ダーウィン進化論の現在 (Questions of science)



  • 出版社/メーカー: 岩波書店

  • 発売日: 1994/04/26

  • メディア: 単行本




きっかけは養老先生の翻訳だったからで。

ちなみに先生の読書について


理解度がもっとも深いのは


翻訳をすることっていう随筆を


どこかで読んだことがトリガーでした。


確かにただ読んだだけよりも


労多い方が記憶に残るのだろうなと。


肝心の著者であるエルンスト・マイアーさんは


私はまったくの初見でございます。


まえがき から抜粋



現代の進化学者であれば、たえずダーウィンの業績にもどって、それを繰り返し参照することになる。


それで当然であろう。


進化思想はすべて、その根拠をダーウィンにまでさかのぼるからである。


進化論の出発点が、ダーウィンのあいまいな記述だったり、生物学の知識が当時まだ不十分だったため、ダーウィンに答えられなかった疑問だったりする。


これは、現代でもよくあることである。


ダーウィンの原著にもどるのは、単に歴史を知るという理由だけからではない


ダーウィンは、いまの進化学者をふくめて、自分の賛成者、反対者のだれよりも、ものごとをはるかに明確にしていることが多かったのである。




ある科学上の問題を分析しようとすると、ほとんど必然的に歴史の研究になってしまう。


進化生物学における多くの未解決の問題も、その例外ではない。


そうした問題の歴史を理解するには、当時の具体的な知識状況だけではなく、「時代精神」をよく認識しなければならない。


観察や実験を研究者がどう解釈するかは、「時代精神」のような、思考の大枠に依存することが多いからである。


長年にわたって私が歴史研究の主な目標としたのは、歴史上の人物が行なった理論化を基礎づけた考え方、つまり広い意味でのイデオロギー、を探求することだった。




ダーウィンに対する私の興味は、大学生時代からだった。


その興味がさらに増したのは、1959年が『種の起源』出版100周年にあたったからである。




引き続く歳月の間、私はダーウィンの思想研究に没頭した。


その成果が1982年に出た『生物学思想の成長ーー多様性・進化・遺伝』である。




このいささか技術的・専門的な論文集をドイツ語訳するために検討しているうちに、こう思いついた。


ダーウィンとダーウィニズムだけをもっぱら扱う、一巻の本があれば、思想史におけるダーウィンの役割に漠然と興味を感じている、一般の人や学生の役に立つのではないか、と。




進化という事実や、系統発生の専門的な問題に、この本はほとんど触れていない


進化理論にとって、軟体動物の祖先は体節性だったか(まず間違いなくそうだったはずだが)、体腔動物は扇形動物と祖先が同じか、四足動物は肺魚に由来するかといった問題は重要ではない。


系統発生の具体的な問題については、すでに膨大な文献がある。


かわりに私は、進化の機構、およびダーウィン以来の進化論における主要な理論と概念の歴史的発展を、もっぱら扱うことにした。




私がこの本で、考え方の基礎に注意を向けたのは、現代の基礎科学のものの見方に見られる、いささか気になる傾向を是正しようとしたからである。




科学を単に発見の連続と見なす科学者が多すぎる


さらによくないのは、科学を技術革新の踏み石にすぎないと考えることである。




科学界の内外を見ても、このヴィクトリア朝の偉人ほど現代の世界観に影響を与えた人物はいない。


われわれが繰り返しダーウィンの原著にもどるのは、この勇敢で知性的な思想家が、ヒトの起源についてだれも発したことのない深い疑問を発し、献身的で創意に満ちた科学者として、その疑問に対して、ときには世界を揺るがすような、すぐれた解答を与えたからなのである。



第7章 ダーウィニズムとはなにか


反イデオロギーというダーウィニズム から抜粋



すでに見たように、自然選択のみならず、ダーウィンのパラダイムの他の多くの側面が、19世紀中葉に支配的だった多くのイデオロギーと完全に対立した。


自然神学における特殊創造と神の設計論という信念に加えて、ダーウィンの考えにまったく対立したイデオロギーには、実在論(類型学)物理主義(還元主義)目的論があった。


こうした教条の信奉者たちは、ダーウィンの仕事にきわめて強力な対立者を見てとったので、『種の起源』で言われあるいは意味されていることで、自分たちの立場を危うくするものならなんであれ、ダーウィニズムと呼んだ。


しかしこれら三つのイデオロギーは一つずつ敗れて行き、その消滅にともなって決定論、予測可能性、進歩、生物界の完全化可能性といった思想は弱まっていった




生物進化の目的論的な面を完全に否定した副産物として、進化は一時的な偶然性に支配される歴史過程だという解釈がもちろん避けられなくなった。


これは選択が機会主義的であること、また進化にはムダな面があることを目立たせる結果になった。


そうした進化の見方は、同じく偶然に左右されるとはいえ、自然法則によって統御され、かなり厳密な予測を許す、無機界での単純な遷移的変化とはまったく異なっている。


進化の見方にやや近いのは気候システム、海流(乱流に大きく影響される)、大陸プレートの相互作用(地震や噴火をおこす)などの複雑な物理的システムを扱う場合であり、そこでは相互作用する要素の数が多いこと、統計的過程が多く含まれることが、簡単には予測を受け付けないのである



第10章 進化生物学の新しいフロンティア


今日のダーウィニズム から抜粋



ダーウィン説の最大の勝利は、1859年以降80年にわたって少数意見だった自然選択説が、今日では進化に伴う変化の一般的な説明となったことである。


それがこの地位を得たのは、打ち勝ちがたい証拠と代案の不在の両者によるもので、不在とはつまりすべての


対立する説がくつがえされたからである。


ダーウィンは自然選択の原材料としていつでも利用可能な変異がほとんど無限にあるのが当然だと考えていた。


かれはこの変異の起源については考えがなく、それ以降に否定されてしまったいくつかの遺伝学説を支持した(ソフトな遺伝、パンゲネシス、混合遺伝)。


しかし遺伝学の進歩は、自然選択説を弱めるどころか、強化し続けた。


ダーウィンは自然選択の概念化に関してことのほか狡猾だった。


かれが(A・R・ウォーレスやほとんどの同時代人よりも)明確に理解していたのは、二種類の選択があることで、一つは生存と適応の維持改良をもたらす一般的な生存可能性で、これをかれは「自然選択」と呼び、もう一つは生殖上の成功をより大きくするもので、これを「性選択」と呼んだ。




今日の進化学者がダーウィニズムと異なる点は、ほとんど強調のしかたの問題に過ぎない。


ダーウィンは選択の確率的性格に十分に気づいていたが、現代の進化学者はこれをさらに強調する。


現代進化論は偶然の機会が進化で大きな役割を果たすことを知っている。


ダーウィンは「選択はなにごとをも成し得る」とは言わなかった。


われれわも、である。


逆に、選択には強力な拘束がかけられている。


そして選択は、さまざまな理由から、驚くほどしばしば絶滅を防ぐことができない。




130年の間、否定しようとして成功しなかったことが、ダーウィニズムを極度に強化した。


同所的種形成、遺伝子型の内部での領域凝集の存否、種の完全な停滞の相対頻度、種形成の速度、中立対立遺伝子置換の意義など、なんであれこうした進化生物学内での論争は、すべてダーウィニズムの枠内で起こっている。


基本的なダーウィン主義の原則は、かつてないほどしっかりと確立されたのである。



ダーウィンに与えた影響や人物は


この方達でこの部分がポイント、


その上で科学が成し得るものは、


誤解が多いので直しました、ほらね、


のような書籍だった。


ダーウィンを深く知るには


多くの書籍を読むよりも


かなりショートカットできる気がする。


要するに「ダーウィンオタク」の


愛溢れる書籍というような。


そして、翻訳をされた養老先生のあとがきも


しびれるものだった。


訳者あとがき から抜粋



本書はエルンスト・マイアーが、自身のダーウィン研究の成果を問うとともに、いわゆるダーウィニズムがいかなるものであるかを、ダーウィン自身を中心において、歴史的に論じたものである。


とはいえ、古い話だけではなく、現在までをきちんと視野に入れている。


マイアーはハーバードの動物学の元教授で、著名な進化学者である。


本書にも登場する、「生物学的種概念」の提唱者としても、すでに著名である。




本書の原題は、『ワン・ロング・アーギュメント』すなわち『ひとつながりの長い議論』である。


この言葉自体は、ダーウィン自身が『種の起源』のなかで、『種の起源』という自分の書物を表現した言葉を、そのまま引用したものである。


この「議論」は、共通起源説を指すもので、自然選択説を指すわけではない。


ここはしばしば誤解される点であることを、マイアーは本書で明確に指摘している。




お読みになればわかると思うが、マイアーは、正統的なダーウィン主義者をもって自ら任じている。


ほとんどダーウィン一辺倒の感があり、ダーウィンは正しかったを繰り返す。


中立説に対する態度も、はじめそれに反対し、本書では、塩基の置換は「進化」というより「変化」ではないか、と頑張るところなどは、なかなか面白い。


もし「正統的なダーウィニズム」を定義しようとするなら、本書をその一つのテキストにしてよいであろう。




ダーウィニズムが数多くの批判に耐えて生き残ってきたことを、マイアーは強調する。


ダーウィニズムを育てたのは、その意味では、あらゆる種類の反ダーウィニズムでもある。


こうした思想の強さは、いわば反思想の強さに依存している。


その意味で、日本型社会の思想の「甘さ」を痛感する人もあろう。




今西進化論」を挙げるまでもなく、我が国では反ダーウィニズムの雰囲気も強い。


しかし、岸由二氏がよく述べられるように、ダーウィニズム自体に対する理解も深くない。


そういう印象がある。


これにはもちろん文化的背景がある。


しかし、その表現では、漠然としていて、なにを言ったかわからない。




思うに、マイアーの議論は、むしろ徹底的な「客観的」観点をとるために、「考えている自分が落ちる」という難点がある。


本書で言えば、たとえば種概念の項が典型である。


マイアーは唯名論的な種について、ニューギニアの住民も、現代の分類学者も、同じように種を分ける、という例を挙げる。


ゆえにそれは文化的相違ではなく、種が恣意的な単位ではないことを意味するとする。


しかし、もし脳という観点を入れるなら、ホモ・サピエンスは同じように鳥を分類する。


そういう観点があっていい。


これは当然、ヒトの認識機構の共通性の問題なのである。


さらに、種の項に、パターソンの「種の特異的な配偶者識別システム」が含まれているはずである。


マイアーは、それには「客観性が欠ける」と言うであろう。


マイアーの議論が「硬く」感じられるのは、そこに認識機構、すなわち「考えている自分」が入っていないからである。


これは古典的科学の立場の特徴であろう。




私がダーウィニズム批判をするとすれば、それがまったくの客観主義である、という点にある。


客観主義は、「考えている自分」すなわち自己の脳を無視する傾向がある。


マイアーは目的論を基本的に受け入れないが、人間も生物のうちであり、したがって脳の機能も生物の機能である以上、そこから目的論が生じてくるについては、ある生物学的必然性、つまり客観性がなくてはならない。


それをただ誤解なり誤りなりとして、生物学から抜くことはできない。


脳から言えば、われわれの脳が運動系およびそれから発展した部分を含んでいる以上、目的論的思考は抜きがたいはずなのである。


古典的な自然科学が、それを抜いて機能しようとしてきたことは間違いない。


しかし、そのこと自体が、別の欠点を生んだことも、間違いないであろう。




ダーウィニズムという枠組みは強大であり、今後もともかく生存を続けるであろう。


すでに述べたように、われわれはそれを背負って生きていかなくてはならない。


進化学では、ダーウィニズムが「正しい」とか「正しくない」とか、その種の感情が強い。


これは、この考え方が、ヒトの脳の深部、つまり辺縁系にまで影響している、よい証拠であろう。


その意味で、ダーウィニズムは、やはりイデオロギーとして機能している。


ダーウィニズム自体を客観化する立場、それは私は、脳研究からしか出てこないと考えている。


その意味で、今西「進化論」は、ダーウィニズム批判としては、間違った方向へ進んだのである。


同じ土俵に上がるなら、科学では客観性が高いほうが勝つ



今西進化論が今聞かれなくなってしまったのは


そういう要素があるのかなあ、と。


と思えばこのような記事もございまして。



2021.07.07


今西進化論はダーウィンの何を否定したのか


種の自然淘汰と個の遺伝率


更科功



難しくて理解及ばずだけど、気になるので


メモしてみた。更科先生の書は昨年末に拝読


それにしてもダーウィンというのは本当に


興味深いのだけど、不思議とご本人の書は


あまり手を伸ばせる機会がなくて


その周りの方がはるかに面白いというのは


単に自分が捻くれているからなのだろうか


という疑問を持ちつつ、それの方が


核心に近づけることもあるのだと


はなはだ勝手な論を立ててみては


そろそろ眠くなってまいりました


早番勤務の火曜日でございました。