日本語になり、別のパラメーターが入ると英語になる。
チョムスキーの議論は、乱暴にいうとおそらくそんな議論だと思います。
同じように、人間が人工的な世界を気持ちいいと感じるか、あるいは地べたのデコボコが気になってしょうがないという感覚を持ってしまうかという差は、ヒトという動物のすみ場所学習のプログラムに文化的に異なるパラメーターが入ってきたことによって生じる解釈とするとわかりやすいと思うのです。
人間の中には、言葉などでは自由に相対化できないような、自然との深い関わりが隠されているのかもしれません。
ただ、その種の議論はもっと洗練させてやらないと、ウィルソンのバイオフィリア論のように「人間は生き物が大好きな本能を持っている」
などと主張するだけになってしまう。
私はあのコメントはかなり乱暴な議論で、厳密には誤りだと思っています。
もっともっと複雑な議論ですね。
でも、お友だちが好きだという本能ならあるかもしれない。
その「お友だち」がクワガタムシになると、私や先生のような大人になるんじゃないですか(笑)。
岸先生の底辺に流れているものが
少しだけわかった気になった。
反骨精神の持ち主でもあるのか。
時は60年代、マルクス主義、とかって
新人類と呼ばれた自分からすると
勝手な想像でしかないけど。
併せて生物学者の進化を
考えると面白かったり。
この本の主題ではないのだけれども。
それにしても余談だけれど
学者さんってそういう発想というか
着想でものごとをとらえ、
生活しているのだなあ
と、まるで無縁な世界で
遠い目をしてしまいがちなんだけど
お前も同類だよ、
生物ってキーワードを
「音楽(レコード・CD・サブスク)」
「本」「アート」に換えてみなよ
って言われると、そうなのかもしれない、
みたいな。
養老先生の言葉、一文字もなくてすみません。
完全に聞き手役なんだもの。
興味深すぎる書籍であるため
もう一回続かせていただきます。