読書の軌跡―私の読書遍歴・全読書・読書の社会史



  • 作者: 阿部 謹也

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房

  • 発売日: 1993/09/01

  • メディア: 単行本




  


異文化体験の楽しみ から抜粋



大学、大学院時代を通じていくつかものを書く機会があったが、私自身は学界の情勢や流行の学説などとは関係なく、私自身の問題を追い求めていた。


それは、R・M・リルケの『若き詩人への手紙』の冒頭にあるリルケの言葉が私の胸に刺さっていたからである。


リルケは若い無名の詩人に、


「出版社に詩の原稿を送ったりしてはいけない。


あなたは外へ目を向けていらっしゃる。


だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。


誰もあなたに助言したり、手助けしたりすることはできません。誰も。


ただ一つの手段があるきりです。


自らの内におはいりなさい。


あなたが書かずにいられない根拠を深く掘ってください。


それがあなたの心のもっとも深いとところに根を張っているかどうかを調べてごらんなさい


もしもあなたが書く事を止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白してください。


何よりもまず、あなたの夜のもっとも静かな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい。


私は書かねばならないのかと。


深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。


そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語


私は書かなければならない


をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然にしたがって打ち立ててください」(高安国世訳)


と教えていた。


この言葉はそれ以降私が文章を書くときに常に目の前にあった




この様な私にとって1964年に小樽商科大学に拾われたことは幸運であった。


専任講師として一週間に一度講義をすればよかったのである。


私は明治以降の日本の西洋史研究の歴史を概観しながら、他方でハインペルの書物を読んでいた。


小樽商科大学には社会科学以外の書物も比較的揃っていたから、私は寒い書庫の中でそれらを物色して時を過ごした。


私の一生の中で小樽で過ごした12年間以上によく勉強したときはない


書庫で見つけた書物の中にヴァレリーの『海を瞶めて』があった。


私の研究室からは小樽港が見おろせた。


ほとんど船が浮かんでいない小樽港はいつも静かなたたずまいを見せていた。


ヴァレリーの文章の中に「海港のさまざまな営み」もあり、それはあたかも小樽港の光景を描いているように私には思われたのである。


菱山修三氏の訳も私の気に入っていた。


小樽商科大学には戦前からさまざまな教師がいたがその中でも手塚寿郎や大熊信行などの残した書物が私の関心を引いたのである。




しかし私は文学書にはたいした関心を持っていなかった。


書庫の中にグリムの大辞典が並んでいた。


私はハインペルのひそみに倣ってそれを最初から読んでやろうと考えたのである。


書庫から一冊ずつ借り出しては最初から読み始めた。


グリムの辞書はそのように読むことができるようになっているのである。


ところがこの辞書を製本したのはどこの製本所か知らないが、分冊になっているそれぞれの表紙がそのままでさらに製本されていたのである。


そのために開いてもすぐに閉じてしまう。


簡単なペーパーウエイトでは役に立たないのである。


私は大学に通う道すがら拾ってきた大きな石を両ページに載せてこの辞書を読んだ。


この石はある意味で私の小樽時代を象徴しているといって良いだろう。


(群像93年4月号)



リルケのくだりは、他の阿部先生の書籍でも引かれていた。


それにしても週一回の講義以外、書庫で本読み放題で


勉強されていたってのはその後の阿部先生をたらしめる


研究活動だったとはいえ、すごい世界でうらやましい。


教職員というか学者さんの世界は市井の人間には


及びつきませんものがあるなあ。


余談だけどペーパーウエイトですが


阿部先生は大きめの石ということですが


自分はスマホやマウスを使っております。


 


1990


私の五点 から抜粋



③懐奘編『正法眼蔵随聞記


江戸時代以前の書物で私が大学生のころに読んで大きな希望を抱かせてくれたのがこの書物である。


当時私は大学院進学を望みながら、家の事情であきらめるか、あえて進学するかの選択を迫られていた。


そのときこの書物は私に小さな光を与えてくれたのである。


老母を養っている男が仏門に入りたいと志したが、自分は仏道にはいれば母は飢えてしまう。


どうしたらよいかという問いに対して道元は難しい問題だから自分で考えなければならないといいながら、


切に思ふ心ふかければ、必ず方便も出来る様あるべし


と語っているのである。


また


人の利鈍と云ふは志の至らざる時のことなり


とも語っており、生まれつきの頭は変えようもないとしても志だけはつよくもとうという気にさせてくれたのである。


学道の人は先須(すべから)く貧なるべし


とも語られており、貧しかった私は希望を抱くことができた。


優れた古典とは若い者に希望を抱かせるものなのである。


(朝日新聞1月14日)



若いころって表現者に境遇が近いものに


心を寄せがちで自分もそうだったというのは


同じかもしれない。


阿部先生の場合、”書”とか”学問”の様だけど


自分の場合、”書”も今思えば結構あったけれど


圧倒的に”音楽”で、その音楽を創った人々たちの


フラストレーションというか、


恵まれない環境だったりした


アーティストへの思慕が強かったように思う。


 


日常生活の中の詩人


樋口伸子詩集『図書館日記』から抜粋



詩人という名称はおそらくあらゆる仕事や職業の中で最も現実離れしたイメージを今でも強くもっている。


そのために実際に生身の詩人に出会うと目をそむけたくなったり、何かいかがわしいものを感じてしまうのである。




樋口さんは普段は物静かで口数も少なく、どちらかといえば大人しくみえる。


しかし身体のすみずみに力がみちていて、それが時にはフラメンコになってきらめきだすこともあるらしい。相手によっては拳骨となってとびだすこともあると聞く。


勿論蹴飛ばすくらいではたりないこともあるらしい。


私はそのような樋口さんに接したことはないが、あるいはそのために逃げ出したくなったことがあった。


石風社レクチャーの後私が客であったにも関わらず、あるいはそのために逃げ出したくなったことがあった。


そばにいた樋口さんに逃げ出そうというと、即座に行きましょうという返事がかえってきた。




勿論すぐ後で再びみなと合流したのであるが、どう考えても非常識なことであった。


私の我がままに付き合ってくれたのは樋口さんのさまざまな配慮の結果であったかもしれないが、私にはその時樋口さんにも私と同じような非常識なところがあるのではないかと思った。




『図書館日記』に出て来る図書館は私には現実の図書館のように思われてならない。


現実の図書館はそんなものではないという人もいるだろう。


しかしよく考えてみれば現実の図書館も砂に埋もれてゆく運命にあることは明らかなのである。


世の中に言葉だけの詩人はいくらでもいる


樋口さんの普段の姿に接していると詩人であることを感じさせないがそれは私たちが詩人であることになんらかの印を見ようとするからである。


『図書館日記』を読めばわかるように日常生活の中で樋口さんは詩人なのであり、それだから詩人臭くないのである。




樋口さんの詩には樋口さんにしかわからない暗号がかなり込められている。


樋口さんが詩を自分のために書いている以上当然のことかもしれない。


しかしそのために詩の普遍性が損なわれているような気もするのである。


樋口さんはかつて


「文学は遠いところを見つめるものだ」


と書いたことがある。


樋口さんの詩は日常生活の中で樋口さんが見つめている遠いところを表現している限りで、私たちもその視線に自分の視線を合わせるとき、今の樋口さんに近付くことができるのである。


(石風11月号)



レクチャーって何なのかよくわかりませんため


逃げ出すってなんだろう。


反社会的な行動は阿部先生らしくないけど


面白いと思ってしまった。それから


作家を知るために、類書に手を伸ばすのは


言うに及ばずその作家のバックグラウンドを


知るとより深まるというのは


とてもよくわかる。


作品だけではすまない輩が多く、


自分もその一人だったりする。


すべてじゃなく、ゴシップは嫌いだけれど。


それにしても、作家の「今」と


「視線を合わせる」と「近付く」とは


なんとも素敵な表現だ。


樋口さんの書も気になる。


 


1992


「脱近代」の実践者・南方熊楠


中沢新一森のバロック



南方熊楠についてはこれまでに幾つかの研究が出されているが、本書はそのなかでも注目すべきものである。


著者は南方熊楠の生涯のなかで「最も深く体験されたもの」を注意深くとり出そうとしたと語っている。


それは南方熊楠のヨーロッパの学問とのかかわり方、森のなかでの生活、市民としての身の処し方、性についての態度などのさまざまな面に及んでいるが、その全体を著者は思想史として位置付けている。


本書が非正統的な思想史であろうとすることによって、まさに正統的な思想史となると主張しているのは、それが現代の思想が直面している最も重要な問題を正面から取りあげているからである。


それは観察者の相対化という視点である。


「熊楠は、生命プロセスに客観的な観察者なるもの(これは同時に、世俗的であり科学的でもある、ものごとにたいする何らかの『偏見』に拘束された知性でもある)の介入しない、未知の生命論を模索していた」


という。


環境から自分の内部と外部を区別した「主体」としての生物のイメージは欧米の学問のなかで生まれ、近代的個人の成立とあいまって全世界に広がっている。


学問は観察者によって営まれることになる。


観察者を相対化することによってどのような学問が現れるのだろうか。


南方熊楠はそれを自らすでに実践しているという。


制度の学に対してエロス的な学を著者は熊楠の生活のなかによみとろうとしているのである。


それは熊楠のマンダラ論と結びつくものである。




この南方熊楠が肉体的な性的欲望の充足を拒み、厳しく自己を律し、西欧中世の宮廷風恋愛と同じような節度を守っていたことにも、特に注目させられる


(読売新聞11月9日)



必然性もないのだけど、


最近学者さん系の書籍を


なぜか読むのが多いので


熊楠さん(1867〜1941)も気になった。


そういえば20年以上前、


作家の町田康さんが主演で


頓挫している映画は再稼働するのだろうか。


公開されたら是非観てみたいと思った次第。


余談だけど20年くらい前熱海に妻と行った際


木下杢太郎さん(1885〜1945)の


記念館で見た細胞の細密画に


驚いた記憶がそこはかとなく蘇ってきた。


そろそろ夜勤に備え買い物に行かないと。