脳という劇場 唯脳論・対話篇



  • 作者: 養老 孟司

  • 出版社/メーカー: 青土社

  • 発売日: 2005/10/01

  • メディア: 単行本




身体と言語(1990年)から抜粋


■養老


僕が日本語でもうひとつ気になっているのは擬音語です。


擬音語というか、擬音語と思えないような同じ言葉が


たくさんありますね。


「つくづく」とか「しみじみ」とか。


そういうのは、どうも英語に対応する表現がないような


気がするので、あれは何だろうなといつも不思議で。


韓国にはあるらしいんですけど。


■吉本


輪の中でいえば、副詞と感嘆詞の中間なんだと思います。


本当に微妙なものがありますね。


■養老


論理的に考えると、だんだんおかしくなるんですね。


「しみじみ」って何だ。何が「つくづく」だ。


どうして「つくづく」なんだってつくづく考えたこと


あるんですけど全然わからない(笑)。


■吉本


それから、日本語だけじゃないのかもしれないけど


やっぱり問題になってかつ興味は深くて、


まだ人が誰もやっていないなと思うことは、


いわゆる幼児言葉というのでしょうか。


乳児言葉というのでしょう


か。本当言うと、


親と自分の赤ん坊との間にしか通用しない


「アバババー」とか、よく母親が言うと、


ニコニコッとする


とかいうのがありますね。


あの「アバババー」というのは何だろう


乳児には通ずるから


笑うんだろうと思うんですが、なんで笑うんだろうとか。


音であろうが、目であろうが、


それがよく分化できてないのとか


ありますね。それがあんまり人がやっていない気がします。


■養老


それが最初から話題の価値に


結びついているような気が、


直感的にするんです。


価値観というものもそれに似たものであって、


理屈にならないんだけれども


すっと通ってしまうものですね。


■吉本


柳田國男だけが僅かにそういうことに気がついて


一生懸命やっているんですね。


養老さんのご本の中で言うと、人間的ということは


一種の実態的象徴というのを持っているか、あるいは


持とうとするかどうかという欲求にかかっているんだと


おっしゃって、それは遊びから宗教まで


みんな入ってくるわけでしょう。


それはものすごく重要なことのような気がします。


柳田國男の言っていることで面白いと思うのは、


室内で遊ぶーー女の子なんか、昔でいえばおはじきとか


お手玉とかありますね。室内で今だったらパソコンとか


ファミコンとかになるわけでしょうけれども、


そういう屋内の遊び。


それから屋外で遊ぶ鬼ごっこと


かかくれんぼというものもある。


しかしもう一つ、軒言葉とか軒遊びというのが


あると言っているんです。


それは中間を構成して、日本の遊びの中には


わりあいにどちらともつかない軒遊びみたいな、


それがあるんだということを盛んに、


どこどこの地方ではこういうのとか実例を


あげてやっているんですね。これはやっぱり、


この人はすげえ人だよなっていうふうに思っちゃいます。


遊びとか言語とかを幼児と成人のあいだで微細に


分類することは言語学者ーー社会学者もやならいですね。


そういうのは未知の分野のような気がして


しょうがないんですけれどね。


■養老


今のお話は、だんだん身体につながってくるような


気がしますね。


場の感覚から身体に移ってくるテーマだという気がします。


■吉本


人間の身体といった場合に、身体がどうしてこういう


形態なのかなということか、二本足で立っている


ということは必然だったのか偶然だったのかとか、


そういう問題がひっかかってきそうな気がするんですけど。


立ったというのは、別に根拠が


あったということじゃないわけですか。


■養老


これが一番問題になるところですね。


僕は無理矢理立たせたんじゃないかとか、


いろんなことを考えたことありますけれどもね。


仮に、生まれてすぐから親がいないで、


しかも食べ物も不自由しないし、何の不自由もない。


子供がそういう状態で勝手に育った場合に、


本当に立って歩くかというのは今だにちょっと


疑問に思っているんです。


狼少年は四つん這いで歩いているということがありますね。


確かにわれわれ、サルに比べて、足が、生後になって


ずっと伸びるんです。これも直立させなかったらどうなるか。


それからまた逆の例がありまして、


最近、よく分かっているのは、


ニホンザルの猿回しのサルですね。


猿回しのサルが、あれ、しょっちゅう


立つ練習をさせていますね。


立って歩くでしょう。


背骨の湾曲が人間と同じになってくるんです。


動物の場合、普通はきゅっとこう、シンプルな凸湾に


なっているんですけれども、ヒトは首のところで前に出て、


胸のところで後ろに出て、くるんです。われわれも


胎児の時はサルと同じだったんです。


だから、背骨が曲がるのは、別に遺伝的なものではなくて、


立って歩いているからだということ。


そうすると、本当に人間って立つのかなって。


どういう動物が立つかって見ていますと、


砂漠のネズミなんかは立ちますね。


要するに草原とか広いところに住んでいる奴は、


どうしても遠くを見ようと思うからふーっと立つんです。


吉本さんと前にお話しした臨死体験ですね。


あれ、どうでしょうね。上から見ていると


言いますでしょう。


■吉本


そうですね。


■養老


あの視点というのが、子供が立ち上がった時に


ガラッと世界が変わる、そういうところと何か関係ないか。


あるいは人間が立ったという時の視野の転換ですね。


■吉本


宗教的な人はまた違うことを言うんでしょうが、


僕は意識がだんだん死に近くなって減衰してきた時に、


原始的なというか、人間以前的なというか分かりませんが、


そういう視覚みたいなのが、実際起こる場所があるんじゃ


ないかみたいに理解したんです。


■養老


それが人間が立ったという歴史的な事実に関連があるか、


あるいは個体発生でいえば、四つん這いで這っていたのが


いつの間にか立ちあがって、視野の転換が起こったという、


その記憶はわれわれはもうないですけども、非常に深い所に


刷り込まれているかもしれません。それが臨死体験になると、


上から見ているという、なせかそういう感じが出てくる。


なんか関係がありそうな気がします。


■吉本


そうですね。立てない時期の赤ん坊というのは、


一年足らずでもあるわけですからね。


■養老


あれ、非常に不思議ですね。これは目じゃなくて、


おそらく耳かなというふうに思ったりするんです。


耳のほうが、ご存知のように跡まで残る感覚ですから、


それで視覚像を耳の方から再構成したりして。


■吉本


ああ、そうですか。先ほどの図で言われた、脳の視覚領と


聴覚領が重なったところが言語領で、その両側のこちらと


あちらではつながりがあるということですね。


■養老


ご存知のように、気を失う時に最後まで残るのが耳で、


正気に戻ってくる時に最初に回復してくるのは耳ですね。


だいたい臨死体験の時に、誰かが喋っているとか、


その内容とか、そういうのは伴っていませんか、


そのシーンに。


音が伴っていれば、多分間違いないという気がしますね。


■吉本


そうか、そうか。それは面白いですね。


■養老


耳のほうがしぶといんですね。目と耳を比較すると、


ニーチェがアポロ的芸術とディオニソス的芸術。


ディオニソスの方が人間を根底から動かすという。


それは日常的なことにも確かに出ている。


正気に戻る時に、音が最初に聴こえたという。


「大丈夫?」という声がまず聴こえるというんです。


それからバッチリ目を開けるという順序に


必ずなっているわけで。


全然話が飛んじゃうんですけど、最近日本人の身体感


ちょっと気になっていましてね。


一つは例えば心臓移植ですが、世界中で何千例か、


四千例か何かあるんですけれども、日本では一例しかない。


しかも医療技術としては充分できるようになっている。


こういうことがどういう発想から生じているのかなと思う。


それから天皇陛下の医療が問題になりましたけれども。


かなりこれは根本的な問題かなということなんです。


非常に荒っぽい考え方をしますと、まず、一つは


江戸時代から日本人はなかり強い唯心論じゃないか。


特攻隊なんかに典型的に出ているんですけど。


七生報国とかですね。


ああいうふうな生まれ変わりプラス唯心論。


身体と言語というのを考える時に、言語や思想と、


身体が完全に結びついているはずですから。


それからさらに宗教ですね。どういうふうに日本の場合、


それがつながって、論理的に説明できるのかなと。


■吉本


そのお話に関連したことで思い出しましたが、


僕はこのごろときどき鳥おじさんになるんです。


ポップコーンを買って不忍池へ行って撒いてやりますと、


カモなど水鳥が泳いできまして、


長いくちばしで争って喰べます。


集まってくるのも喰べるのも無条件なので、


孤独鳥おじさんの気分がとてもよく分かります。


ところでカモの泳ぎ方と、


くちばしを伸ばして喰べる仕方を


見ていルト、どこかで手を使うことを禁じられた人間の


生まれ変わりじゃないかと見えてくる時があります。


日本の仏教が空飛ぶ鳥じゃなくて


水鳥を、前世の今れ変わり、


輪廻の姿にみたてたのが、何となくわかるように


感じたりします。


これは案外自分の中にある


「もののあわれ」かなあ、


なんて思ってしまうんです。



「もののあわれ」ってことだと


自分が浮かぶものとして


鴨長明の方丈記、小林秀雄が語る本居宣長、


小津安二郎の映画、


黒澤明が師匠から教わった言葉などなど、


というか日本文化全般みたいな


印象があるので引いてみたのだけど。


それから、赤ちゃんと母との件も興味深かった。


言葉じゃない会話をしているとでもいうような


高次レベルのコミュニケーションとでもいうか。


吉本さんと養老さんって自分にとって偉人だから


読んでてエキサイティングな


対談だったけれど、大半は


自分の知識ではなかなか追いつけなくて


理解に及ばず悔しいですが、もう少し勉強して


再読する機会あれば


また感じ方変わってくるかな、と思った。