古希になって自分が生きてきた時代を振り返ると、さまざまなイデオロギーに翻弄されたという思いが強い。その始まりは、昭和20年8月15日である。若い人には、敗戦についての特別な思いはないだろうし、何かあったとしても、五感に直接に訴える体験はあるはずがない。(中略)解剖助手になって1年目に、大学紛争が起こった。さまざまな思い出があるが、ともあれイデオロギーというのは、面倒なことを引き起こすものだと、しみじみ思った。考え方を変えさえすれば、これという問題はないのに。もっと「確実」な見方はないだろうか。そうした思いが、若いときからの興味と重なって「唯脳論」という本になった。その中で社会は脳が作ることを論じた。でも文科系の人は、そんなことを考えることはないであろう。やっぱり文字から入って、文字にしてしまうのである。今風に言うなら、文字に限らない。情報である。全ては情報という社会になった。そういう社会でおそらくいちばん忘れられそうなこと、それはモノである。モノとカタカナで書くのは、わたしの場合には、ある対象があって、それが五感のすべてで捉えられる、という定義になる。こういう作業は、一人では不可能である。モノには専門家がいて、その人たちに訊くのが最良に決まっている。
■養老■15年前にブータンに行ったとき、ブータンの人は赤米を食べていました。最近になって行ってみるとそれが白いお米になっている。変えたのかと思ったらそれが違うのです。アメリカで赤米は健康にいいというキャンペーンが広まって、赤米が全部アメリカへ出ているのです。それで、ブータンの人はタイ米を輸入して食べている。僕は日本でもそれができると思います。現に、中国人の金持ちは日本の米を買っている。付加価値をつけて売り出すべきで、日本では徹底的な有機をやればいいのです。竹村さんがおっしゃった冬期湛水は化学肥料を使わないためにも非常に大事なのです。■竹村■そうなんです。でも肥料が売れなくなるのを農協が嫌っています。冬水田んぼをやっている人たちに圧力がかかているという話も聞きました。■養老■農協が別の形で儲かるようにすればいいのです。そういう田んぼで作ったものが高く売れるということになれば、農協も考えるでしょう。「日本の将来は農業にある」ということを本質的に納得しないといけないはずなのに、下手な官僚制度にしたからダメなのです。農協職員には、農家の子供が多いでしょう。農家の身内ですから、本当に農業を生かす政策を採れば農協も協力するはずです。タコが自分の足を食うようなことをしていても話にならない。■竹村■政治的なリーダーシップを持ったトップクラスの人間が新しい農業を見出すための提案をしないとダメです。補助金のばらまきなどというのは愚策です。■養老■金の問題にしたらダメです。金は、仕事がうまくいってからついてくるものです。
■神門■日本を含めて非欧米社会の経済発展というのは、一言で言うと「欧米の猿真似」です。欧米にモデルがあってそれを導入してくるわけですね。生産技術がそうでし、司法システム、選挙、娯楽、スポーツ、芸術、なんでもそうです。ちょっと乱暴な単純化ですけれど、基本的には猿真似と言っていいでしょう。猿真似するときに人間は真似しやすいものに先に手をつけ、真似しにくいものは後回しにします。そうすると歪みが生じる。生産技術でいうと、明治期は真似のしやすい軽工業の段階だったからなんとかなったけれど、第一次対戦以降に軽工業段階から重工業段階に移行するとなかなか上手くいかない。その歪みが増幅する中で軍国主義が暴走を始め、第二次世界大戦に突っ込んだと思っています。同じことが民主主義についても言えます。民主主義も我々にとっては「借り物」、つまりイミテーションです。民主主義の構成要素は2つあって、1つはプライベートライト、私権の主張です。もう一つは参加民主主義、つまり市民同士の利害が対立する身近な公益性の高い問題については、行政任せにせずに市民が積極的に行政に加わる権利と義務を負うというものです。戦前の日本は完全にトップダウンでした。戦後民主主義で何をやったかというと、前者の私権主張だけを先行させた。もちろん、最初のうちは私権の主張も命懸けだったと思います。各種の公害訴訟がその例です。しかし、参加民主主義に比べれば、私権の主張は、まだ、真似がしやすいのです。本当の民主主義は、私権の主張と参加民主主義がセットになってないといけません。
■養老■
先端医療という言葉がありますが、今の人たちは、絶えず抽象的な概念を積んでいける世界に進歩があると考えています。そんなものは進歩でもなんでもありません。むしろ危なくてしょうがない。
(中略)僕が大学にいた頃、ある学生が「この死体は間違っています」と言いました。教科書通りになっていないからです。彼らは、そのうち「この患者は間違っています」と言い出します。こうなるはずがない、と。ですから僕はある年配の人に「今の若い医者は教科書通りの怪我でないと手が出ません。怪我をするなら教科書通りの怪我にしてください」と言ったことがあります。(笑)
■竹村■
それができるくらいなら、怪我なんかしません。(笑)
■養老■
本当に教科書以外の怪我はお手上げになってしまうのです。これも「下」から上がっていかないからです。「下」から上がっていれば「これはあのケースを抽象化して言っているんだな」ということが理解できるはずです。そこが逆になっている。僕は、西洋人は日本人より頭が固いと思ってきました。違いは何なのだろうと考えたけれど、ヨーロッパの自然は単調なのです。それに比べて、アジア全体がそうですが、日本の自然ははるかに猥雑です。
しかし、今の若い人たちを見ると、西洋人のような気がする。頭が固いわけです。要するに抽象的で現実を単調に見ているだけ。
概念で世界を作り上げるのは楽なんですよ。博識学のように五感を働かせるやり方は、時間もかかるし手間もかかる。でもそうすることで、今まで見えなかったこと、あるいは見なかったことが見えてくるようになります。
文明は下部構造と上部構造で構成される。下部構造は4本の柱で構成されていて、安全、食料、エネルギー、そして交流である。この下部構造の上に、政治、経済、法律、学問、宗教、医学、思想、芸術、スポーツなど、すべての人間活動、いわゆる上部構造がある。人類はその土地の地形と気象に応じた下部構造を構築し、その下部構造に応じた上部構造を花咲かせていった。下部構造の上にある上部構造は、下部構造の規模を超えられないし、下部構造の柱が崩壊すれば、上部構造も崩壊していくこととなる。下部構造は英語で、インフラ・ストラクチャー(infra structure)である。(中略)インフラは人に見えないという意味があった。インフラ・ストラクチャーとは「人には見えない構造物」であった。文明を支えている下部構造は、意識しないと見えない宿命を持っていたのだ。(中略)養老さんと私が共通して立脚しているのはモノであり、モノから考えていくことであった。二人に相違しているのは、その表現方法であった。私は表現としての言葉を真正面から考えてなく、言葉の訓練もしていなかった。そのため常に図形と絵を原点にして、思考を組み立ていった。一方の養老さんは、言葉の意味とその価値を認識し、真正面から言葉と取り組んでいた。「百人いれば百人が異なった視線でものを見ている。言葉はそれを一般化する」。人はその一般化した言葉で、共有の概念を築いていくという。結果、この対談は私がデータや図や絵を出し、養老さんがそれを言葉で表現していく。そのような一風変わった対談になった。