ジョサイアおじさん から抜粋



チャールズはもちろん、ビーグル号の招待のことを、おじさんのジョサイア・ウエッジウッドに話しました。


ジョサイアおじさんは嬉しいことに、お父さんとはぜんぜん違うことをいいました。


おじさんは、ビーグル号での旅はすばらしい機会だ、こんな機会は、両手でしっかりつかまえなければいけない、というのです。



艦長に会う から抜粋



ビーグル号にさそわれてから三日しないうちに、ダーウィンは大喜びで、その招待を受けることにしました。


9月5日には、ダーウィンはロンドンに来て、ビーグル号の艦長ロバート・フィッツロイの面接を受けました。


最初、フィッツロイはダーウィンが気に入りませんでした。


ダーウィンの鼻が小さくてあぐらをかいているから、というのです!


フィッツロイ自身の鼻は、高く、すっきりと貴族的で、チャールズ2世(イギリス王、在位1660~1685年)を先祖に持つ人物にふさわしい鼻でした。


艦長は、人の性格はその鼻にあらわれる、と考えていました。




けれどもダーウィンは、その熱心さと人柄のよさで、すぐに、艦長の気持ちを変えてしまいました。


これでもう、ダーウィンの出発をじゃまするものはなくなりました。



”怪物”の墓場 から抜粋



”怪物”の墓場というのは、プンタ・アルタと呼ばれる場所で。アルゼンチンのバイア・ブランカの町の近くにあります。


ダーウィンがとりだした最初の骨は、メガセリウムという巨大なナマケモノのような動物のものでした。


現在のナマケモノと同じく、木の葉を食べますが、食事をするために木にのぼる必要はありません。


腰を下ろして、首をのばすだけで、やすやすと木の葉が食べられるほど大きかったからです。




ダーウィンはすっかり興奮して、集めた大荷物をビーグル号へ運ばせ、乗組員のうんざりした顔をしりめに、デッキに積み上げました。


乗組員だちは怒ったりおもしろがったりしながら、「ビーグル号の哲学者」が、きれいに磨いてある船をめちゃくちゃにしてしまう、と文句をいいました。


「哲学者」のほうは、もうむちゅうで、えものの上にかがみこんでいました。


この化石動物たちと、現在生きている、その仲間らしい小さな生き物たちとは、いったいどうつながっているのだろう?


なぜ、そして、どんなふうに、この巨大な生き物たちは死に絶えたのだろう?



なぜ、この生き物たちは死に絶えるのだろう? から抜粋



熱心なキリスト教信者としてのダーウィンは、この問いの答えを知っていました。


大洪水です。


神が、罪深い世界を罰するために大洪水を起こしたのだと、聖書に書いてあります。




けれどもメガセリウムをはじめとする、この巨大な生き物たちは、それほど運が良くなかったのでしょう。




ダーウィンは、牧師になるはずだったのですから、他のだれにも負けないほど、聖書についてはよく知っていました。


けれども洪水説は、どこかおかしく思われました。


ほかにも、キリスト教の教えで。おかしなものがありました。


たとえば地質学者たちはそのころ、地球が、キリスト教の教える年代よりはるかに古くからあったと主張するようになっています。


聖職者たちは伝統的に、世界がはじまったのは、わずか数千年ばかり前のことだと教えてきました。


けれど科学者たちは、むしろ数百万年というほうが、真実に近いと主張しました。



とけた謎、そして猛勉強 から抜粋



ビーグル号は、太平洋、インド洋をぬけ、大西洋を北上して、1836年10月イギリスに戻りました。


ダーウィンは27歳になっていました。


そのときもう、自分の名前と仕事が人々に知られるようになっていたので、ダーウィンは驚きもし、喜びもしました。


ダーウィンが、注意深く荷づくりした標本といっしょにケンブリッジに送っていた報告は、ヘンズロウだけでなく、他の科学者たちも読んでいました。


その人たちは、帰ってきたダーウィンに会いたがり、偉大な地質学者チャールズ・ライエルは、ダーウィンを食事に招待しました。


名誉ある地質学会がダーウィンの入会を認め、ダーウィンはまもなく幹事になりました。


こういう仕事のほかに、ダーウィンは、自分の研究もしなければなりませんでした。


のちになってダーウィンは、帰国後の二年間が生涯でいちばんいそがしかった、と回想しています。



ダーウィン、反抗する から抜粋



シュールズベリーに住みながらこういう仕事をするのは、とても無理でした。


そこで1873年、ダーウィンは、ロンドンの中心のグレイト・モールバラ・ストリートに部屋を見つけました。


そうして、ロンドンならではの社交的な行事や、科学者としての日々を楽しみました。


けれどまもなく、ダーウィンは、自分は都会がきらいだということに気がつきました。


都会はうすぎたなく、いやなにおいがして、とじこめられたような気分になります。


そのうえ、ダーウィンはにげだすことができませんでした。


することがありすぎました。


こんなふうにして数ヶ月をすごしたあと、ダーウィンは、がまんをするのをやめました。


毎日の生活が、がさがさしていてほこりっぽく、グレート・モールバラ・ストリートそっくりになっていました。




ダーウィンはもっと良い案を思いつきました。


結婚するのです!




相手はダーウィンのいとこ、エマ・ウエッジウッドで、ジョサイアおじさんの末むすめでした。


ふたりは1839年1月29日に結婚しました。


ダーウィンの三十回目の誕生日の少し前でした。



偉大な計画のスタート から抜粋



ビーグル号の報告書を書くあいまに、ダーウィンは、動物の品種改良にとりくむ人たちや園芸家と会って話をしました。


科学者たちに質問の手紙を送り、論文をたくさん読みました。


結婚し、ダウン・ハウスに移ってからは、疲れを知らずに観察や実験を続けました。


飼育している何種類ものハトを観察し、ダウン村に自生するヒイラギの受粉を研究し、キャベツの変種をかけあわせて、その結果を分析しました。



「生存闘争」から抜粋



けれども、このころはすでに、ダーウィンは一つの理論をつくりあげ、それを確かめる段階にきていました。


発見したことをテストし、その結果を見て、またテストをくりかえします。


1838年、ダーウィンは偶然、大きな影響力を持つイギリスの経済学者トマス・マルサスの本を読みました。


『人口論』と題するこの本は、人類の暗い未来を描き出していました。


マルサスは、人類は何の制約もなしにほうっておいたら、人口は非常ないきおいで増える、25年ごとに倍になるだろう、と予測していました。


食糧はそれほどのいきおいで増産できませんから、人類は常に、飢える危険にさらされることになります。


人口増加をおさえるただ一つのものは、戦争、飢餓、病気などのわざわいでした。


だれかが生きるために、だれかが死にどなないとならないのです。


生きること自体が、たえまない戦いなのでした。




ーーチャールズ・ダーウィン『種の起源』より


たまたまわたしは、楽しみのためにマルサスの『人口論』を読んた。


私は動物や植物の習性を長期間観察してきたから、生存をめぐる戦いがあらゆるところでおこなわれているという事実を受け入れる準備がととのっていた。


そこで、このような状況のもとでは、有利な条件を持つ変種がより生き残りやすく、不利なものは絶滅するだろうということが、すぐにわかった。


こういうことが起きた結果として、新しい種が出来上がるだろう。



出版の日 から抜粋



チャールズ・ダーウィンの本は、正式な題を『自然選択、あるいは生存のための戦いにおいて有利な品種の保存による、種の起源』といい、1859年11月24日、ロンドンで出版されました。



おばあさんはサルだった?



主教はほほえみをうかべて、科学者をちらりと見ました。


科学者の方は、きっと目をすえて、主教を見返しました。


オックスフォードの大ホールがしずまりかえりました。



「おしゃべりサム」の敗北 から抜粋



「主教のおっしゃることが正しいと仮定してみましょう。わたしーーハクスリーーーは猿の子孫だと仮定しましょう。


それがどうだというのでしょう。わたしは、神からの贈り物を真実をぼかすために使うような男よりは、むしろサルを、先祖に持ちたいものです。」



ハチの巣をつつく から抜粋



たちまち、ハチの巣をつついたようなさわぎになりました。




そうして、これはまたどうしたことでしょう?


とびあがるようにして立った一人の男性が、人ごみの中で聖書を高く掲げ、なにかどなっています。


「ここに、すべての真実がある!ここにしかないのだ!」


それはロバート・フィッツロイドでした。


当時54歳のフィッツロイドは、副提督の地位にあり、熱狂的なキリスト教信者で、熱心な創造論者でもありました。


まるで過去からの亡霊のように、フィッツロイドは自説を主張します。


5年後、彼は自殺してしまいました。



ビーグル号元船長、最初の面談では


笑ってしまうエピソードだったのに


その後全く笑えない展開になるとは。


ダーウィンの論説の裏でのさまざまな人間関係や


キリスト教徒の関係性などを考慮すると


ダーウィンの心中やいかに。


その後、さらにダーウィンの説は進化していき、


1940年代頃に時は流れり。


さまざまな発見の統合 から抜粋



科学者たちは、この新しい説明を「進化論的統合」と呼びます。


この名はサー・ジュリアン・ハクスリーの本で有名になりました。


サー・ハクスリーは、ダーウィンの友人だったあのハクスリーの孫です。


「統合」というのは集めて一つにすることで、進化論的統合は、さまざまな分野での、多くの科学者たちの発見をもとに成り立っています。


その最初のものは、修道士グレゴール・メンデルの発見で、メンデルはダーウィンの著者を読んでいます。


彼が発見した遺伝の法則は、何年も無視され続けましたが、1900年になって再発見されました。


生物が自分の特徴を次の世代に伝えていく、その伝え方には決まった型があることを、メンデルは発見したのです。


たとえば、たけの高いマメとたけの低いマメをかけ合わせると、この雑種はぜんぶ、たけが高くなります。


けれども、この雑種のなかの二つをとってかけ合わせると、次に生えてくるマメの4分の1はたけが低くなるのです。


メンデルはなぜこうなるのかをあきらかにしました。


けれど、植物が次の世代に伝えているのは何なのか、たけの高さや低さを決めるのはどういうものなのか、ということはわかりませんでした。



その後、DNA、染色体、遺伝暗号、などが


解明されていって現代に至るということのようで。


今も進化を続けるダーウィンの論説。


この書籍にあるけれど、当時の


生物学者たちの方が、科学者・宗教家よりも


真実に近かったようで、それは今考えると


そうだろうって思うのだけど


進化の過程がわかってたってことなんだろうな。


それと解説にあったのが、ビーグル号が


出港したころのイギリスは産業革命の後押しもあって


勢いがあった、ってのも指摘されていた。


自分として興味深かったのは、ダーウィンが


結婚した相手の父親(おじさん)が


ビーグル号乗船を強く進めて、取り計らってくれた


ってところや


ダーウィン含めて、親戚一同


みんなキリスト教の信者だったってことで、


それは、論説を発表するのには


相当悩んだだろうということ。


それと、『種の起源』でははっきり人間の起源は


書いてなかったにもかかわらず


論争の的になってしまったこと。


(言わずもがな、だったんだろうけど)


その後『人間の由来』で


進化のヒエラルキーのレイヤーを


 ヒト


  L ネアンデルタール人


   L ホモ・エレクトゥス


    L ホモ・ハビリス


     L アウストラロピテクス


      L ラマピテクス


       L チンパンジー


と、はっきり書いたことなど。


いずれにせよ物議を醸す「時代」だったのだろう。


と思いを馳せつつ、ダーウィンさんの言葉って


なぜか考えさせられるような書きっぷりで


「時代」というだけではなく、


ミステリアスさ加減を煽るような


別文脈での解釈が発動するような気が


自分なんかはするのだけど。


今でいえば格差社会の影響による人口減少、


戦争、パンデミック、とか。



ーーチャールズ・ダーウィン



どのような生物でも、自然のままにおかれたものの数があまり急に増えないように、何らかの制限がつねにはたらいている。


食糧の供給量は平均すると、いつも一定である。


しかし、すべての動物が繁殖によって、非常ないきおいで増加する傾向がある…。


古くからの種の生き物が突然たいへんないきおいでふえるわけにはいかない。



なんらかの方法で制限されねばならない。



なんか意味深に読み取れる。


いや、気のせいだろう。


そうであってほしい寒い冬の休日でした。