脳科学の視点から、「必然、偶然の感動」を話している流れの中で吉本さんが圧倒的な論を展開する。 一部というか、長いけれど抜粋。

■茂木:科学主義としては偶然ということは確率として扱います。(中略)
 ところがわれわれの今の悩みというか、私の悩みは、
 今吉本さんが言われた「偶然」がもっている現場性というか
 いろいろな折り目を重ねていったうえで感動に至る経緯
 これはとても確率という概念では扱いきれないことです。
 そば屋に入っていって親子が一杯のかけそばを分け合って
 食べている確率はどれくらいで、その確率を超えた事象群に
 出会ったから感動したとか、そういう記述をしていっても
 どうも感動の本質には迫れない。(中略)

■吉本:ぼくは中世の宗教家の親鸞(しんらん)が好きで、
 随分と影響を受けていますけれど、親鸞はその辺りの問題を
 「往き」と「還り」という概念で考えています。

 親鸞の言葉をそのまま使えば
 「往相(おうそう)」と「還相(げんそう)」ということになります。

 往きがけに、偶然そこで一杯のかけそばを分け合って
 食べている親子を見かけて感動した、
 あるいは同情したというのは偶然性を契機にして作り上げられた理論であって
 いってみれば往きがけの理論だ。そういう親子に同情したり感動したとしても、
 それが万人に対する感動や倫理を象徴しているわけではないから
 あまり意味はないんだと、そんなふうに親鸞は思い切ったことを言っています。

 しかし、一杯のかけそばを親子で食べている光景を
 還りがけの目で見ることができるならば
 その光景を見ただけで万人の救済の方法を掴むことができると言います。
 親鸞は仏教者ですから、「救済」ということを考えているわけですが
 ひと組の親子の姿を見ることは多くの困っている親子が一杯のかけそばを
 分け合って食っているのを見るのと同じことであるのだから、
 ひと組の親子を見ただけで、こういう状態を救済するにはどうしたらいいか
 ということまで考えが及ぶ、というわけです。
 これを敷衍(ふえん)していえば、往きがけに飢えた人がいるのを見て
 その人を助けたか、助けないまま通り過ぎてしまったか、
 そんなことは大した問題ではないという。
 親鸞はそこまで言い切っていますよね。
 その親子を助けるか助けないかは、
 その時の気分次第でいかようにも振舞ってもいいし
 また振る舞える。それは善悪の問題とか倫理の問題、
 つまりは救済の問題ではないんだと言っています。
 救済というのはそういうことではなくて、
 ある地点まで行ってそこから還ってきた
 そういう目で見ることだといっています。

 そういう目で見られるならば、一つの光景を見ただけで、
 そういう人たち全体を見渡すことができるし、
 どうすれば救済が可能かという考え方も
 自ずから出てくるものだと言います。

 それが還りの目だと、親鸞はそいういう言い方をしています。
 徹底的にそう言っています。

 それは何故かといえば、偶然何かを見て動揺したり、
 同情したりしたって
 それで多くの人を助けおおせるものではないことは
 わかりきっているからです。
 偶然見かけた光景から引き出された考えというのは
 何かを意味づけることができない。
 まして倫理的に意味付けることはできないし、
 救済の問題に結びつけることはできない。
 親鸞はそういう考え方をしています。

 この辺りの「往きの目」(往相)と
 「還りの目」(還相)ということは、
 知識を例にとっていえば
 知識を追求していって世界思想の最高水準まで
 到達するのが「往相」です。
 しかし真の意味で知識を全体性として獲得するというのは、
 知識を獲得することが同時に、反=知識、不=知識を
 包括することでなくてはならない。
 親鸞はそれを「還相」と呼んでいるわけです。
 そういう考え方はとてもいいじゃないかと、僕は思います。

■茂木:(中略)ふつう向こうから何かがやってくるのは偶然と考えがちですが
 今おっしゃられたことは、それを必然であるかのごとく
 受け止めるということでしょうか?
 つまり、自分でコントロールして何かをやれば、全部自分が仕掛けたことですから
 偶然と見えてしまう。それが普通の感覚だと思いますが、
 親鸞ないし吉本さんがおっしゃっていることは、そうではなくて、
 向こうからくるものをあたかも必然であるかのように
 受け止める、ということですか?

■吉本:そういうことだと思います。

「一杯のかけそば」って時代を感じる。 若い頃、親鸞(吉川英治)を買って読んだけど全く思い出せない。 読んでないのかもしれない。 というか若さゆえ、また、今読んだとしても浅学非才ゆえ、 吉本さんのようにはキャッチできないのかもしれないけど 常に「親鸞」という人には興味ある、なぜかわからないが。 余談だけれど、山下達郎さんのラジオ、大瀧詠一さんご存命時 毎年正月に「新春放談」という対談をされていたけれど いつだったかの放送で、大瀧詠一さんが山下さんとの 出会いのことを 「『必然』というのは『偶然』の仮面を被ってやってくる」 と形容されておられたのを思い出した。