サル化する世界



  • 作者: 樹, 内田

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋

  • 発売日: 2020/02/27

  • メディア: 単行本




なんだかよくわからないまえがき から抜粋


すぐに「サルをバカにするな」とか「お前は差別主義者か」というようなリアクションがあってびっくりしました。


この本は「朝三暮四」の狙公(そこう)の飼っているサルの思考回路の特性を考究した話からはじまります。


ですから、正確に書くと「『朝三暮四』におけるサルの論理形式を内面化した人たちがいつの間にかマジョリティを形成しつつある世界について」ということになります。


でも、ちょっと長すぎるので、短くしたわけです。


現実のお猿さんたちに対して、僕は特段の差別感情も特段の愛情も抱いてはおりません。


ほんとに。


でも、このリアクションそれ自体もどうやら「サル化」の一つの徴候を著しているような気がします。




僕から皆さんへの個人的な提案は、「自分の身のほど」なんか知らなくてもいいんじゃないですかということです。


「自分らしさ」なんか別にあわてて確定することはないです。


三日前とぜんぜん違う人間になっても、それは順調に成長しているということですから、気にすることないです…というようなことです。


みなさんが罠から這い出して、深く呼吸ができて、身動きが自由になったような気がすること、それが一番大切なことです。



「身の程」は知らなくても良いけれど


「身の丈」は意識していた方が良いように思う。


自分の経験からして、なんですけどね。


「自分らしさ」は、何が「自分」なのか


考えている時間がもったいない。


「自分」を評価し決めるのは「他人」なのだから。


って、これ内田さんとか養老さんを


読んだから言ってるわけじゃあないよ。


若い頃からそう思ってたのです。


多分、思い違いなければ。


 


!時間と知性


サル化する世界ーーポピュリズムと民主主義について から抜粋



倫理的な人というのが「サル」の対義語である。


だから、ポピュリズムの対義語があるとすれば、それは「倫理」である。


私はそう思う。


たぶん、同意してくれる人はほとんどいないと思うけれど、私はそう思う。


自己同一性が病的に萎縮して、「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」


と思い込む人たちが多数派を占め、経済政策や学術メディアでそういう連中が大きな顔をしてる歴史的趨勢のことを私は「サル化」と呼ぶ。


「サル化」がこの先どこまで進むのかは、私にはよくわからない。


けれども、サル化がさらに亢進(こうしん)すると、「朝三暮四」を通り越して、ついには「朝七暮ゼロ」まで進んでしまう。


論理的にはそうなる。


そのときにサルたちはみんな夕方になると飢え死にしてしまうので、そのときにポピュリズムも終わるのである。


哀しい話だ。


「サルはいやだ、人間になりたい」


という人々がまた戻ってくる日が来るだろうか。


来ると良いのだが。


(2019年5月)



「自分さえ良ければいい」って品のない思想だよなあ。


でも、全く関係ないかっていうと、身に覚えないと


言い切れないような。潔白と言い切れないような。


さんざんキャリア志向の人たちとも


仕事してきて自分もそれに染まってたわけで、


でも致し方ないと思うのは


3ヶ月タームでどれだけ売り上げたか、だけで


存在価値を測る指標がないんだもの。


そこでいくら国のためなんて言ったら(思ったら)


笑われるか時代錯誤だって言われるのは


火をみるより明らかだったですよ。


でもずっと疑問に思ってたけどね、


右肩上がりの経済に幸福はあるのだろうかって。


何はともあれ自戒の意味も込めこの書籍を拝読したけど、


スッと入ってくるところ、かなりありました。



いい年してガキ なぜ日本の老人は幼稚なのか?


ーー内田樹が語る高齢者問題


編集者をつとめた『人口減少社会の未来学』の刊行にあたって、


「文春オンライン」でロングインタビューを受けた。


全三回分をここに採録する



「失われた20年」の迷走 から抜粋



92年のバブル崩壊で「金で国家主権を買い戻す」というプランが崩れ、2005年の常任理事国入りプランが水泡に帰して、経済大国としても、国際社会の中で果たすべき仕事がなくなってしまった。


 


「失われた20年」と言いますけれど、日本が中国に抜かれて42年間維持してきた世界第二位の経済大国のポジションを失ったのは2010年のことです。


バブル崩壊から20年近く、日本はそれでも世界第二位の金持ち国家だったんです。


でも、その儲けた金をどのような国家的目標のために使うべきなのかがわからなくなってしまった。


「腑抜け」のようになったビジネスマンの間から、


「自分さえ良ければそれでいい。国のことなんか知るかよ」


というタイプの「グローバリスト」が登場してきて、それがビジネスマンのデフォルトになって一層国力は衰微していった。それが今に至る流れだと思います。




経済って結局は人間が動かしているんです。


システムが自存しているわけじゃない。


生きた人がシステムに生気を供給してゆかないと、どんな経済システムもいずれ枯死してしまう。


経済システムが健全で活気あるものであるためには、その活動を通じて人間が成熟するような仕組みであること、せめてその活動を通じて国民的な希望が賦活されていることが必須なんです。




国民的な目標として何を設定するか、まことに悩ましいところです。


ダウンサイジング論や平田オリザさんの「下り坂をそろそろと下る」という新しいライフスタイルの提案は、その場しのぎの対処療法ではなく、人口減少社会の長期的なロードマップを示していると思います。


先進国中で最初に、人類史上はじめての超高齢化・超少子化社会に突入するわけですから、日本は、世界初の実験事例を提供できるんです。


人口減少社会を破綻させずにどうやってソフトランディングさせるのか。


その手立てをトップランナーとして世界に発信する機会が与えられた。


そう考えればいいと思います。


その有用な前例を示すのが日本に与えられた世界史的責務だと思います。




これから日本が闘うのは長期後退戦です。


それをどう機嫌よく闘うのか、そこがかんどころだと思います。


やりようによっては後退戦だって楽しく闘えるんです。


高い士気を保ち、世界史的使命を背中に負いながら堂々と後退戦を闘いましょうというのが僕からの提案です。


(『文春オンライン』2018年4月)



会社員だった頃、なにかと闘っている気がしたが


無力感を感じてしまうことが多く、


 


しかしそれは当たり前で、


相手が大きすぎて見えなかったからかもしれない。


そして、今、闘いすんだような気もしてるけど


実は生きている限り闘いなのかも、とか。


今は昔と比べ無力感がほぼないのは


個人のスキルで仕事をしていると思えるからかも。


それにしても内田さんの文章って深くて、


なぜかいつも戦闘的な印象がある。


だからって野蛮とかってことじゃないですよ。


元気が出るっていう意味で。尚且つ


品性はキープしつつ高みのある覚悟ある言葉に


圧倒されるなあと思わずにいられない。


養老先生も同じ括りなのだけど、口は悪く、荒くても


なんか品があるんだよなあ。


吉本隆明さん系なのかもという気もしてきた


冬の休日でした。