好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I: 私が科学者になるまで



  • 出版社/メーカー: 早川書房

  • 発売日: 2014/05/23

  • メディア: 単行本





何冊か著者の書籍を


読んできてプロフィールも気になったので


読んでみた。


あくまで反骨精神の成り立ちを。


科学的なところではないため


悪しからず。


最終章 来し方を振り返る



利己的な遺伝子』の出版は、私の人生の前半生の終わりを記すものだから、ここは立ち止まって、振り返ってみるのにふさわしい場所である。


私はたびたび、アフリカで過ごした子供時代が生物学者になるように導いたのではないかと尋ねられる。


そうですと答えたいところだが、確信がない。


初期の歴史における何か特定の変更によって、人の一生の進路が変わったかどうか、どうしたらわかるというのだ?


私には、普通に目につくと予想されるあらゆる野生植物の名前を言うことができる訓練を受けた父と母がいたーーーそしてふたりともつねに、実在の世界について子供の好奇心を満たそうとしたがった。


これは私の人生にとって重要だったか?


イエス、まちがいなくそうだった。


私が八歳のときに家族はイギリスに渡った。


もしこれがなかったらどうだったろう?


11歳のとき、私はマールボロ校ではなく、オーンドル高に行かされた。


この気まぐれな変化が私の将来を決定しただろうか?


どちらも男子校だった。


心理学者なら、もし私が男女共学の学校に行っていれば、社会的にも順応した人物になっていただろうと言うかもしれない。


私はオックスフォード大学になんとかもぐりこんだ。


たぶんぎりぎりで通ったのだろうが、もし落ちていたらどうなっていただろう。


もし、ニコ・ティンバーゲンの個別指導を受けなかったとしたらどうだっただろう?


まちがいなく、私の人生は異なったものになっていたことだろう。


おそらく、私は本など書いたりしなかっただろう。


しかしひょっとしたら、人生には、何か磁石ののように人や物事を引き戻すものがあって、一時的な逸脱があったとしても、一つの道筋に収斂(しゅうれん)していくという傾向があるかもしれない。


生化学者として、そのときにはもう少し分子的な方向への傾斜が強くなっているとしても、最終的に私は『利己的な遺伝子』に至る道に戻っていったかもしれない。


ひょっとしたら、その道の引力は、私の十数冊の著作すべてについて、(今度も生化学へ傾斜した)変形版を書くように導いたかもしれない。


正直、それはどうかなという気持ちだが、「その道に戻っていく」という考え方全体は、興味がないわけではない。


それについては……まあ……いずれ戻るつもりである。



長々書いてきて最終章で、最も気になることに触れ


ひらりとかわすような。


そんな簡単に人の影響なんてわからないものだ


と言っているような気もする。


オックスフォード大学に行くまでは


普通の学生さんのような印象だった。


幼少期に戦争がありそこを除くと


ネーン川沿いの学校 から抜粋



私はオーンドル高に確固たる国教会信徒として入学し、初年度には数回、聖餐式に出席さえした。


私は朝早く起き、クロウタドリやツグミの鳴き声を聞きながら、陽光を浴びた教会の庭を通り抜けて歩くのを楽しみにし、そのあとの朝食を待つ心地よい空腹感に浸った。


詩人のアルフレッド・ノイズ(1880~1958)は、次のように書いている。


「たとえもし私が宗教の根本的な実在性になんらかの疑問を持ったとしても、つねに一つの記憶ーー早朝の聖餐式から帰ってきた時の父の顔に浮かんだ輝きーー


でそれを払拭することができるだろう」。


それは大人にとっては、見事なほど馬鹿馬鹿しい論法だが、14歳だった私にはそれで十分だった。




私が、以前の不信へ戻るまでにそれほど時間がかからなかったと言えるのは嬉しい。


最初に不信を植え付けられたのは九歳ごろで、キリスト教が唯一の宗教ではなく、他の宗教と互いに矛盾があることを母から教わったときだった。


さまざまな宗教がすべて正しいということはありえない。


それなら、なぜそのなかの一つだけを信じるのか、たまたま私が、そのように育てられるべく生まれたというだけのことで。


オーンドル校では、聖餐式に通った短い期間の後は、私はキリスト教に特異的なあらゆることを信じるのを止め、さらには、特定の宗教すべてを軽蔑するようにさえなった。


とりわけ、私たちはみな「惨めな罪人」ですと全生徒が声を揃えてつぶやく「総告白」の偽善が頭にきた。



反骨精神のようなものは、


ロックの世界にも


パブリック・スクールとか


ミッション・スクールとか


教会に通っているうちに


それは育まれた、っていうのは


よく聞く話だけど。        


でもまあ、その後の下地は、


この頃、できたのだろうな。


訳者あとがき



パブリック・スクールの寮生活についての記述は、心地よいとはいいがたいが、経験者でなければわからないことが書かれていて、イギリス映画やテレビドラマの学園生活の場面をみる時の見方が変わるかもしれない。


総じてドーキンスは科学者らしく、誇張することも隠蔽することもなく、自分自身を客観視しながら、きわめて率直に事実だけを語っている。


生徒間のイジメに遭遇して、自分がそれをなぜ止めることができなかったのかという自問も含めて、若かりし頃の自分の心の中を見つめ、人格における不連続性という考えを提示しているのは興味深い。


これまで、私が知らなかったことで、もっとも強い感銘を受けたのは、オックスフォード大学院生時代にドーキンスが指導を受けたマイク・カレンのことである。


自らの睡眠時間を削ってでも、若い研究者への助言にエネルギーを注ぎ、いっさいの見返りを要求してこなかった。


現在の学者の世界(とりわけアメリカや日本)では、自身の功績や栄誉に拘泥しないこういう人間の存在を許さないだろう。


学者の功績が論文数、ことにインパクト係数の高い雑誌にどれだけ名を連ねるかで評価され、それが学者の身分と研究費の獲得に直結するから、マイクのような利他的な研究者は生き残ることができないはずだ。


逆に言えば、自分がいっさい手を下さず(極端な場合には、その実験の詳細を十分に理解できないまま)、若い研究者が成し遂げた研究論文に老教授がなを連ねるという悪習の中から、今回のSTAP細胞スキャンダルのようなものが出てくるのは、必然と言えるだろう。




もう一つ意外な発見は、エルビス・プレスリーの熱狂的なファンだったということだ。




私の年代の周辺では、ビートルズの方がずっと大きな影響力があったように記憶しているのだが、同じ英国人なのに一言の言及がない。


思うに、大学生になって、少し背伸びして紳士ぶるために、音楽の趣味もポピュラー音楽からクラシック音楽に変わり、ビートルズの登場したのがそれより少し後の時期だったという事情が理由なのかもしれない。




彼が一時期ひどい吃音に悩まされていたというのもはじめて詳しく知った。(どこかでチラリと書いていたような気もするが)。


文筆における能弁からはまったく想像がつかない。




自由なアフリカを離れ英国の祖父母たちの厳格な躾に従わなければならなかった時期の生活が大きなストレス要因だったようだが、ドーキンスが何不自由ない恵まれた生活を贈った優等生だと思っている人(私自身もいくぶんかそう思っていたのだが)には、この事実を知ることで、彼の剛速球のような論理展開の底にある弱者への共感やどこか冷めた感じは、理解しやすくなるだろう。


また、両親を含めてまわりにナチュラリストになるべきお膳立てが揃っていたのにナチュラリストにならなかったことは、よく知られているが、パブリック・スクール時代の夏休みに、父親の農作業を手伝い、一介の農民として汗水垂らした経験があったというのも初耳で、そういう意味でのフィールド体験があることを知ったのも意外だった。



オックスフォードで師事されてた


マイク・カレンさんとは


稀なる邂逅と言えるものだったろう。


2001年に亡くなった時、ドーキンス氏が


述べている弔辞も途中で挿入されていて


訳者あとがきにも触れられているような


人柄と尊敬の念が表れている。


所でドーキンスさん


ナチュラリストではなかったのだね。


それから自説では


宗教とは決別していても、


実生活では特定の宗教は


お持ちなのではないかなあ、なんて。


別にあってもいいのだけど。


というかこの人は捉えどころのない


かつ、簡単には手の内を見せない


生粋の英国紳士って感じがする。


余談だけど、エルビスはあっても


ビートルズは不思議なくらい記述がないと。


ドーキンス氏1941年生まれだと


ジョン・レノンの1つ下。


ビートルズとほぼ同世代となると、


ビートルズのアウトプットが


実は何なのかがおおよそ


わかってしまったのではないかな、


故に積極的に聴いてなかったのかな、


と勝手な推測。


それとこれまた勝手なイメージだけど、


ドーキンス氏にはキング・エルビスの方が


似合っている気がする。