進化生物学への道―ドリトル先生から利己的遺伝子へ (グーテンベルクの森)



  • 作者: 長谷川 眞理子

  • 出版社/メーカー: 岩波書店

  • 発売日: 2006/01/26

  • メディア: 単行本




 


前回からの続編で


おまちどうさまでした、自分。


ドーキンス先生の理論との出会いでございます。


第5章 利己的遺伝子


「群淘汰の誤り」を教えてくれたプレマック先生


から抜粋



博士課程の2年の夏から、野生チンパンジーの調査でアフリカに行くことになった。


その年の春である。


チンパンジーの言語訓練の研究で有名なアメリカの心理学者、デビット・プレマック夫妻が来日された。




私たちは、野生のチンパンジーの行動と生態を研究しようと思っていたので、プレマック先生たちが取り組んでいたような、実験室での類人猿の認知能力についてはあまり知識がなかった。




チンパンジーの研究の先にある大きな目標であるはずの、人間の進化の理解ということも、ほんの漠然としたイメージしか描くことができずにいたのである。




先生は私たちに言ったのである。


この論文は、観察事実としてはたいへんにおもしろいが、理論的には完全に間違っている。


全面的に書き直さなくてはいけない、と。




プレマック先生は、私たちの論文のもとになっている考えは、「種の保存」という群淘汰の考えに基づいているが、その考えはもう今では誤りであることがわかったので、遺伝子淘汰に基づいて完全に書き換えねばならないとおっしゃった。




これは青天の霹靂であった。


今考えれば恥ずかしい限りなのだが、当時、東京大学理学部人類学教室では、欧米ではさんざん議論された挙げ句に捨てられた、「動物は種の保存のために行動する」という古い考えが、まったく疑いをさしはさまれることもなくまかり通っていたのだ。


これは、専門的には、「群淘汰の誤り」と呼ばれるものである。


この誤りは、あれから二十数年がたった現在でも、進化学者ではない一般の人々の間ではぬぐい去られてはいない。


それは、欧米社会でも似たり寄ったりであるようだ。


それにしても、進化を研究する専門の学科で、欧米の最先端の議論がまったく届いていないということを知ったときは、これはショックだった。




それから先生は、


「一番いいのは、この本を読むことだ」


と言って、ある本を紹介してくださった。


それが、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』だったのである。


さらに先生は、日本でこの本を今すぐ手に入れるのは難しいかもしれないからと、なんとご親切にもアメリカの秘書に電話し、原書を一冊すぐに東京大学に送るようにと頼んでくださったのだ。




本書を読んだときの感動は今でも忘れない。


それは、目からうろこが落ちるとはこういうことか、という経験だった。


「動物は種の保存のために行動する」「動物の持っている性質は、種の保存に有利なものである」という議論は、今でも一般には流布している。


生物学者でさえ、進化生物学が専門でない人々の中には、そう信じている人は多い。


しかし、これは誤りであり、種などという大きな集団全体の利益になるように進化が起こることはないのだ。


このことは、1960年代から徐々に明確にされてきたことで、その結果、動物の行動を研究する枠組みが大きく変わった。


そのような、言わばパラダイムの転換が起こったのが、1970年代前半だったのである。




私たちは、野生ニホンザルの子どもの母親が死んだとき、みなしごになった子どもが誰に世話され、どのような社会関係を持つのかを研究した。


その結果は、いろいろと興味深いことがわかったのだが、私たちはそれをみな、「ニホンザルの集団にとって有利な行動だから」というように論じていた。


しかし、これは群淘汰の誤りである。




集団にとって有利な行動はなかなか進化するものではない。


行動はまず第一に、それを行う個体にとって生存・繁殖上の利益があるかどうかの問題なのだ。




私たちは、そのように書き直して投稿した。


やがて編集会議から送られてきた返答は、「修正なしで受理」だった。


書いた論文がまったく修正なしで受理されたなんて、これまでの研究生活で後にも先にも、この論文だけである。


プレマック先生には、本当にお世話になった。



なんか難しいのだけど、”群淘汰の誤り”。


昨夜夜勤中にみていた、今西進化論との対立とも


関係しているのだろうかね。


今西先生も興味深いのだけれど、今の自分にとっては。


新旧の価値観の交代劇だったのか?


余談だけれど、論文は英語で書かないとならないし


レフリーがああだこうだとうるさくて


時間かかって面倒くさい、というのは養老先生の本で


読んだことがある。


なぜ「種の保存」論は誤りなのか


から抜粋



リチャード・ドーキンスによる『利己的な遺伝子』の初版の出版は1976年である。


先にも述べたように、生態学や行動学でも、以前は、種の利益や集団の利益になる性質が進化するという群淘汰の考えが採用されていた。


コンラート・ローレンツの著作はすべて、この群淘汰の考えで貫かれている。


たとえば、彼は、有名な『攻撃』という書物の中で、オオカミのような肉食獣が同種内で互いに殺し合いをしないのは、あのような有能な殺し屋どうしが本気で攻撃しあえば、すぐに種が滅びてしまうので、そういう行動は「種の保存」のために進化しないのであると論じている。




1962年には、ウィン=エドワースという学者が『社会行動と関連した動物の分散』という専門的な大著を著した。


この本は、動物が行うおよそありとあらゆる社会行動を、種の保存のために自らの増えすぎを防ぐ、個体群調整行動であると論じていた。


たとえば、カラスなどの鳥が群れて上空を飛び回っていることがある。


あのような行動は、自分たちの個体数がどれくらいであるのか、資源は足りなくないかを査定し、繁殖を控えるかどうかを決めている行動だというのである。




生態学でも、個体群の調節機構について、つねに種の保存の観点から考えられていた。


生物の個体数は、たいていは安定しているが、増えすぎるとさまざまな新奇な行動が出てくる。


たとえば、飼育下で増えすぎて個体密度が高くなったネズミは、互いに殺し合ったり、雌の妊娠率が下がったりする。


これは、究極的に個体数を抑える働きをし、それによって「種が保存されるのだ」と説明されてきた。




ところで、このような群淘汰の考えは、ダーウィンが自然淘汰による進化の理論を提出した1859年当時からつねに主流であった。


なぜか人間は、洋の東西を問わず、「種の保存」という概念が好きなようである。


しかし、ダーウィン自身は、そう考えていたわけではない。


彼は自然淘汰の理論は、


(1)種内には、さまざまな個体差が存在する


(2)それらの個体差の中には、親から子へと遺伝するものがある


(3)それらの遺伝する個体差の中には、生存と繁殖に関して、有利なものとそうでないものとがある


(4)生まれてきた子どもたちの全員が成熟するわけではない


という四つの前提をもとに、生存と繁殖に有利な個体変異が、世代を経るにつれて集団中に広まっていく、というものだ。


つまり、ここで言う有利か不利かは、ある個体変異が他の個体変異に対して有利か不利かの問題なのであり、集団全体または種にとって有利かどうかは、全然関係がないのである。




ダーウィンは、そのことをよく理解していた。


それでも、ダーウィン自身、しばしば曖昧な言葉を使っている。


「種にとって利益となる性質が」という言い回しが何度も出てくるのだ。




結局のところ、自然淘汰が起こって、個体にとって有利な性質が集団中に広まると、集団の誰もが適応的になっていく。


すると、結果的には種全体にとって有利な性質が進化したように見えることになる。


そこで、「種にとって利益となる性質が進化する」という言い方がされる。


しかし、それは自然淘汰が起こった結果なのであって、自然淘汰のプロセスそのものは、個体が生存・繁殖上どのような利益を得るかが鍵となって起こっているのである。




行動を研究しているのではない生物学者の多くが、今でも「種の保存」の考えを持っている理由の一つは、鳥の翼の形が流体力学的に非常にうまくできていることや、血液凝固の仕組みが素晴らしい適応であることなどの性質が、どの個体にとっても利益となるものであり、集団または種の全員がそれを持っていることが多い、ということによるのだろう。


つまり、このような性質を見る限り、個体にとって有利な性質と集団全体にとって有利な性質は一致しているのだ。




ところが、行動の話となるとそうはいかない。


集団全体にとって有利になるような行動は、必ずしも、個体自身にとっては有利にならないこともある。


その逆もある


ある個体にとって有利な行動は、他個体にとっては不利になることもある




社会行動は、個体間の葛藤と対立に満ちあふれているのだ。


そこで、行動の進化を考えるときにも自動的に群淘汰の考えを使うと、大きな誤りを犯すことになる。


集団全体の利益で解釈してしまうと、個々の個体の置かれている状況の違いや、微妙な対立と葛藤の調整などがすべて見えなくなってしまうのだ。




繁殖期の雌の獲得をめぐる雄どうしの闘争を考えてみよう。


闘争の結果、強くて勝ち残った雄が、雌への接近を果たす。


負けた雄は配偶ができない。


これを、「種の保存」論で説明すると、強くて闘争に勝つ雄だけが子孫を残すのは、「種全体にとって有利」な行動だから進化したということになる。


そう考えると、負けた雄は、 「種全体の利益のために」黙って身を引くはずだということになる。




しかし、個々の雄を考えてみよう。


誰だって負けたくないし、誰だって繁殖したいのだ。


そこで、正直な闘争に負けた雄の中には、勝った雌が持っているなわばりのうしろの方に、目立たないように隠れているものがいる。


そして、闘争に勝った雄のところへ雌がやってきて配偶しようとした瞬間、うしろからさっと現れて、卵に精子をかけてしまうのだ。


これを、スニーカーと呼ぶ。


実際、魚でもカエルでも、スニーカーの存在は確認されている。




種の保存で考えていたころには、こんなスニーカーの存在など、誰も考えつきもしなかった。


これらは、単に異常としてかたづけられていた。


しかし、一旦、群淘汰ではなく、個体にとって有利な行動が進化するという観点から考えれば、スニーカーを初めとするさまざまな戦略が進化するだろうと予測されるようになる。


これは、ローレンツなどによる昔の動物行動学からすれば、180度の転換であった。




ドーキンスの『利己的な遺伝子』は、生命の起源から始まっている。


この第1章は、初めて読んだ当時は少し退屈な気もした。


しかし、ここは、生命の本質は自己複製であり、自己複製がうまくできたものだけがあとに残り、連綿と続いてきたのだということを示す、重要な導入部分である。




私たち人間も含めて現在の生物はみんな、連綿と自己複製によって続いてきた個体の子孫である。


自己複製できなかったものは、みんな消えてしまって存在しないのだ。


その自己複製の単位は遺伝子であるので、ある遺伝子が複製できるのかどうか、ある遺伝子が、その対立遺伝子よりも多く複製を残すのかどうかが、進化の基本なのである。


集団の繁栄は、単にその結果にすぎない。



雄の雌の獲得競争、ここから派生しての


90年代ごろのトンデモ本への展開となり


進化を真面目に研究している人にとっては


迷惑だし不快であることを綴られておられる。


ドーキンスの本についていまだに目的を


果たせてないとも指摘もあり。


しかし、なんか難解なゾーンに突入してきた。


何度も反芻しておかないと。


自分としては『利己的な遺伝子』へのステップとして


ヒントが詰まっているという視座だと解釈しやすい。


いよいよ『利己的な遺伝子』を読みたくなってきた。


ちなみにドーキンス氏が持論については、


日高先生との会話でネッカーキューブのようなものだ


という懐の深さを示されたということだけれど


長谷川先生のこの章の見解も併せての印象だけど


どんどん哲学的なところに入っていく気がする。


哲学を追求も良いのだけど、夜勤明けの夜は


どうしても一食抜いた分、空腹感が強くて


夕飯の支度を主体的に行いたいと存じますが


最後にこちらがないと締めれないことに気がつき


これこそ、人生をも左右する幸福な読書体験だ


と思った。


子殺しの進化に関する問題 から抜粋



ドーキンスの『利己的な遺伝子』は、群淘汰から遺伝子淘汰へと考えの枠組みを転換させてくれた、画期的な書物であった。


しかし、本書の中には、問題だと思う点も、何かひっかかる点もたくさんあった


それらと向き合い、格闘することが、その後の私の研究の道筋を開いてくれた


そして、最終的には、現在取り組んでいる、人間性の進化的基盤の解明へとつながっていったのである。