内臓とこころ (河出文庫)



  • 作者: 三木 成夫

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社

  • 発売日: 2013/03/05

  • メディア: 文庫





話されていた書を読んでみた。

単行本増補版解説 広がる三木成夫の世界


後藤仁敏 から抜粋



「胎内に見る四億年前の世界」は、ヒトの発生初期の胎児の顔面形態の変化に、脊椎動物5億年の進化の歴史の再現を見た、その感動の体験を述べたものである。


受胎32日から38日までのわずか一週間に子宮の中で起こるその劇的な変化を描いた三木氏のみごとな胎児顔面の写生は、「個体発生は宗族発生の象徴劇である」とする氏の思想を圧倒的な説得力で理解させている。


それは、本書の「質問に答えて」のなかで、氏が予告した「胎児の世界」のエッセンスである。




また、「忘れられた25時ーーバイオリズムと眠りのメカニズム」は、本書の「胃袋感覚」と「夜型の問題ーーかくされた潮汐(ちょうせき)リズム」で萌芽的にふれている人間のバイオリズムと健康の問題を、さらに深く論じたものである(一部に同じ図が重複して掲載されているが、読者の便宜のために再録した)。




私たちのからだには、24時間の「昼夜リズム」だけでなく、25時間の「潮汐リズム」がその深層に存在しており、それがさまざまなからだの不調の原因となっている。


前の文で述べた子宮の中での上陸劇こそ、私たちが「潮汐リズム」との深いきずなを持っていることを物語るものであり、出生後の乳児の哺乳のリズムの変化のなかに「潮汐リズム」から「昼夜リズム」への移行が起こるのである。


私たち人間にみられる「夜行性」や「冬眠」体質は、海に起源した生命40億年に及ぶ長い進化の歴史に根ざしたものなのだ。


そして、このように根の深い不調への対策として、からだのリズムを充分に理解したうえでの”愛の鞭”をタクトとしてふることが大切である、と結論している。




私は、この二つの文のなかに、三木氏の人間存在への根源的追求と、からだの不調に悩む子どもたちや若い学生たちへの深い愛情を感じる。



動物が体内時計として25時ってのは


なんとなく知っていたのだけど


人間もそうなのか。


人間も動物であるということで


近代化した脳化社会で比較的都会に


暮らすとそういうことを忘れてしまうもので。


といった流れで養老先生の解説でございます。


文庫版解説 情が理を食い破った人


養老孟司 から抜粋



久しぶりに三木先生の話を読んで、先生の語り口を想いだした。


三木先生の語り口は独特で、それだけで聴衆を魅了する。


東京大学の医学部である年に三木先生に特別講義を依頼したことがある。


シーラカンスの解剖に絡んだ話をされたが、講義の終わりに学生から拍手が起こった。


後にも先にも、東大医学部の学生を相手にしてそういう経験をしたことは他にない。




三木先生の話は、そういうふうに人を感動させるものだった。


ご本人の表現によれば「はらわた」の感覚で話をされたからであろう。


聴衆はまさに「心の底から」動かされるのである。


それに対して通常の講義は「体癖系の脳」から出るから、「はらわた」に沁みないことが多い。


つまり「理に落ちて」しまう。


この本が文庫の形で手軽に読めるようになったことで、先生の話が「はらわた」に沁みる読者が増えることを望まないではいられない。




本書は保育園での講演が中心となっている。


三木先生自身の子育ての記録ともつながっており、こうしたスケールの大きな子育て論は類を見ないと思う。




父親が子育てに関与するのが当然になってきた世の中だが、三木先生が子どもを見ていたような目で、子どもを見ているだろうか。


なにげない子どもの動作を、ここまで理解してみている親を私はなかなか想像できない。


自分のことを考えてもそうである。


そうした子どもの発育段階を、むしろ当然のこととして、そのまま見過ごす。


それが普通ではないか。


そんな気がする。


それは男親が子育てに具体的に関与するとかしないとかいう問題ではない。


子どもの成長に男親がどこまで本気で関心を持っているか、なのである。




私もときどき子育て論に参加させられることがある。


そういうときには、もっぱら三木先生に頼る。


われわれの祖先が背骨を持って陸に上がってから5億年、子育てをあれこれ考えるホモ・サピエンスの脳ができてたかだか20万年。


体壁系の脳などという新参者のいうことが、どこまで信用できるのだろうか。


しかしその子どもの成長は、三木先生によれば、胎児の時代を含めて、この何億年の歴史を短く繰り返すのである。


そもそも子育てが意識で左右可能だという、考えともいえない考えが通るほうがヘンだというしかあるまい。


それでもお母さん方は「じゃあ、どうしたらいいんですか」と尋ねるのである。




一次産業がまったく振るわないことと、子育てが問題になることとは、同根である。


自然のものに手入れをするという感覚が、身に付かなくなっただけであろう。


こういう世界が長続きしないだろうということは、「はらわた」感覚ではだれでも理解しているはずである。


ただ個人当たりにして自分が生産する量の40倍という外部エネルギーに依存する巨大な社会システムを構築してしまったから、そこから出ようにも出られないという「現実」に直面しているだけである。


それを具体的にいちばんよく示しているのが、原発再稼働問題である。




放射能を恐れて遠くに引っ越してみても、この社会システムから逃れるわけにはいかない。


放射能と同じ問題が別な形で降ってくるだけである。


放射能ははっきりしているからいわば一次払いだが、引っ越したところで、それが月賦払い、年賦払いになるだけのことであろう。


ある程度歳を経れば、当面の逃げは問題の解決にならないことなど、身に沁みてわかっている。


だから「考える」のだが、それが体壁系に止まるかぎり、実効性はない。


だから、三木先生に戻る。




三木先生の話が心を打つのは、そこに強い情動があって、それを理性がよく統御しているからであろう。


お子さんのことを書いている部分でも、そんなことは一言も書いていないのに、親としての愛情が強く伝わってくる。


まさに「指差し」だけなのだが、そこに愛情が見えるのである。




思えばこういう情の持ち方は、私より年長の世代の人に多かったという気がする。


誕生日のプレゼントだとか、そういう形に見えることはしないのだが、なにかの折りに強い愛情を感じる。


私自身にそれが欠けがちだから、逆によくわかったのかもしれない。




情理ともに兼ね備えることはなかなかむずかしい。


理に落ちてはつまらないし、情が先走っても困る。


漱石が書いたとおりで、情に働けば角が立ち、情に棹させば流される。


自然科学は理性一本ということになっている。


でもじつは裏にさまざまな情があって、そこに人間の品格の問題が隠されているように思う。


品格を決めるのは、たぶん情理そのものではない。


両者のバランスであろう。


学者としての三木先生はそこのバランスが見事な人だった。


むろんあそこまで行くには、さまざまな苦労があったに違いない。


普通の科学者なら、情は徹底して押さえ込んでしまう。


でも三木先生はそこをいわば情が食い破った人なのである。


だから書くことや言うこと、つまり表現がホンネとなって、人を打つ。


この講演でもシモの話がよく出てくるが、聞いているほうは素直に笑っている。


品の悪い話にはならないのである。




現代社会では、理の話は腐るほどある。


でもそれを上手に動かす情が欠けている。


シラけるとは、それをいうのであろう。


シーラカンスの解剖のような、日常とまったく縁のない話をしているのに、聞いている学生がその話に吸い込まれてしまう。


まったくシラけない。


これはいったいどういうことか。


当時の私はよくそう思ったものである。


そのシーラカンスと現在をつなぐものが、三木先生の情である。


子どもさんへの愛情と同じで、シーラカンスやそれが象徴する生命の長い歴史への先生の愛情が、表現の隅々から伝わってくる


その生命の中には、むろん生物としての現在の自分も含まれている。


それを単なる理屈で語らないところが、三木先生なのである。




以下は老婆心である。


この本を読むときに、現代の生物学の本を読むようなつもりで読まないで欲しい。


生きものとわれわれをつなぐものは、ただ共鳴、共振である


それを三木先生は宇宙のリズムと表現した。


共振はどうしようもないもので、同じリズムで、一緒に動いてしまう。


三木先生はおそらくその根拠を追求し、長い生命の歴史のつながりを確認したのである。


21世紀の生物学は、おそらく生きもののそうしたつながりを確認する方向に進むはずである。


またそうなって欲しいと思う。




三木先生はゲーテのメタモルフォーシス、生物学でいう変態にも、強い関心を持たれていた。


昆虫の完全変態とは、じつは寄生性の昆虫と、ホストの上手な合体ではないかという現代の仮説を紹介したら、三木先生は大いに喜ばれたに違いないと思う。


私がそう説明したときの、三木先生のホーッという顔が目に浮かぶような気がする。


そうだろう、そうでなくてはいけない。


間違いなくそういわれそうな気がするのである。


これも実際にそうだとすれば、生きもののつながりの典型的な一例である。


19世紀以来の生物学は、ルネッサンス以降の西欧文明の常識を背景にしてきたから、生きものそれぞれの個に注目してきた。


しかし当然ながら、生きものはそれ単独で生きているわけではない。


かならず生きものに囲まれて生きているのである。


その感覚がなくなったのは、水田や杉林を見慣れている現代人だからであろう。


杉だって稲だって「それだけで生きている」とつい思わされてしまうのである。




まもなく三木先生の時代がまたやってくる。そんな気がしてならないのである。



自然回帰の祈願、五感重視せよってことなのか。


だとして、それに気づいている人たちも


増えてきている気も昨今する。するだけかも。


三木先生の言葉は、平易でとっつきやすく


かつ例としてして差し込まれる図画と


そのキャプションがユニーク!


独特の三木ワールドとでもいうか。


またご自分で図を書かれていて


この書の表紙もそうなのだけど異様に上手い。


あまり関係ないと思うけれども、20年くらい前


木下杢太郎先生の原図で熱海で妻と見たことが


あるのだけど、それに匹敵する驚きだった。


昔の学者さんって今の朝ドラの


牧野富太郎先生もそうだが


みんな絵が上手いという印象あるのは偏見か。


話を三木先生にもどしピュアな語り口や素朴な


驚き方がなんとなく岡本太郎さんのそれと似ている。


これじゃ、生徒の心は鷲掴みなわけだよ


普通と違うもの、熱とか見えてるものとかが。


ものすごい知識量で話しているのは


きっとすごい読書家なのだろうなあと。


それを自分の中に取り込むスポンジ力は


凄まじいものがあるのだろうなあ


余談だけどセミが遠くで合唱を始めた


木曜の朝夜勤中にAmazonで購入した8冊の本が


今日届くことになっているのだけど


今日も夜勤で仕事前に来るか、を


心配している平和な自分でございました。