風のかなたへ (対談集)



  • 作者: 伊藤 玄二郎

  • 出版社/メーカー: かまくら春秋社

  • 発売日: 2009/07/14

  • メディア: 単行本





著者は編集者・エッセイスト。かまくら春秋社代表取締役。


初めて拝読。面白かったし、対談の人脈も凄い顔ぶれ。4人をピックアップ。



老いの微笑:中村光夫(評論家)1985年


 


伊藤■


最近の鎌倉ではのんびり散歩を楽しむ状態ではありませんね。


中村■


言うまでもなく車のせいですね。


伊藤■


ええ。歩いている時間より、車をよけるために蜘蛛のように塀などに張り付いている時間の方が長いくらいです。(笑)


中村■


町の変化は感じられますか・


伊藤■


貸駐車場がやたらに目につきます。古い家を壊しているので、今度はどんな建物が建つのか楽しみにしていると、いつの間にか駐車場になっています。それが駅の周辺だけでなくお寺の敷地にまで侵略されているのには驚かされます。こうした方が手っ取り早い収入になるのでしょうね。


中村■


貸店舗も増えたのではないですか。人を雇って客の入りを気にしたり、税金の心配をするよりは店を貸して家賃をとったほうが気楽なのでしょう。


伊藤■


駐車場と同じ伝だと思います。おしゃる通り、各種のバーゲンに軒先を貸している姿が目につきます。またそういう傾向も否定できません。


中村■


僕のように古い人間には、商人も職人と同じように長い修行期間があって、丁稚からたたき上げて番頭に、そうやって一人前になるというイメージが強くあります。商人根性というのはこういう過程を経て培われるもので、商売の真実もそういう苦労の結果、わかるものではないでしょうか。


伊藤■


昨日までサラリーマンだった人が、今日はブティックの経営者だったり、店の厨房でスパゲッティを作っていたりしているのは珍しくありませんからね。


中村■


素人が安直に店舗さえあれば商売ができると思うのは本末転倒ではないでしょうか。


伊藤■


食べ物から建築までインスタント全盛の時代ですからね。商いも例外ではないのでしょう。


素人が簡単にできるー職業の中でプロとアマの差が現代社会の中では希薄であると言う話は、もちろん全ての職業がそうではないでしょうが、文学の世界にも当てはまりませんか。


中村■


そうですね。玄人は専門家、素人は門外漢とすれば、玄人が素人より技術的に勝れている当たり前のことですが、その正論が現代の文学に当てはまっているっていえるかどうか、でしょうね。もっとも僕だって長いこと文壇で暮らしているから、文学の専門家と世間からは見られていますが、専門技術を身につけているのかと言われたら自信ありませんね。(笑)


伊藤■


その場限りで、うければそれで良しとして依頼するジャーナリズムにも問題があるでしょうね。


また「老い」との関係の話になりますが、四季の移り変わりや自然に対しての観察が年齢とともに変わってくる、と言うように書かれています。文学作品についてもそれが言えるようですね。


中村■


変わると言うよりも、観察し得なかったものが、分かるようになってきたと言うことでしょう。


伊藤■


藤村の小説を読んで若い頃は飽き足らなかった。それは恋愛しても自分の事しか考えない。相手の献身は当然として受け入れるだけの藤村の女性に対する冷たさがその原因と書かれていることもー。


中村■


今から思えば、藤村を非難するほどのことではないんですよね。つまり恋愛というのは確かにそういう側面があるんですから。


伊藤■


それは長い人生経験を積まれないと発見することができないということですか。


中村■


あまり面白くない発見ですよ(笑)



世の中知らない方が良かったことが沢山、


歳をとるにつれ感じるけれど、それはもう仕方ない。


知ることで味わい深く感じられることを


喜んだ方がいいですね。


最近、草木や花を見ると何かに感謝したくなる。


余談、かの大瀧詠一さんも、知ることは


不幸じゃないけれど、つまらないと


感じることもある、とラジオで


仰っておられた。



老いと人間:佐江衆一(作家)1995年


 


伊藤■


作中にも母親のオムツを換える場面がありましたが、佐江さんは実際に実行してきたのですから大したものです。ボクはまだ一度もそういう経験がありません。ボクならできないんじゃないかと思います。


佐江■


いまは親父のオムツを替えていますよ。だいぶ慣れたとはいえ、できることなら僕だって換えたりはしたくない。同じ男として自分の姿をそこに見てしまうこともあって、蹴飛ばしてやりたいくらいイヤですね。


伊藤■


本当に覚悟のいることです。


佐江■


だから生意気を言わせてもいただくと、老いや福祉、生死の問題について偉そうな発言をする人がいると、あんたは半ば痴呆症になった母親や父親のオムツを換えてやったことはあるか、本当に人間のことを知っているのかって、言ってやりたくなります。


伊藤■


作中では「蕗子」にあんたオムツ変えなさいよ、と言われてオムツくらい、変えてやろうじゃないかということになるわけっですが。


佐江■


売り言葉に買い言葉でそう言ってしまうわけですが、初めておふくろのオムツをきれいにしてやったときは、正直、とても続けられるものじゃないなと絶望的になりました。


オムツの換えに限らず、女性の場合は、毎日の「日常」の仕事の一つとしてこなしてしまうことが可能だが、男性にはまず「頭」で理解しようとする、といった男女の相違点を浮き彫りにする狙いからその場面は小説風に作ってあります。でも事実に近いですね。


伊藤■


「日常性」で物事を考えない点は、男性にとっては弱みかもしれません。


佐江■


日常生活に生きる女性のたくましさに、これは降参だなと思って小説に挿入した場面があります。女房があるとき、88歳になる半ば痴呆症の実母に、こう問われたのです。「わたし、どうしたらいいの?」と。


男はこういう重い問いかけには何と答えたらいいのやら、とっさには見当もつかず戸惑うばかりです。


でも女房はこう答えたというのです。「何も考えなくていいの。ここで横になっていればいいの。わたしもそばにいるでしょ。」こう具体的に、すぐに語りかけたというのです。


それに応じるように、母は安心して眠ったと言います。僕はこういう女房の、女性の思考回路というものは、実に凄いものだと感心しました。


母の問いは(どのように生きて、死を迎えたら良いのか)という哲学の命題ですからね。哲学者や高僧ならどう答えるだろうかなどと考えながら、いずれにしろ、俺にはそんな対応はできないな、とあらためて女性の強さと優しさに驚きました。



今、ジェンダーレスとか多様性とかの時代で、


佐江さんの会話は時代を感じさせられますけれど、


根本的には男女の違いというのはご指摘の


通りだろうなと思います。


余談、大昔は姥捨文化というのも、あった。


それも日本だけではなく、世界中に。


シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「老い」の中に


記されてた。



ヒトの世界:養老孟司(解剖学者)1995年


 


伊藤■


以前、対談したときに「人間は決して複製できるものではないという事実を認識する必要がある」とうかがった記憶があります。


養老■


人間は、それぞれが概算で5万の遺伝子の違った組み合わせによって存在しているのです。個人とは、そのようにして成り立っていますから、それをどのように評価すべきなのか、だいたい”基準”といったものはないのです。つまり、将来的にも同じ人間が誕生する可能性は皆無なのですから、評価のしようがありません。


伊藤■


つまりそれが、ひとり一人、かけがえのない存在ということですね。


養老■


自然界という視点から見れば、そういうことです。しかし、我々の活動する人工的な社会においては、そうとはいえません。例えば、この春、僕は東大教授を定年前に辞めましたが、僕のポストは僕自身のために設けられたものではありませんでした。つまり、代わりになる人材はいくらでもいたということです。


(中略)


伊藤■


「ものの尺度」とか「能力」の問題は、教育や福祉の分野に限ってのことではないと思います。小さいながら事務所を経営する自分にとっては、例えばスタッフの能力をどう生かしていくかという問題にもつながります。


養老■


日本は”名刺社会”で、サラリーマンや公務員には、必ず肩書きがついてますが、善悪はともかくとして、仕事に人間を当てはめていては、人の能力を測るのは難しいように思います。


伊藤■


逆に、その人間の能力に見合った仕事を与えているのだという見方はできないでしょうか。


養老■


会社や官庁には、まず組織全体としての前提、目的があります。ですから、こういう人間がいるからこういう仕事をしようとは考えません。こんな仕事があるから、あいつに担当させようといった具合になります。


人間を基本に据えれば、会社や官庁のそのようなあり方が、人間にとってハッピーなはずはないのです。


官庁はことにそうです。陳情に行っても「それはだめです。なぜなら規則がそうなっていますから」「規則は我々のためにあるのではないか」


そんな押し問答の繰り返しで、要求はまず通りません。その世界で何十年も暮らしていれば、何のための、誰のための規則なのか、本末転倒していることに気づかなくなるのです。


伊藤■


お言葉を返すようですが、こういう人間がいるから、こういう仕事をしようといったシステムをとれば、収拾のつかない事態を招くことになりませんかね。


養老■


今の伊藤さんの発言は、実によく日本人の特徴を表しています。(笑)


つまり、「近代社会においては人間の意識こそがすべての現実にある」という思い込みですね。


もう少し簡単にいえば、意識の外にあることは存在しないものと考え、その社会固有の”塀”の中で、秩序に則り、まずは平穏に暮らしていきましょうという考え方です。


もっと簡略して表現すれば、ああすれば、こうなるのだと予測可能な範囲内での生き方ですよね。


伊藤■


小さな時から塾通いをして、有名な高校や大学、一流と呼ばれる企業への入社を目指し、計算しようと思えば、生涯賃金や老後の年金額まで弾くことのできる現代日本は、いまのご指摘の通りかもしれません。


養老■


収拾のつかない事態というものが、仮に訪れたとしても心配することはありませんよ。


人間に必要なものなんてだいたい決まっていますから、放っておいても、自然に秩序が生まれ、社会が形成されていくものなんです。


1日に、人の10倍も飯を食う奴はいませんし、一晩に100人の女性を口説ける男もいないのですから。(笑)



インターネット前夜の養老さんの考え


というのは貴重なのではないだろうか。


基本的にはあんまり変わってないんだけど、


この対談の頃はまだ、お若いからかスイートな


感じがあるんですが、昨今のはもうシニシズムというか


ペシミズムというか、ニヒリズムの極地まで


いかれてる気がします。


それはいったん置いといて


「バカの壁(2003年)」出版前というだけでも


面白いような。


それにしても昔から品位を感じるな、言葉遣いに。


余談、「バカの壁」を間違えて2冊、


買ってしまった自分は本当の「バカ」で


「壁」を越えるどころじゃないだろう。



音の奏でる詩:田村隆一(詩人)1997年


 


伊藤■


田村さんは「ドタキャン」とか「チョベリバ」って言葉をご存知ですか。


田村■


いえ、知りません。


伊藤■


若い人たちの間で流行っている言葉です。実は娘に教えてもらったのですが、「ドタキャン」は「土壇場でキャンセル」、「チョベリバ」は「超ベリーバッド」の意だそうです。


田村■


面白い。アフリカにいるみたい。


伊藤■


詩人としてこのような言葉をどう思われますか。


田村■


我々の言葉は今、すっかりテレビ語なのです。活字ではなく、映像から言葉が生まれる時代になった。映像は生々しい。活字はかないません。僕はもう時代遅れの産物。半分も理解できない。


伊藤■


時代によって言葉は変わっていく。とりわけ現代の日本語は外来語なくしては成り立たない状態です。これは日本人として喜ぶべき現象なのか、それとも悲しむべきことなのでしょうか。はたまた、国際化の時代においてはさして意味を持たないのでしょうか。


田村■


朝刊一紙に使われている外国語は約八千語といわれています。


けれど、これを国際化といっていいかどうか。科学は前進あるのみ。昨日まで単価200円だった半導体が今日は一銭にもならないという、凄まじい世界です。不可逆性そのもの、それが科学の宿命です。


真の意味での国際化となると、僕たちは”ナショナル”を大事にしなくちゃならない。”ナショナル”なき国際化はありえない。国際化にはコミュニケーションのための言葉が欠かせません。


しかし、言葉とは本来的に誤解を前提にしています。そうでなくては成り立たない。どのような内容を、どう正確に伝えるか。上手な”誤解の仕方”を徐々に学んでいく。ーそのような意味において賢くなることが、人間の成長ということなのです。


(中略)


伊藤■


現代の若者も「ドタキャン」など新しい言葉には敏感な一方、日本語を正しく使うという面では衰えているような気がします。


田村■

言葉の力が衰えたのは若者だけでなく、日本人全体の問題です。これには僕は持論がある。戦後、「当用漢字」が定められたのを機に、これ幸いと新聞がルビを無くしてしまった。


ルビっていうのは作る方も手間がかかりますからね。ルビがあったから、僕らは子供の頃、新聞を読みながら漢字の勉強ができた。小学生でも中里介山くらい読めたんですから。


戦後の漢字制限ほどおかしな文教政策はありません。中国みたいな多民族国家なら話はわかる。公用語はできるだけ単純化しないと政治的にも難しい問題が生じます。でも日本では必要なかったんじゃないかな。


(中略)


田村■


学歴や経済効率ばかりでははかれない人間の登場する社会こそ文明社会といえるのであって、幼稚園に入るための予備校があるような社会は、僕にいわせれば「末世」です。詩の生まれる余地はどこにあるのか。


伊藤■


いい大学、一流の会社に入るためのレールから外れないことが、まだまだ日本では大きな価値を占めていますね。


田村■


語弊を恐れずにいえば、詩歌も、俳諧も、しょせんは暇つぶしの産物なのです。


今の日本はこの暇つぶしが足りない。暇つぶしの存在しない国に文化なし。みんな同じような利口そうな顔になってしまった。ぼんやりとして、あいつ馬鹿だねえといわれるような奴はいない。今の社会の仕組みはポカンとする余裕を与えないのです。その結果、詩を失ってしまった。


伊藤■


ほんの少し休暇をとっただけで、罪悪感を抱いてしまうような社会です。


田村■


ポカンとした時間をどう作っていくか、工夫しなくてはなりません。


伊藤■


白石かずこさんは著書「黒い羊の物語」の中で、田村さんを「わたしの中でいかなることがあっても絶対に徹頭徹尾偉大な詩人」と評している。グレイトな詩人の発言だけに「ポカン」という言葉にも何か、重みを感じなくてはいけませんかね(笑)


田村■


エンプティという意味ではありませんので、念のため。人の悪口にエネルギーを使う暇があるなら、ポカンとするほうに時間を割いた方がいい。



田村さんの随筆も読んでみたいと強く思った対談。


この当時、言葉は「テレビ」からなのだろうけど、


今ならさしずめ「Web」から、なんだろな。


「当用漢字」って亡くなった母親がよく口にしていた。


ちなみに自分はずっと「東洋漢字」だと勘違いしていた。


ルビの件は、同じようなことを美輪明宏さんも書いてたな。


余談、自分は結婚当初、東横線近郊に住んでたんだけど、


近くに銭湯があってそこに田村さんの詩が


貼ってあった。


「子供たちに世間・礼節を教えるのは銭湯だ、銭湯の火を消すな」


みたいなのだった。


なるほどな、思ってから軽く20年経っちまった。


光陰矢の如し。