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[その2] 対談集 風のかなたへ:伊藤源二郎著(2009年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

家族への思いを描く:大津英敏(洋画家)1999年

 

伊藤■

ボクは彫刻家の高田博厚さんと親しくさせていただいていたのですが、高田さんも若い頃にはかなり貧困に苦しみました。

貧窮生活から逃れようとして渡った先のパリでも、水だけで命を長らえたことがあったそうです。

「芸術するものが貧乏でなくちゃいかんとは思わない。要は、貧乏に耐えられるだけの根性があるかどうかだ」とも言ってました。

貧困の中から傑作を生み出す芸術家が多くいることも事実ですし、また、反社会的、反道徳的な観念から芸術を生む作家もいます。大津さんの場合はそれらのイメージとは相反するかたちで現在に至った作家、という印象です。

大津■

自分がどういうタイプの画家であるのかをきちんと自覚するのが、創作する上でもっとも大切なことだと僕はずっと思ってきました。

「自分らしくある」ということですね。そうして目指したところの作品が、家族を描いたものになったわけです。書き始めた時、これを何年続けようと意識していたわけではありません。

自分らしさを追求していたらこうなった、というべきかもしれません。

伊藤■

作家も、一家を構えれば家族の長です。そのことを考えるとき思い出すのが、永井龍男さんの言葉です。

永井さんは「文学志望という名を借りて女房子供を飢えさせるのは男子として一番の屈辱」という人でした。

文筆の才能がないと分かった時には、中華そばの屋台を引いても妻子を養う覚悟だったと。

もし仮にそういった境遇になっていたら大津さんはどうされたか、非常に興味があります。

大津■

どんなケースでもおそらく絵を捨てることはなかったと思います。

でも、僕の性格からして、女房を質に入れてまで・・・ということはできない。そういう意味では僕は永井龍男先生タイプといえるでしょう。それなりに生活の糧を見つけて、絵を続けていったと思いますね。


ここでは取り上げなかったけれど


太田治子さんとの対談もあって


「太宰は最後は言行一致だった。


あれで70−80歳まで生き延びたら


太宰文学に殉じたことにならない」


っていうのもあったけれど。


今はもうそういう時代ではないよな。


日常生活をキープし続ける


凄さってあると思うから。


余談、ポール・ウェラーが


The Jamをやってたころ


「ジャンキーがかっこいい、なんておかしな話だ」


とか、モッズ文化やピート・タウンゼントの事を


「過去から未来がやってくる」


とコメントしてた記憶がある。


北条氏とその時代 言葉の皮を剥ぎながら:永井路子(作家)2008年

 

伊藤■

数年前に全集が刊行し終わったところで「もう小説は書かない、だけど岩倉具視だけは別」とおっしゃっておられました。

永井■

直木賞をいただいた後、「次作は何を?」と聞かれて、その頃から「岩倉具視」を書きたいと答えてましたから。

伊藤■

構成がとてもユニークですね。岩倉の生涯を順にたどっていくのではなく、いくつかの象徴的な出来事を取り上げて、その時岩倉はどう動いたかを描いておられる。

膨大な史料の上に立って慎重に、かつ小説家として、歴史の点と点をつないで、小説というより定説・学説を生み出す著者の姿があらためてはっきりと見えたと思いました。

永井■

歴史に登場する人物の評伝は、歴史学者が書けばもっと史料を調べて、かちっとした本格的なものに仕上げるでしょう。でも、私は小説家です。(中略)

「言葉」に的を絞ってみてはどうかと思い始めたのです。

既成の事実に対して、決まりきった表現が横行し、それでもう理解したように錯覚してしまう、そういう言葉が歴史を覆っているんですね。

最たる例が「尊王攘夷」という言葉でしょう。その覆いをめくって、実体を明らかにしていくことで、私なりの岩倉の生きた時代が描けるのでは、と思い至ったのです。

伊藤■

「言葉の皮を剥ぎながら」という副題の真意はそこにあるのだと思いますが、「言葉の皮を剥ぐ」というのは、とても厳しい表現ですね。

永井■

「言葉」とは危ういものです。

1863年に薩摩は英国軍艦と砲撃戦を繰り広げ、翌年の64年に長州藩も下関で外国戦艦に完膚なきまでに敗れている。薩長が外国との戦力の差を身をもって知った1864年に、実は「攘夷」は終わっているんですね。

「攘夷」なんて気持ちは消えているのに、言葉だけは生き残った。

そして、あろうことか昭和の初期、英米を敵とみなしたナショナリズムの高揚の時、「尊王攘夷」がまた都合よく使われてしまいます。現代においてもそうです。意を唱えにくい言葉、一見きれいな言葉ほど、背中合わせの危険をはらんでいるー。そういう視点を持つことは大切です。


作家魂という感じの方なのかな。


「今、書かねば!」っていう。


それにしても、言葉は、政情に都合


よく使われるってのは昔からなんですねえ。


そういえば「言葉」じゃなくて「曲(詞)」だけど、


ニール・ヤング、曲も旧大統領トランプの


BGMに使われて怒っていたしな。


余談、村上龍さんがWebチャンネルで、


旧日本軍が使っていた言葉、「退却」を「転進」として


メディア、や世間に流通していった、


って言ってた事を思い出した。


鎌倉文士万華鏡:石原慎太郎(当時東京都知事・作家)2005年

 

伊藤■

「太陽の季節」が芥川賞に選ばれるとき、佐藤春夫が、こんな作品を書くようでは、「慎太郎」ではなく「不慎太郎」だと発言したことを思い出します。

石原■

佐藤さんに対しては恨みも何も持っていません。彼の書いた小説や詩に好きなものもあります。

ただ、けしからん小説だ、「不慎太郎」だと非難した佐藤さん自身、いい年になってから中年女性に惑い、えげつない表現で相手の女性の肉体的なことを「日照雨(そばえ)」という小説にかいて、たまげたことがありました。

佐藤さんにはたくさんの弟子がいました。

その一人、柴田錬三郎さんに「あの小説は一体なんですか」と意見を求めたところ、「いやあれは弟子たちも困ってるんですよ」と困惑してました。

好き嫌いは別にして「太陽の季節」をムキになって貶してきた佐藤さんの存在は面白かった。

貶すといえば、小林秀雄さんも「相手を貶して磨くんだ」と話していましたね。

伊藤■

小林さんには、ボクもだいぶいじめられました。磨かれる方は大変です。(笑)

石原■

小林さんは水上勉さんの作品を「華がある」と言って、ずいぶんと買っていました。

ところがいつだったか、小林さんは水上さんを呼んで、みんなの前で。

うちの女房が君の小説をこんなふうに評していたよと言った言い方でいびり始めました。

周りには、永井さんや今日出海さん、横山隆一さんらがいたのですが、知らん顔していました。

私は、こんなやり方はないよなあと思いながらはじめは聞いていたんですが、そのうち白けてきて、「批評の神様にだって知らないこともあるだろうし、もう止めましょう」と小林さんに突っかかったことを覚えています。

伊藤■

そのような批評、対応の仕方は、好意的にとらえれば相手を「貶して磨く」ための手法だったのかもしれません。

小林さんは永井龍男さんに対しても、今の話と同じ手法で「最近のお前の小説はちっとも面白くない。俺は読んでないけれど、女房がそう言ってた」と相手を挑発するようなものの言い方をしていたことがありましたから。

石原■

それはずるいなあ。フェアじゃない。

伊藤■

相手には最もこたえるやり方ですね。こういった時にも里見弴という存在は大きかった。

永井さんは文化勲章を受けられた直後でした。里見先生のお宅で席に着いた途端に永井さんが「小林が、作品が面白くないというのは許せます。しかし、その後が癪に障るじゃありませんか。俺は読んでないけどっていうんです。これが小林の殺し文句です」

と盛んに愚痴っていました。里見先生は

「それはネー、君が今度の受賞で安心しては困るという小林君一流の激励だよ」となだめていましたが。

石原■

小林さんは本当に変な人でした。(笑)ただ、強烈な自我と個性がありました。


小林秀雄さんの晩年の講演会の


CDは何回も聴いておりまして、


ソフトなイメージがあるけど、


でも言っていることはパンクそのものだし、


態度として、誰とも俺はつるまねえぜ、


ってのが滲み出てるよな。


こういう人、現代にいたら


ありがたいんだけど。(誰にとってだよ?)


石原さんは本当にお疲れ様でした。


短編「完全なる遊戯」は膝を


ガクガクさせながら拝読いたしました。


これを文学って言っていいんすかね。


三島由紀夫さん絶賛してたけど。


朗読は魂を抱擁する:白石かずこ(詩人)2005年

 

白石■

わたしが朗読を始めたのは1960年代なかばです。

その少し前、50年代の中頃にアメリカで詩人のアレン・ギンズバーグたちがジャズ演奏と朗読のコラボレーションを始めていたんです。

ニューヨークでギンズバーグが最初に詩を朗読したときに、彼はものすごい衝撃を受けました。

なぜなら彼は、アメリカ白人社会の中に潜んでいる、貧困・黒人問題・麻薬・同性愛とかそういうところに目を向けて、そこで喘ぎながら生きている人たちがいるというすごいダイナミックな詩を書いたからです。

その時、彼の本質を見抜いて、自分の住むサンフランシスコに招いたのが、ケネス・レックスロスでした。

伊藤■

レックスロスは、白石さんが「アメリカ詩のゴッドファーザーみたいな」という詩人ですね。

白石■

彼はギンズバーグを読んで「昔の聖人というのは社会を良くするように導く人だった。彼はそのような詩人だ」と言って、非難を浴びているギンズバーグや彼の仲間たちがサンフランシスコで朗読できる場を提供したんですね。

レックスロス自身、ジャズが好きでベーシストのチャーリー・ミンガスと演奏と一緒に朗読したレコードもあるくらいなんです。

そうこうするうちに、やがて一つのムーブメントが生まれ、間もなくギンズバーグの本もでる、ビートの作家のジャック・ケルアックの「路上」なども出て、そういうものがいち早く日本でも翻訳されもしたんです。

伊藤■

その流れを日本で敏感にキャッチしたのが、白石さんだったわけですね。

日本で詩の朗読を始めたとき、周りの理解というか、風当たりはどうだったんでしょうか。ボクの周囲の詩人でも、どちらかといえば詩の朗読に反対が多かったですね。

白石■

猛攻撃を受けました。私を理解してくれていると思っている先輩ですら批判的でしたね。

「現代詩というものは黙読するもので、声に出すものではない」って言われましたから。

(中略)

伊藤■

ボクは今「聲明(しんみょう)」の世界にすごく惹かれているのですが、聲明には倍音(ばいおん)と言って音符にかけない音があるんです。

十数人の声が重なった中から女性のような高音の歌声が聞こえてきたり、楽譜にないような音が本当に天上から降ってくるようなことが稀にあります。

白石■

人間の存在を超えたもう一つの力が働いているという感じですね。

伊藤■

すぐれた芸術作品には、人ではなくて神の手、神が成せるわざ、人間の能力を超えたものがそいういう作品には内在するんだと。やはり芸術というのはそうなのかもしれないですね。

白石■

そうですね。だから頭で考えていることとは別の特別なものが、ある瞬間には働くんでしょうね。

私としても「なぜ」と聞かれると困ることがあるくらいなんですよ。


Wikiによると


「詩人ケネス・レックスロスは、


白石を「日本のアレン・ギンズバーグ」」と


呼んでいるらしい。


余談、90年半ば、イスラエルのラビン首相が


暗殺された時、とある大使館の広報誌の


エディトリアルデザインの仕事をしてたんだけど、


その雑誌の記事の中にあった詩集紹介で


白石さんの存在を知った。


90年半ばの中東情勢を伝える情報の中で、


アジア人の情報があるのは相当珍しかったんですよ。


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