ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)



  • 出版社/メーカー: 筑摩書房

  • 発売日: 2004/10/07

  • メディア: 文庫



夜勤中に少し読んでしまった。

でもてんやわんやの日だったので


チラ見程度にとどめておいたのでした。


第1章 開かれた戦端 から抜粋



進化の本質をめぐっては、ドーキンスとグールドは激しく衝突した。


「ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス」誌に掲載された二篇の有名な書評において、グールドはドーキンスの知的同盟者であるダニエル・デネットの『ダーウィンの危険な思想』を痛烈に批判した。


1997年に「エヴォリューション」誌上で、グールドとドーキンスがたがいの新書を批評しあったときは、それほど激しい調子でこそないが、決して好意的ではないやり取りが交わされた。




ドーキンスとグールドは、進化生物学における異なった知的・国家的伝統をそれぞれ代表している。


ドーキンスの博士論文の指導教官は、動物行動学の創始者のひとりであるニコ・ティンバーゲンだった。


動物行動学は、個々の行動様式の適応的な意味を解き明かすことを目的としている。


こうした背景が、ドーキンスを適応の問題に敏感にさせ、適応的な行動が系統の中でいかに進化し、個体の中でいかに発達するかに関心を抱かせている。




一方、グールドは古生物学者である。


彼の恩師は、偉大ではあったが、短気なことでも有名なジョージ・ゲイロード・シンプソンだった。


ある動物の能力と環境の要請との一致は、もし存在したとしても、化石動物の場合には現生動物ほど明瞭ではない。


化石は、その動物やそれが暮らしていた環境について、少ししか情報をもたらしてくれないからだ。




そのことを考えると、この論争の情熱は、同じ問題に取り組む競争が、異なった歴史的・学問的視点によって誇張されたものでしかないように思われがちである。


そうした見方は見当違いだと考える。


その理由を説明することが本書の目的なのだ。


ドーキンスとグールドの衝突は、両者の考えが本質的かつ重要な部分で一致しているとはいえ、進化生物学における二つの非常に異なった視点の衝突に他ならないのである。




進化理論におけるグールドとドーキンスの違いは、科学自体の評価基準の違いによって拡大されている。


その著書『虹の解体』に示されているように、ドーキンスは啓蒙主義の忠実な息子である。


われわれは、自分自身と世界についての科学的描象を受け入れるべきだ。


なぜなら、それは真実(もしくはわれわれが取りうるもっとも真実に近いアプローチ)であり、美であり、完全なものでるからだ。


そこに付け加えるべきものはなにもない、というのだ。


対照的にグールドは、科学が完全なものだとは考えない。


彼の見方では、起こりうる科学的発見とは別に、人文科学、歴史、さらには宗教さえもが、価値の問題ーーーわれわれがいかに生きるべきかという問題ーーーに省察をもたらしてくれる。




科学が、世界に対する同じくらい有効な多数の見方のひとつにすぎないとまでは、グールドは考えていない。


しかし、科学的視点に社会がもたらす影響については何度も言及している。


科学の権威は、確かに世界についての客観的な証拠に裏付けられている。


しかしそれは、多くの場合、ゆっくりと、不完全に、その時代の支配的なイデオロギーに束縛されたかたちでなされているというのだ。


一言で言えば、ドーキンスは、科学こそ啓蒙と理性の唯一無二の旗手だと考えているが、グールドはそう考えていない、ということだ。



似ているところのあるやつは、なんか気に食わない


と言ったのは三島由紀夫さんが言った言葉で


よく三島vs太宰治のような構図も言われますが


それに近いものなのかも。


訳者あとがき から抜粋



ドーキンスが「利己的な遺伝子」や「ミーム」「延長された表現型」といった刺激的なキャッチフレーズ次々と作り出してみせれば、グールドは大リーグにおける四割打者の絶滅を、生物の進化パターンから説明する離れ業をやってのける。




しかしわれわれ読者は、『利己的な遺伝子』や『ワンダフル・ライフ』を夢中になって読みながらも、ともするとその華麗なレトリックに目を奪われてしまいがちだ。


遺伝子が「利己的」だとドーキンスがいい、進化が「偶発的」だとグールドがいうとき、その表現だけが一人歩きしてしまうのである。


ドーキンスの「利己的な遺伝子」というアイデアが、人間の行動をまことしやかに説明するトンデモ理論の根拠とされたり、グールドの断続平衡説が、まるで一夜のうちにまったく新しい生物が出現するという理論だと誤解されてしまうのも、そのあたりに原因があるのではなかろうか。




では実際には、グールドとドーキンスはどの点でどう対立し、どの点で意見が一致しているのか。


この二人の間の「論争」とは何だったのか。


この疑問にこれ以上ないほど明快に答えてくれるのが、本書『ドーキンスvsグールド』である。




著者キム・ステルレルニーは、デイヴィッド・ハルやマイケル・ルースなどと並んで、生物学の哲学における指導的な研究者のひとりだ。




二人の主張を極めて簡潔に要約し、対立点を明確に浮かび上がらせてみせる。


さらに、この論争が現在の生物学においてどういう意味を持っているのか、E・O・ウィルソンやジョン・メイナード・スミスといった著名な生物学者たちがどんな立場にあるのかを、ダニエル・デネットら哲学者の見解までも取り込んで、鳥瞰図として描き出してくれる。




ステレルニーは、自分の考え方はグールドよりドーキンスよりに近いと認めてはいるが、グールドの主張に対しても、評価すべき部分は公正に評価している。


ドーキンスとグールドの論争には、人間的・感情的・政治的な要素も存在するが、できるだけ理論的・科学的な対立点に的を絞り、客観的な姿勢を堅持したところに、本書の最大の長所があるような気がする。




グールドやドーキンスの愛読者はもちろんのこと、進化や生物学に関心を抱くあらゆる人にとって、本書は格好の道案内になってくれるだろう。


本書を読むことで、『利己的な遺伝子』や『ワンダフル・ライフ』がより面白く読めるようになることは保証していい。


なお、本書があえて触れなかった人間的・政治的な対立については、ジャーナリストのアンドリュー・ブラウンが『ダーウィン・ウォーズ』で比較的詳しく書いているので、本書と併せて読むことをお勧めする。



やっぱり、生物学の知識、知性がないと


書けないよなこの種の本は。


キムさんは、この頃はニュージーランドの


大学で哲学の先生もしているらしく


そういった領域に精通していないと


書けない深さだと窺わせるな。


解説 自然界の驚異に魅了される歓び


新妻昭夫


「学派」ではなく本人を比較する意義 から抜粋



本書の読者には、まずはステレルニーが丁寧に整理してくれたドーキンスとグールドの対立点、および両者の弱点や欠点を理解し、そのうえで二人のそれぞれの本に立ち返って再読することをお勧めする。


私の読後感を書かせてもらえば、ドーキンスへの偏見がかなり解消したらしく、以前は読みづらかった本がずっと読みやすくなった。



ドーキンスとグールドが誤解される理由 から抜粋



ドーキンスへの私の偏見には、多分二つの原因があった。


ひとつは『フラミンゴの微笑』の訳者としてグールドへの身びいきである。


来日した時に一度だけ会ったことがあるが、背の低いことを知って親近感を感じた(ドーキンスは写真でしか見たことがないが、理知的なハンサムであり、多分直接会ったりしたら劣等感で立ち直れなくなるだろう)。


グールドがダーウィン没後100年に書いたエッセイ「小さな動物に託された大きなテーマ」は、米国のどこかの町のスーパーで買った雑誌にたまたま掲載されていたのだが、私には目から鱗が落ちる体験であり、その影響は私をして、ダウン・ハウスのダーウィンがミミズの実験を行った場所を掘り起こさせた(グールドのエッセイは渡辺政隆・三中信宏訳『ニワトリの歯』に所収されているほか、ダーウィン『ミミズと土』に巻末解説として付されている。


私の突飛な行動については、拙著『ダーウィンのミミズの研究』を参照されたい)。




私がドーキンスを好きになれなかったもうひとつの原因は、おそらくこれが主要な原因だと思うのだが、その文体にあった。


レトリックが過ぎ、わざと誤解されるように書いているのではとさえ考えていたこともある。


そう感じてしまった原因の少なくとも一部は、誤解や表層的な理解にもとづいてドーキンスを焼きなおした、売らんがためとしか思えない本が周囲に目立っていたことにもある。




グールドが誤解をまねくレトリックのいちばんの原因は、少なくともこのエッセイ(『ダ・ヴィンチの二枚貝』)に限れば、第二次世界大戦中のナチスの蛮行が念頭にこびりついてのことだろう、と私は理解したい(じっさいこのエッセイでもこの問題が論じられている)。


グールドは機会あるごとに「ユダヤ人の不可知論者」と自称している。


それを考慮すれば、本書でステルレニーが整理してくれたように、グールドがドーキンスに徹底して反論しているのが遺伝的決定論であり、グールドがもっとも熱心に主張しているのが歴史の偶発性であることがもっとよく理解できるのではないか。


ナチスの優生学は遺伝学と進化論という科学の産物だったのであり、ゲルマン民族による地上の支配と劣等民族であるユダヤ人の殲滅は歴史的な必然だと考えられていた。


科学も時代に制約されているというグールドの主張の核心は、この歴史上の事実と無縁と考える方が無理だろう。



ドーキンスとグールドの分岐点と、それ以上に大切な共通点 から抜粋



ドーキンスは『悪魔に仕える牧師』の一章をグールドに捧げ、その前書きの冒頭では


「私たちは出会ったときは心を許しあうが、だからといって、二人が親密だったと思わせるのは正直とはいえないだろう」


といいつつ、「共通の敵に対したとき」の二人の協調関係について、グールドの言葉を引用しているーーー


「ダーウィン主義的な進化を受け入れることを(明白に敵対していなくとも)ためらっている大衆を啓発し、進化論的な生命感の美しさと力を説明するための、この重要で困難な戦いにおいて、私は、リチャード・ドーキンスと共通の営みに向け手を携えて、協調しあっていると感じている」。




この章に収録された五篇の最後は、創造論者とくに「インテリジェント・デザイン理論家」と呼ばれる一派に対決する姿勢を表明する連名の公開書簡の草稿と、この書簡のためにやりとりされた電子メールである。


メールの交換は2001年暮れまで続けられ、数ヶ月の中断の後に届いたのはグールドの訃報であった)。




しかし、二人のあいだで共通していたのが敵=創造論だけだったと考えるのは早計である。


この前書きの末尾をドーキンスは次のように結ぶーーー


「多くの点で私たちは意見を異にしたが、自然界の驚異に魅了される歓び、そしてそのような脅威こそ、まさしく純粋に自然科学的な説明に値するという熱い確信を含めて、共通するところも多かった」。


そう、読者が二人の書いた本に魅了されるのは、まさにこの点に尽きるだろう。


自然界の驚異に目を見張る素朴な「センス・オブ・ワンダー」の愉悦はもちろん、ドーキンスの本では進化の神秘を自己複製子にまで徹底的に還元して説明するという、グールドの本では数億年単位の歴史に天体の楕円軌道にも似た壮大なパターンを見出すという、いずれもきわめて質の高い歓喜を味わうことができる。


これこそがドーキンスとグールドが多数の読者を惹きつけている理由であろう。




この邦訳によって日本での読者も増えるだろう。




また以前から二人の本を愛読していながら、両者のあいだの論争という雑音に惑わされていた人々は、本書で頭を整理し、二人の本をこれまで以上に楽しく再読することができるようになるだろう。



新妻さんの解説でわかったのだけど


ドーキンスとグールドの論だけ抽出しての


比較論はなかなか成立していなかった


画期的なことだと。


それだけ、二人の論説が社会現象を巻き起こし


一派、を形成してしまって誤解を


与えてしまったが故のある意味不幸な


ことだったのだなあと。


二人の出会いも不幸だったとも書かれてて


興味深いけれどもゴシップっぽくなりそうなので


一旦引っ込めました。


前にも投稿したけど、ウィルソン教授の教壇に


異なる言論の生徒がやってきて


コップ水掛け事件にも同じ教室にいたと。


教授派閥の違い、イデオロギーにも


翻弄されたかのよう。


欧米でもそんな派閥みたいのがあるんすなあ。


そういう時代でもあったのかもしれない。


本に話を戻しまして


全体的に難しい本で、それもそのはず


グールドさん一冊しか読んでない


それもあまり理解できてないからなので


仕方ないのだけど、わかりにくく高次レベルで


わかっている人はあまりいなそうだってのに


気がつき変な勇気が湧いてきた。


再読して楽しむこともあるだろうなあと


ただいま現在、貴重な日曜休みの早朝


風呂とトイレ掃除しないと。


その前に朝ごはん、お腹空きました。