なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門



  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス

  • 発売日: 2012/09/01

  • メディア: Kindle版




内田樹さんの書籍に、岡田さんの個人情報に対する

考え方のことで紹介されていたので


題名で関係ありそうな書籍を選んで読んでみた。


福井さんは著作権を生業とされている


ニューヨーク州弁護士でお二人の対談。


 


chapter 02


著作権は敵か?味方か?/プラトンとアリストテレスとダイエット から抜粋



■岡田


話がちょっとずれてしまうのですが、前にプラトンとアリストテレスの論争という寓話を読んだことがあります。


この寓話にはおかしなことが書いてあって、プラトンが人の意見を文字として記そうとしたら、これにアリストテレスが反対するというのです。(※1)


実際にそういう論争があったかどうかではなく、あくまで寓話なんですけどね。


プラトン側は、意見は文字にして紙なり粘土板なりに記すことで、客観性を持った実在になり、それが情報として流通できるようになるという。


これこそが意見であり、それを戦わせるのが議論であるべきだという。


アリストテレス側は、そんな風にしてしまうと、最初に意見を述べた人の人格や重み、言葉のニュアンスといった要素がすべて消え失せてしまう、そう反対したそうです。


 


※1 プラトンとアリストテレス


=古代ギリシアの哲学者プラトンの主張は実在しているのは完全な「イデア」であり、人間が感知できる現象界はイデア界の似像だというものである。


これに対して、プラトンの弟子のアリストテレスは、感覚で捉えることのできる個別のものこそが実在であると説いた。


普遍的なものが存在するかどうかという。


「普遍論争」は中世スコラ哲学の主要なテーマともなっていく。


 


■福井


なるほど。


 


■岡田


なぜこんな話をしたかというと、自分の意見が一人歩きするという経験をしたことがあるからです。


僕は以前に『いつまでもデブと思うなよ』というダイエット本を書いたのですが、この中でメガマック(※2)のエピソードを取り上げました。


メガマックをものすごく食べたくなった僕は、自分自身をコントロールするために、メガマックを8つに分け、ひとつだけを食べて残りをぽーんと捨てたんですよ。


 


※2 メガマック=


マクドナルドが販売していた巨大ハンバーガーのシリーズ。


日本国内では、2006年に首都圏で試験販売を開始。


ひとつのハンバーガーに4枚ものパテが入っており、750キロカロリー以上ある。


現在はメニューにはないが、2011年5月~6月に限定発売された。


 


■福井


うわ。


 


■岡田


これをやると心はすごく痛むんだけど、なんとかメガマックを味わいつつ完食するのだけは我慢できた、そういう達成感を得ることができたんです。


 


■福井


はは(笑)。




■岡田


だけど、「メガマックを8つに分け、そのうちひとつだけを食べて残りをぽーんと捨てた」という箇所だけ読んだら、「メガマックを切って捨てたら痩せると、岡田斗司夫は言っている」、そういう風に読むこともできてしまうわけです。


現にツイッター上でそうやってツイートしてる人も少なからずいるんですよ。


「岡田斗司夫はメガマックの4分の3を捨てれば痩せると言っている」


「それは、バカだろ」


そんなやり取りも行われていたりする。


僕の書いた本から、該当箇所だけを抜き出して引用し、「岡田斗司夫はこう言っている」というのは間違い無いでしょう。


けれど、ツイッターの140文字制限の中で、前後の文脈抜きにそこだけ引用されると意味が変わってきてしまう。


こういう言い方が正しいかどうかはわからないけれど、アリストテレスにしてみたら「僕はそんなつもりで言ったんじゃないよ!」と文句を言いたくなってしまう(笑)。


 


■福井


ふーむ、すごく庶民的なアリストテレスですね。


 


■岡田


自分が発表した意見を他人が自由に利用してもいいと言われると、「おいおいちょっと待って、僕の意見の使い方は僕にコントロールさせてよ」という気持ちになるんですよ。




■福井


意見を表明した人が使い方までコントロールしたいという欲求は、まさに著作権の基本権の基本的思考に関わってきます。


 


現在の著作権は、独占コントロール権を軸として構築されます。


著作物をどう利用するかについていえば、クリエイターがほぼ独占的にコントロールして、影響を及ぼせるようになっているんです。


先ほどの寓話でいえば、アリストテレス的な、「人格の発露としての情報」という意識がより強いということになります。


こちらが、大陸法的(※3)な著作権の考え方だといえるでしょう。


大陸的な考え方では、著作物はクリエイターの人格を体現したものです。


儲かるとか儲からないとかではなく、著作物はその人の分身なんだと。


だから、他人が著作物を勝手に使うことはできない。


言ってみれば、天賦人説(※4)の立場ですね。


これに対して、先ほどの寓話のプラトンの視点だと、表に出て流通している情報は、ある程度著作者からは独立した存在に聞こえる。


世に出てしまった作品は、もはや情報として独立しており、クリエイターとは別個の存在であると。


そうなったら情報は、できるだけ自由に流通するようにしてやろう


だとすると、これが英米法的(※5)な考え方だということになるでしょう。


 


※3 大陸法的


=西ヨーロッパで発展した法体系のこと。


日本でも明治維新の際に採用されている。


大陸法はローマ法の伝統を受け継いでおり、成分法を中心としている。


 


※4 天賦人説


=人は生まれながらにして、自由・平等を追求する権利があるという考え方。


ジャン=ルソーをはじめとする18世紀の思想家が主張した。


天賦人権説は、フランス革命やアメリカ独立戦争にも大きな影響を与えている。


 


※5 英米法的


=英国や米国で発展した法体系のこと。


 大陸法と比較すると、判例を中心にした慣習法である点が大きく異なる。


 


■岡田


つまり、アリストテレス的な大陸法はクリエーターの人格を中心した考え方、一方の英米法は著作権をこの社会においていかに有効に使うかに重きを置いているということでしょうか?


 


■福井


そうとも言えますね。



プラトンとアリストテレスの寓話が面白い。


プラトンが”アナログ”で、
アリストテレスが”デジタル”なのか?


(どちらも”アナログ”だろう…)


”自然”と”都会”、”身体”と”脳”、とでも


比較できそうな気もする。


違うかもしれないけど。


それにしても、何千年たっても寓話とはいえ、


現代に継承される古代ギリシア哲学って


やっぱりなんかあるのだろうね、魅了される理由が。


 


chapter 04


クリエーターという職業


創作で食えなくてもいい から抜粋



■編集部


クリエーターに関連してくる仕組みでいえば、岡田さんはベーシック・インカム(※)も支持されていますね。


 


 ※ベーシック・インカム


 =国民一人一人に対し、毎月決まった額のお金を給付する仕組み。


 負の所得税と言われることもある。


 ベーシックインカムが社会に与える影響について、


未来改造のススメ 脱「お金」時代の幸福論』などを参照のこと。


 


■岡田


僕が著作権という仕組み自体を諦めた方が良いと主張するのも、ベーシック・インカムの場合とよく似ています。


今の法律だと、所得税や還付金、生活保護に子供手当と制度が複雑になり過ぎているでしょう?


これほど複雑な制度を維持するために大変なコストがかかっているわけですよ。


だったら、ベーシック・インカム賛成派の人たちがいうように、全ての社会保障をやめて、ベーシック・インカムに一本化した方がいいんじゃないか。


そうした方が国としたら、運営コストが下がっていいんじゃないか。


僕がベーシック・インカムを面白がる理由の一つはこれです。


コンテンツについても、著作権自体を諦めてしまった方が、あらゆる面でのコストを劇的に減らせるんじゃないかなと考えています。



日々の暮らしが保証されれば、


著作権は放棄しても良いという


クリエーターが沢山いるのでは?


そうすれば継続して新作ができるという


循環が成り立つのではなかろうか。


旧共産圏のアニメーションは生活保障あればこそ、


という指摘を福井弁護士はされる。


ただ、問題もあるので簡単には


いかないだろうが、とも。


 


僕たちが欲しいのはコンテンツではない から抜粋



■岡田


ユーザーが求めているのはコンテンツではないと思うんですよ。


 


■編集部


一体どういうことでしょう?


 


■岡田


大阪芸術大学の教え子の一人に、ビジュアル系バンドの追っかけをやっている女の子がいます。


このバンドはアルバムもろくに出さないんです。


下手だから(笑)。


 


■福井


ストレートな理由ですね(笑)。


 


■岡田


下手なだけでなく、お金がないということもあるんですよ。


でも、新曲のアルバムは出ないのに、ベストアルバムはしょっちゅう出ているんです。


 


■福井


誰かが勝手に出しているということですか?


 


■岡田


いえ、ちゃんと自分達で出しています。


要するに、手持ちの曲が全部で50曲くらいしかなくて、それを「順列・組み合わせ」で適用にまとめ直してはベストアルバムに仕立てているということなんです。


 


■編集部


ファンは怒らないんですか?


 


■岡田


彼女たちはベストアルバムを買って、そのビジュアル系バンドを支えるしかないんです。


なぜかというと、それがファンというものだから。


つまり、彼女たちが本当にお金を出したいのは、そのバンドが作るコンテンツに対してじゃない。


自分たちが好きなバンドを支えているという喜びに対してお金を払っているんです。


 


■福井


コンテンツに対してではない?


 


■岡田


ありません。


 


■福井


前述の寓話で言うなら、アリストテレス的な生身の実在、あるいは臨在感(神などがそこに実在するという感覚)に対してお金を払っていると言ってもいいかもしれません。


 


■岡田


みんな、コンテンツに対してお金を払っていると思っているけど、それは言い訳に過ぎません。


お金を払う対象は、崇拝の対象となる人自身です。


そうでなければ、コンサートでステッカーなんて売れるわけがありません。


みんなステッカーマニアじゃないんだし(笑)。



人はライブ体験にお金を払う から抜粋



■福井


私は著作権が大好きというある種の変態(笑)ですが、法律自体が好きなわけではありません。


情報は一体誰のものなのかとか、情報流通のあり方を考えるのが好きなのです。


コンテンツホルダーによっては、著作権それ自体が目的化してしまっていることも往々にしてありますけれどね。


多くのクリエーターは、自分が好きなものを作って暮らしていければ満足する。


そうして作ったコンテンツが、誰かの心を揺さぶったり、自分の作品を好きになってくれたりすれば最高だと思っている。


それこそ彼らがコンテンツを作る目的でもあります。


そのためのツールとして、著作権法があるわけだし、もし今の著作権が機能しているのであれば切り捨てればいい。


ただし、先に述べた通り、今の著作権法を闇雲に崩そうとしても、一筋縄でいく相手ではありません。


それなりの代案がなければ無責任です。


「この流れを止めれない」とか「現行の著作権法はどん詰まりだ」と言うだけでなく、説得力のあるオルタナティブな方法を提示できれば、クリエーターやコンテンツホルダーの支持も得られると思うんですよ。


その前提として、今はコンテンツのマネタイズができなくなっている、少なくともネット・デジタルの世界では稼げていないという状況をきちんとみんなが認識しなければなりません。



昨今の音楽業界のレコード(CD)、


書籍(雑誌含む)の売上の衰退に


反比例してライブなどイベントでの収益が


(微)増加していることに触れ



■福井


ライブ会場で買えるものと同じグッズがその辺りのコンビニでもっと安く売っていたとしても、そんなに売れないでしょう。


それは、コンテンツそのものじゃなく、臨在感を買おうとしているからと言うことですね。


私から見ても、今後はそうしたマネタイズの方法しか残らないのではないか、そう思うこともあります。



「モノ(物)」から「コト(体験)」消費って


言われてから久しいけど


最近だともっと進歩(進化じゃないよ)してて


「トキ消費」「イミ消費」だそうな。


さらに「臨在感」というのは気がついていたようで


気がつかなかったような。


ライブ行ったらパンフレット買いたくなるものなあ。


過日、古書店で同じもの売ってても、


なんか違うなあと思ったのは


おそらくそれだったのだろうな。


コンビニで安く売ってたら買わないと思うし


残念と感じるだろうね。