初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)



  • 作者: 池田 清彦

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA

  • 発売日: 2019/03/23

  • メディア: Kindle版






「生物学」を知る前に、興味があるから


「環境問題」にどうしても主眼を置いてしまう。


スルーするのは忍びなさすぎる。


「二 環境は守らねばならないのか?


人間中心主義の環境問題」から抜粋



環境は守らねばならないのだろうか


普通の人ならば、誰でも「守らねばならない」と思っているだろう。


私だってそう思っている。


しかし、「なぜ守らねばならないのか」という問題は、かなり難しい


人間をはじめ、生物はすべて地球環境の中で生きており、環境が駄目になれば当然死んでしまう。


現在の生物は現在の環境に適応して生きているから、極端にいえば、酸素が今の半分くらいに減ったなら、かなりの生物は生きていけない。


しかし、地球の長い歴史から見ると、環境はどんどん変わり続けている。


環境変化のためにある生物が死んでも、また新しい生物が出現するサイクルを繰り返してきた。


地球全体を考えれば、「地球に優しく」などという標語の下で環境を守らなくても、地球自身にとっては全く関係がない。


人間が地球を温暖化させ、温度が5度や10度上がろうが、炭酸ガスが少し増えようが、地球はいっこうに困らない。


初期の地球上に最も多くいた生物は、シアノバクテリアという光合成細菌である。


まずこのシアノバクテリアが、現在の言葉で言うならば地球環境を劇的に破壊した。


 


それまでの地球は、酸素が極端に少ない星であった。


ところが、シアノバクテリアが、光エネルギーを使って水と炭酸ガスから酸素と糖類を次々と作り出していった結果、地球上にはどんどん酸素が増え、現在のような星になったと考えられる。


ある意味では、シアノバクテリアが地球環境を”破壊”しなければ、人間は現代に存在していないということになる。


この論理でいえば、人間がどんどん地球環境を破壊すれば、破壊された環境に適した生物が進化してきて、「人間が環境を変革してくれたおかげで、地球は自分たちの星になった」という事態になるかもしれない。


 


結局、人間にとっての「環境を守る」とは、「人間が一番住み良いシステムはどこにあるのか」という話にならざるを得ないのではないだろうか。



この言説は、歴史は繰り返す、なんてものじゃない、


「因果応報」みたいなものを感じる。


池田先生は、SDGsにも懐疑的なのだけど、


それ以前の話のような「デカさ」を感じる。


こういう生物学の研究、考察をされているから、


科学的根拠が曖昧な言説には否定的なんだろうなと思った。


昨夜も池田先生Twitterで、コロナで焼き太りしている


医療機関の件をつぶやいたら、


意図と違う解釈をされる輩に


まともな医療従事者を貶めてるわけじゃないよ!


とおもいっきり反撃されておられたけど。



地球の生態系に関しては、エネルギーは基本的に太陽から来る。


そして、廃熱は地球外に出してしまう。


太陽から来るエネルギーが一定に保たれている場合、太陽から来たエネルギー分の熱を地球外に出すことができれば、地球の生態系は、温度が高くもならなければ低くもならずに安定している。


太陽から来たエネルギーよりも外に出すエネルギーが少なくなると、地球はどんどん暖かくなり、逆に太陽から来たエネルギーよりも余計にエネルギーを外に出してしまえば寒くなる。


生態系と生物個体が異なる点は、生物は廃物を外に出すことができるが、生態系は熱は地球外に排出できても、物質自体は地球外に排出できないという点だ。


つまり、生態系はもともと生態系になかった物質を自らの中に取り入れてしまった場合には、これを生態系の外に出すことは難しい。


人間が水銀のような有害物質を自らの中に取り入れてしまうと、食物連鎖を通してその物質は生態系の中をぐるぐる回り、結局生態系の中からなくならない。


人間が毒物を直接摂取しなくても、それが生態系の中に取り込まなければ、人間の健康に害があるものが必ず回りまわってくるのである。




環境ホルモン、水銀、カドミウムなど、いろいろなところで騒がれている環境汚染は、すべて生態系の中に放り出された物質が、回りまわって人間の健康を害するという問題である。


人間のためには、環境はある程度は守らなければならないという話に繋がるのは当然だろう。


しかし、環境を守る根拠が結局は人間のためならば、人間が健康に生きられさえすれば、生物の多様性など関係ないという話になる。


極論すれば、人間が生きるためには、ある程度の種類の有用な植物や動物がおり、それらを分解するバクテリアさえいればよいのであって、その他の野生動物などは必要ない。


生態系はそれだけで充分機能するのである。


人間中心主義的な考え方を取れば、必ずそのような論理になってくる。


天然記念物の高山蝶などは、人間の生産性には何の価値もないのでいらない、ということにもなりかねない。




生物多様性を守ろうとの議論のひとつに、野生生物は遺伝子源であるとする考え方がある。


地球上には人間にとって何の役にも立たないように見える生物種が膨大にあるが、もしかしたらそのような生物が、将来の資源になるかもしれない。


何の役にも立たないと思っていた鳥や虫が、非常に有用な薬を作るための遺伝子源になるかもしれない。


だから、何もわからないうちは、すべての生物を守るべきだという考え方である。


しかし、その論拠だけで環境を守るのはなかなか難しい。


極端なことをいえば、遺伝子組み換え技術がどんどん進歩して、それらを使って必要なものはすべて合成できるようになれば、野生生物から薬を取る必要はなくなる。


食物についても、大きな工場の海のそばに建て、人工光合成をすれば事足りるという話になりかねない。


技術さえあれば、地球上に大量にある窒素や炭酸ガスや水をもとにして、それらを適当にミックスしてやれば、理論的には肉でも何でも作ることができるはずだ。


このように、技術さえあれば


「野生生物など単に人間の娯楽のためだけにいればよいのであって、それ以外の生物などは保護する必要はない」


という話にもなりかねないのだ。


しかし、普通の人ならば、人間が生きることが一番大事なのだが、


「ある程度以上の生活が確保できるのであれば、人間の勝手な欲望のために、他の生物を必要以上に殺す権利はあるのか」


と考えるだろう。


「環境が一番大事だ」


という人もいるかもしれない。


しかし、そう考えているのは人間である。


人間という視点をなくせば、保全とか保護とかいう主張も成り立たなくなり、ただ自然があるだけだという話になってしまう。




人間中心主義的に、


「すべては人間のためにあるのだ」


と考える理屈は通る。


しかし、普通の人は、自分の生活がおびやかされない限り、


「野生動物だっていないよりは、いるほうがいいのではないか」


と考えるだろう。


「野生生物を守るためには、人間が死んでもいい」


という環境原理主義はバカげているが、


人間がある程度幸福で、普通の人が普通に生きていける限りは、野生生物もやはりいたほうがいい


と考える人が多いと思う。


それは理屈でなく気分である。




環境問題は、あまり厳密に理屈を突き詰めると極端な話になってくる


結局、人間や生物とは何かという問題と同じように、いい加減なところで適当にやるしかないのである。




生物は、厳密に理屈通りに生きているわけではない。


いい加減なところで、矛盾したらまた適用にやろう、傷付いたらそれを適用に治そうというやり方をとっている。


人間は怪我をしても治るけれど、傷跡が残ったりして完全にはもとに戻らない。


それでも死ぬまでは適当に生きている。


環境もこれと同じで、環境問題を原理主義的に捉えるとろくなことがない。


たとえば、ある生物を天然記念物と決めたら、徹底的に守って一匹たりとも捕ってはいけない、あるいは捕った人間は死刑にしろということにもなりかねない。


人間中心原理主義の場合は、環境など守らなくても、人間が生きていければそれでいいだろうとなってしまう。


そういった極端な考え方を持つ人間同士が喧嘩をすると妥協がない


人間は大事なのだが、人間にある程度衣食住が足りているという前提のうえで環境を守るという議論をする他はないわけである。



何でも「ほどほど」で手を打たなければ「次」にいけない。


それが最適解かは、わからないけれど。


時には、後退でさえ「次」の場合もあり得ると感じた。


しかしこの書籍、200ページあるのに、


まだ30ページくらいだよ。深すぎるだろう。


「生物学」に全然辿り着いてないよ!


まったくの余談だけど、今日「靴」を買いに外出、


ついでに古本屋にも寄って14冊購入してしまい


重すぎて疲れた。


荷物の総量8キロもあったよ、PCも持ってたから。


ちなみに、「靴選び」は5分だったのに対して、


「古本選び」は4店舗合計で2時間でした。


2時間費やすというのは「ついで」なのだろうか。