神と科学は共存できるか?



  • 出版社/メーカー: 日経BP

  • 発売日: 2007/10/18

  • メディア: 単行本




とてつもないくらい難しいが


なんかひっかる、部分というか全体が。


この書からグールドさんに入ってみた事が


そうさせるのか?


キリスト教概念で育っていないので


いまいちピンとこないのだけど


科学と宗教の対立は裁判も起こしていて


欧米諸国では身近で深刻な事なのだろう。


本文を挟んで、日本人の有識者3人が


熱い解説を入れているのは、


この書を埋もれさせてはならぬ


という気概が見て取れる。


なにはともあれ、自分の理解・咀嚼力では


一回ではとても収まりつかなそうです。


 


本書について 狩野秀之 から抜粋



本書はスティーヴン・ジェイ・グールド『Rock of Ages』(1999)の全訳である。


「断続平衡説」を提唱した古生物学者であり、また『ワンダフル・ライフ』をはじめとする優れた科学書の書き手でもあったグールドには、もうひとつの顔があった。


進化を否定する「創造主義運動」に抗して、戦い続けた闘士としての顔である。


本書でも言及されているように、グールドはアーカンソー州の「創造主義法(時間均等法)」に意義を申し立てた裁判で証人となり、違憲判決を勝ち取るのに貢献している。


また、25年以上にわたって書き続けた『ナチュラル・ヒストリー』誌の連載エッセイでも、スコープス裁判などをたびたび取り上げ、創造主義批判を続けていた。


そのグールドが、早すぎる死(2002年)の前に、「科学と宗教の関係」をメインテーマに据えて書き下ろした本書は、生涯を通じて創造主義と戦い続ける中で深められていった思索の集大成であり、グールドの思想を知る上で不可欠の一冊と言えるだろう。



第一章 お定まりの問題


1 前口上 から抜粋



私がこのささやかな本を書くのは、あるひとつの問題に対する幸いなほど単純、かつ、まったく平凡な解答を述べるためである。


どんな問題も、感情と歴史の重荷に苦しめられすぎると、明瞭な筋の通った小道が論争と混乱のもつれで藪におおわれてしまうことがある。


私が本書でとりあつかう問題とは、「科学」と「宗教」とのあいだにあるとされている対立である。


この論争は、人々の心と社会的な実践のうちにのみ存在するのであって、科学と宗教というたがいにまったく異なり同等に大切な主題の論理や適切な有効性のなかに存在するものではない。


本書で述べることは基本的な議論であって、私の独自の見解はなにひとつ加えていない(ただし、例を選ぶのには若干の工夫をしてみたい)。




なぜなら本書での議論は、科学界と宗教界の指導的な思索家によって、何十年も前から認められてきた確固たるコンセンサスに従っているからである。


私たち人間には、ものごとを総合したり統一して考える傾向がある。


しかし、それゆえ、しばしば見えなくなっている問題がある。


それは、私たちの複雑な人生における切実な問題の解答は、多くの場合、原理にもとづく敬意をともなう分離、という正反対の戦略のなかに見つかるということである。


善意の人々は、科学と宗教が平和的に共存し、私たちの現実の生活と倫理的な生活を、共に手をたずさえて豊かにしてくれることを願っている。




この尊重すべき前提から出発して、互いに協力して活動するのだから方法論と主題も共通しているはずだ、という誤った推論がしばしばなされているーーー何らかの壮大な知性の枠組みが、たとえば信仰というものの知りうる事実の部分を自然に組み込むことによって、あるいは宗教の論理を無神論を不可能にするほど無敵なものに作り上げることによって、科学と宗教は人流になるだろうと思い込んでしまう。


しかし、人間の身体を維持するには食べものと睡眠の両方が必要なように、どのような全体も適切に維持されるためには、それぞれ独立した部分の本質的に異なる働きに頼らねばならない。


現代的な多様性を謳歌する隣人たちの暮らす数多くのマンションで、それぞれが各自の一生を充実したものにしていかねばならないのである。


私には、科学と宗教が、どのような共通の説明や解析の枠組みにおいてであれ、どうすれば統一されたり統合されたりするのか理解できないが、しかし同時に、なぜこのふたつのいとなみが対立しなければならないのかも理解できない。




科学は自然界の事実の特徴を記録し、それらの事実を整合的に説明する理論を発展させようと努力している。


一方、宗教といえば、人間的な目的、意味、価値ーーー科学という事実の分野では、光を投げかけることはできるかも知れないが、決して解決することのできない問題ーーーという、同時に重要であり、しかしまったく別の領域で機能している。


同じように科学者も、自分たちの営為に特徴的な、なんらかの倫理的な原理にしたがって仕事をしているはずだが、この原理の有効性を、科学によって発見される事実から引き出すことは決してできない。




私の考えでは、敬意を持った非干渉ーーーふたつの、それぞれ人間の存在の中心的な側面を担う別個の主体のあいだの、密度の濃い対話を伴う非干渉ーーーという中心原理を、「 NOMA原理(Non-Overlapping Magisteria)」すなわち「非重複教導権(マジステリウム)の原理」という言葉で要約できるはずである。


カトリックの知人たちが、彼らの説教でよく使われるこの用語の盗用を不快に思わないことを願う。


マジステリウムはラテン語の「マギステル」つまり「教師」を語源とする言葉で、カトリックにおける教えの権限の範囲を示す。




マジステリウムは、一般的には古くさい言葉とされているが、本書で示した中心的な概念に見事に適した用語なので、私としては、この見慣れない言葉が多くの読者の語彙に加えられることを希望する。


このような寛大な努力を読者にお願いするにあたって、ひとつの条件を申し添えておきたいーーーこの言葉を、いくつかの似通って入るが、意味が非常に異なる言葉と混同しないでいただきたいのである。


たとえば、「マジェスティ」(威厳、陛下)や「マジェスティック」(威厳のある)といった言葉だ(カトリックの生活は威厳を特徴のひとつとするので、この種の混同がよくみられる)。




これらの言葉はラテン語の「マジェスタス」(威厳)、さらには「マグヌス」(偉大な)を語源とし、支配と絶対的な服従を暗に意味している。


それに対して、マジステリウムとは、何かひとつ教え方が、有意義な対話と解決の適切な道具となる領域のことである。


言い換えれば、私たちはマジステリウムのもとでは討論し対話を続けることができるが、マジェスティの前では沈黙の畏怖か強いられた服従に陥る。




以上の話を要約しつつ、もう少しだけ繰り返すと、科学のマジステリウムがカバーするのは経験的な領域である


ーーーたとえば、宇宙はどのようなものからできていて(事実)、なぜこのようになっているのか(理論)。


これに対して、宗教のマジステリウムは、究極的な意味と道徳的な価値の問題の上に広がっている。


これらふたつのマジステリウムは重なり合わないし、すべての問いを包摂してもいない(たとえば、芸術のマジステリウムと美の意味を考えてみよ)。


古い決まり文句を引用すれば、科学は岩の年齢(エイジ・オブ・ロックス)を知り、宗教は「ちとせの岩(ロック・オブ・エイジス)」を知るのである。


あるいは、科学は天がどのように運行しているかを研究し、宗教はどのようにして天に行くかを研究するといってもいい。




=ちとせの岩とは、永遠に変わらない真理をいう


「マタイの福音書」の一節(16・18)の「あなたはペテロ(岩)である。そして、私はこの岩の上に私の教会を立てよう」からきた言葉。讃美歌260番参照。


歌詞は「ちとせの岩よ、わが身を囲め」



「科学」「宗教」「哲学」は三位一体、


近づいていくというのが、なんとなく


合意の言説のような昨今の風潮と思いきや


実は自分のバイアス掛かった読書遍歴の流れ


なのかも知れないけど。


グールドさんは「科学」「宗教」は独立したものだと。


なので、これを読む限りにおいては


ドーキンスさんの「宗教」というか神否定論とは


異なるってことなのか。


正直難しくてよくわからん、若干とっつきにくい


文章は自分の浅学さゆえだというのは


良くわかるのでわかりたければ


何度も読みたまえと聞こえる。


 


ドーキンスさんの方が、今の時点では自分にとって


って事だけど読みやすいのは確かですな。


それにしても、讃美歌って何番まであるのだ、


260番参照って…。


マジステリウムを語彙に追加といってもなあ、


マジェスティック12ならすでにあるんだけども。


(そんなんだからドーキンス氏もグールド氏も


なかなか受け入れらねーんだよ!)


 


まったくの余談ですが


本日は人生初の鍼灸院で鍼体験をしてまいりました。


今日は休みのため今の所変化はあまり感じられないが


仕事をしてどうなのか、が気になりつつ


難しい書籍に挑んでしまったのは時期尚早だったかも


でもまあいいやと思っている次第でございます。