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③ 初歩から学ぶ生物学:池田清彦著(2003年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: Kindle版

環境問題とは切り離せない人口問題 から抜粋

環境問題とは、人間の問題であり、他の生物と人間の付き合い方をどうするのかという問題でもある。

そういう意味では、自分と他の人たちとの付き合いをどうするのかということと同じといえる。

一般の人は、まずは自分が生きることが最優先ではあっても、自分がある程度うまくいっているなら、他の人がまともに生きられるように支援したり、少なくとも「まともに生きられるのであれば、まともに生きた方が良い」と考えるのが普通である。

それは。人間が生物として持っている根源的な何かーー倫理というか、共存原理というか、エールの交換のようなものである。

しかし、それもやはり衣食住が足りているという前提があってのことに過ぎない。

食うや食わずで本当に困っている人に、「倫理を守れ、道徳を守れ」というのは無理である。

「他人の食糧を取って食べてはいけない」といわれようと、食べなければ死んでしまうという状況であれば、取って食べるのは仕方がないであろう。

しかし、ある程度衣食住が足りている人ならば、他人のことを考える余裕もできる。

今、環境問題についてさかんに騒いでいるのは、全て先進国の人間たちである。


このように考えると、環境問題とは生物学上の問題というよりも、社会のグローバルな経済システムや政治システムに絡んでくる問題なのである。

アメリカの生態学者の間では、昔からよくいわれることだが、結局、環境を考えるうえで一番問題は人口問題である。

これは日本ではあまり語られない。

「人口が減ったために年金負担者が減って困る」などといわれているが、人口が減って困るとはヘンな理屈である。

グローバルに考えると、同じ資源があれば人口が少ないほうが一人当たりのゆとりは大きい。

人口が多くないと困るというのは、社会システムがどこかおかしいというほかはない。


今の日本は、「少子化はいけない」といっているわりに、就職難でどこにも就職できずに困っている学生が大勢いる。

若い世代に職を与えられないようなシステムで、少子化が困ると叫ぶのはどこかおかしい。


それでも、日本には飢えて死ぬような人はあまりいない。

しかし、アフガニスタンやアフリカの一部の国では、実際に飢えて死んでいく人がいる。

まずはいかにして人口をある程度まで減らし、どうやってすべての人たちにうまく衣食住が行き渡るような世界を作るかを考えなければならない。

世界の人口が六十億というのはどう考えても多すぎる。

農耕文化がなかった頃、つまり一万年以上前の地球の人口は、数百万人から一千万人に満たないレベルだったといわれている。

現在でも、ちょうど一万年前と同じレベルの狩猟採集生活をしている人たちの記録を見ると、寿命は短くても生態系の中で非常に優雅な暮らしをしているようだ。


狩猟採集民は、1日に3時間ほどしか働かないらしい。

山の中に植物はいくらでもあるので、人口が一定以上増えなければ、必要最小限のものだけを取れば事足りる。

採集に2時間、調理に1時間程度の時間があれば充分で、あとはやることがないからゴロゴロ遊んでいる。

雨が降れば仕事もしない。

一日十時間以上も働かされるような現代のサラリーマンに比べれば、はるかに優雅な理想的な生活である。

そのような生活がなぜできたのかといえば、それは人口が少ないからである。

農耕がなければ生態系の収容力以上の人口は養えない。

ところが、農耕という文化が起こって食糧が増えはじめると、人口も増加しはじめた。

生産性を拡大するためには人手が必要になり、人口を増やすためには食物が必要となる。

新しい農地ができれば食物が増え、その結果、人口がさらに増える。

このように農耕がはじまって以来、地球の人口はあっという間に増加していった。

人口が増えれば、環境が破壊されるのは当然である。


こういう論調だと、「戦争」や「災害」など「クラッシュ」で


人口を間引こうとするような、クライシス信奉者のように


思う方もおられるかもしれないけど、


池田先生はあくまでそうではありません。(と思う)


養老先生もだけど、「クラッシュ」は備えよ、でも冷静に、


その上で、今何をなすべきか、って言説なわけで。


いいところばかり見えすぎだろうかね。


それと、少し古い書籍だから昨今のヤングケアラー的


日本でも若い世代が食うのに困る事情は含まれてないことは


言わずもがなです。


西洋人は「野生動物を食べるのはいけないが、人間が飼育しているウシを食べたりヒツジを食べたりするのはいい」とよくいう。

これは本質的にはおかしい。

本来は、野生動物の個体数回復の範囲内で野生動物を食べるのが一番いいに決まっている。

野生動物が棲んでいた場所を潰して牧場を作り、ヒツジやウシを飼育して食べているというのは結果的に野生動物を絶滅させていることと同じだ。


いずれにせよ、野生生物を食べて人間が生活するためには、六十億という人口は多すぎる。

せいぜい六億ぐらいになれば、地球環境と人間は、うまく調和を保って生きることができるだろう。

つまり、衣食住が足りて、なおかつ環境を守っていこうとするならば、人口を抑えることが大切なのである。

 

今、バイオテクノロジーを駆使して、とにかく収量の良い作物を数多く作らないことには、地球の人口が百億になった時にみな飢えて死んでしまうと主張している人がいる。

しかし、収量が多い作物を作れば作るほど、そのぶん人口も増えるため、いつまで経っても人口増加と食物増加のイタチごっこが続く。

ある程度、人口を抑える努力をしないと、環境問題は永遠に解決しない。


これは大変面倒な問題である。

たとえば、日本国内だけというミクロ(ジャパンローカル)で見ると、もう少し人口は多い方がいいという人たちがおり、それはそれで合理的な考え方でもある。

しかし、世界全体の生態系のマクロ合理性を考えると、人口はこれ以上増やさずむしろ減らした方がいいということになる。

しかし、ミクロ合理性を考えると、自分の国の人はあまり減らしたくない。

ここに、ミクロ合理性とマクロ合理性とが背反するという問題が生じており、この問題こそが環境問題の根幹にある。


環境問題とは、人類がミクロ合理性を追求した結果、マクロ合理性が成り行かなくなったという問題である。

自分の食物が少しでも多い方がいい、自分の家系もより多い方がいい、自分の遺伝子もより多く残したいと万人が行えば、地球環境というマクロで見ると不合理にならざるを得ない。

 

生物はオートポイエックなシステムを開発した。

しかし、それはみなマクロ合理性を追求するようなシステムに収斂(しゅうれん)しており、進化の過程でマクロ合理性を追求するシステムを開発するような生物はいなかった。

何の束縛もなければ、生物はただひたすらミクロ合理性を追求し続けるのである。

ではそのミクロ合理性は何によって阻害されるのだろうか。

それを止めるのはマクロ合理性ではなく、自然環境からのしっぺ返しである。

餌が不足したり、環境が大激変するなどにより、数が減ったり、絶滅したりするのだ。


環境問題は今や最重要な政治的アイテムであり、ビジネスチャンスでもあるわけだが、だからといって人類が環境問題を解決できるかどうかはそれとは別問題なのである。


「政治的アイテム」や「ビジネスチャンス」だけで


捉えるべきでは、本当はないのだよね。


人類の存続に関わる問題なのだから。


でも、今や人はそれ抜きでは動けない。


ならば、少しでも良心のある


正しい感性を身につけた人たちが、


チームとなって良き方向に先導してほしい。


自分も無関心ではいられないので、できることからやらないとって思う。


人口を「人為的」や「クラッシュ」で減らすってのはなき方向で考え


小さく分けて、システムを作り、回すのが良いってのは


池田さんの他書籍の紹介でも引いた限りです。


 


三 心はどこにあるのか?


脳の中の現実 を引用


生物学者であれば、心は脳の何らかのメカニズムで働くのだろうと考える。

実際、脳科学は日進月歩で進歩しているため、脳のどこをブロックすれば、どんなことが起こるのかについて、今ではかなりのことが判明している。

脳をどこを破壊すれば、人間がどう変わってしまうのかさえ徐々に解明されつつあるのだ。

鉄道敷設がさかんだった頃のアメリカに、ひとつの有名な事件がある。

1848年の夏、鉄道の建設現場でダイナマイトの爆発事故が起こり、一本の鉄棒が、現場監督のフィアニス・ゲージの頭を左の頬から貫いてしまった。

普通なら即死だろう。

ところが彼は、歩いて病院に行き、手当を受け、死ななかったのである。

上から見ると、脳から下に向けて穴が空いているにもかかわらず彼は生きており、見た目からは、どこにも異常がなかった。

話すこともでき、手足も動き、歩くこともできた。

しかし、しばらくするとフィアニス・ゲージの人格がまったく変わってしまったことがわかった。

現場監督をこなすほど非常に責任感の強い優しい男だったのが、感情を喪失した獣のような人間になったという。

その結果、「あれは以前の彼じゃない」と友達が離れてゆき、職も失ってしまった。

ちなみに、彼は事故以降13年近く生き続けたのだが、晩年は自分の頭を見せ物にして生活をしていたようである。


1940-50年代にかけて、アメリカの病院などでは、精神に異常をきたした人が暴れないよう、脳の前頭葉の一部を切開して切除する「ロボトミー」と呼ばれる非人道的な手術が頻繁に行われていた。

手術例は何万にも達したという。たしかに患者は非常に従順でおとなしくなる。

ただ、やはり先のフィアニス・ゲージと同じで、親しさの感情のような人間らしい心が失われ、ロボットのようになってしまった。


脳に障害が起こると、不可思議なことがたくさん起こる例はラマンチャドランの『脳の中の幽霊』をはじめ、いくつも紹介されている。

「ファントム・リム」という幻肢現象では、切除したにもかかわらず、ないはずの手が痛くなる症状が起こる。

脳には、切除した手の感覚に対応している部分があり、そこが何らかの理由で刺激されれば、ないはずの手が痛くなることもありえる。

 

私たちの現実とは、脳の中の現実なのである。

手が痛いと感じているのは、本当は手が痛いのではなくて、脳が痛いと感じているから痛いのである。

しかし手を失ってしまうと、その手に対応していた脳の部分は、やることがなくなってしまう。


もう一つ、脳についての不思議な現象に「カプグラ・シンドローム」というものがある。

通常、人は前の記憶と次の記憶、前の時間と次の時間を関連づけることにより、目の前の現象が以前と多少違っても、そこに同一性を見つけてカテゴリーを組み立てることができる。

ところが、カプグラ・シンドロームになると、脳がこれをうまくできなくなる。

例えば、前にあったことのある人でも、別の人としか考えられなくなる。


そうした場合、個人名や容姿自体は覚えることができるので、目の前の人物が記憶している人物と似ていることはわかる。

しかし、記憶の人物と目の前の人物が同一の人間であることを脳が納得しなくなってしまうのだ。


脳によって人格が司られていて、障害により人格が


変わるってのは何となくわかるような気もする。


それから、記憶できないって件、


「カプグラ・シンドローム」だったかは不明だけど


13年前亡くなった母親が胃ガンだった時、


抗がん剤の影響なのかあと今にして思うが


見舞いに行って話をしていたら、様子がおかしくて少しして


「ごめん、(あんたが)誰かわからない」って言ってた。


それから「ロボトミー」って確か、


手塚治虫の「ブラックジャック」でそういうエピソードが


なかったっけかな。


しかし恐ろしい実験をするなあ、アメリカも。


しかもロボットみたいになるからって「ロボトミー」って。


名前が後なのか先なのかわからんけども、


はたまた、そもそもそのネーミングセンス自体


どうでもいいといえばいいのだけど、


何万人にも手術したって、恐ろしい時代としか言いようがない。


しかしさあ、今回の記事も生物学の書籍なんだから、


もっとそれによったところを注視しろよと思うけど


時間なさすぎなんだよね、全く。


今日はプラスチックのゴミを出さないといけないし。


記事投稿を三回やっても、まだ環境問題と脳の話だよ。


でも、お腹すいちゃったので、あと一回やリます、この書籍。


興味深すぎる。どうもすみません。


 


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