人工知能と経済の未来 (文春新書)



  • 出版社/メーカー: 文藝春秋

  • 発売日: 2016/07/19

  • メディア: 新書




井上先生は、AIには2種あって


汎用人工知能」「特化型人工知能」とされ


前者は


人間のように様々な知的作業を


こなすことのできる


後者は


一つの特化された課題しか


こなすことができない」と仰り


今世の中の多くのAIは後者だと指摘。


前者は2030年頃に開発の目処が立つとのこと。


はじめに から抜粋



その時、私たちの仕事はなくなるのでしょうか?


経済成長は停滞するのでしょうか?


はたまた爆発的な経済成長がもたらされるのでしょうか?




私は、大学時代に計算機科学を専攻しており、人工知能に関連するゼミに属していました。


人一倍勉学を怠っておりましたが、ひととおりの知識は持ち合わせているつもりです。




どういうわけか現在は、マクロ経済学者として教鞭をとっています。


マクロ経済学というのは、一国のGDP(国内総生産)や失業率、経済成長率などがどのように決定されるのかを明らかにする経済学の分野です。


そのようなわけで本書では、人工知能にそれなりの知識のあるマクロ経済学者という立場から、人工知能が経済に対しどのような影響を及ぼすかについて論じてみたいと思います。



のっけからものすごくユニーク。


こんな先生の講義なら受けたいと思うだろう


学生時代なら、いや、中年の今でも思う。


しかしながら経済学って難しそうだし


テーマはあまり増やしたくないのだよなあ


と先日、トマ・ピケティの書を


ブックオフで立ち読みしながら


買わない方向にした時に自分に


言い聞かせた言葉を思い出したのでした。


おわりに から抜粋



現代社会で失業は、人々に対し収入が途絶えるという以上の打撃を与えます。


つまり人としての尊厳を奪うわけですが、それは私たちが自らについてその有用性にしか尊厳を見出せない哀れな近代人であることをあらわにしています。


みずからを社会に役に立つ道具として従属せしめているのです。




そのことを批判してバタイユはこう言っています。




「天の無数の星々は仕事などしない。利用に従属するようなことなど、なにもしない。」




人間の価値は究極的なところ有用性にはありません。


人の役にたっているか、社会貢献できているか、お金を稼いでいるか、などといったこととは最終的にはどうでも良いことなのです。




要するに、有用性という価値は普遍的なものではなく、波打ち際の砂地に描いた落書きが波に洗われるように、やがて消え去る運命にあるのです。




AIやロボットの発達は、真に価値あるものを明らかにしてくれます。


もし、人間に究極的に価値があるとするならば、人間の生それ自体に価値があるという他ありません。




機械の発達の果てに多くの人間が仕事を失います。


したがって、役に立つと否とにかかわらず人間には価値があるとみなすような価値観の転換が必要となってきます。




そもそも、自分が必要とされているか否かで悩むことは近代人特有の病であり、資本主義がもたらした価値転倒の産物です。


しかも、価値転倒が起きたことすら意識できないくらいに、私たちは有用性を重んじるような世界に慣れ親しんでしまっています。




有用性を極度に重視する近代的な価値観は資本主義の発展とともに育まれてきました。


資本主義は、生産物の全てを消費せずにその一部を投資に回して、資本に増大させることによって拡大再生産を行うような経済として考えられます。




より大きな投資は後により大きな利得を生むことから、資本主義は未来のために現在を犠牲にするような心的傾向をもたらし、あらゆる物事を未来の利得のための有用な投資と見なす考えをはびこらせたわけです。




バタイユは、その著書『呪われた部分』で「普遍経済学」の構想を示しています。


それは、必要を満たすために生産するという通常の経済学とは逆に、過剰に生産された財をいかに「蕩尽」(消費)するかについて論じるような経済学です。




別の言い方をすれば、バタイユが「限定経済学」と呼んでいる通常の経済学は「希少性の経済学」であり、普遍経済学は「過剰性の経済学」です。




パリでバタイユが「普遍経済学」の着想を膨らませているのと同時期に、ドーバー海峡の向こう側では、ケインズが経済学の「一般理論」について思案していました。


それらは、「供給の過剰」と「需要の不足」をそれぞれ強調しており、裏表の関係にあります。




AIが高度に発達した未来の世界でベーシックインカムが導入されれば、労働時間の劇的な短縮が可能となります。




このような経済では、賃金によって測られる人間の有用性はさほど問題とはならなくなります。


なぜなら、賃金労働に費やす時間は、人間の活動時間のほんの一部を占めるに過ぎなくなるからです。


そして、残された余暇時間の多くは未来の利得の獲得のためではなく、現在の時間を楽しむために費やされるでしょう。



ものすごく難しい領域でございます。


しかし、言葉がわかる、というのは抽象的ですが


引っかかる、というのか。


ケインズは経済学を語る言説では


よく聞く名前だけどバタイユとは。


三島由紀夫・澁澤龍彦先生が言ってた


くらいしか自分は思い出せませんが。


お若いからか、音楽家など文化面での


照らし方なども腑に落ちるところ多く


かなり勉強になる。何のためのかは


全く不明なのですけれども。





AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)



  • 作者: 養老 孟司

  • 出版社/メーカー: PHP研究所

  • 発売日: 2020/09/29

  • メディア: 新書




第2章 経済はAI化でどう変わるか

「AIショック」に人間の身体は耐えられるのか?


から抜粋



井上▼


少なくとも、今のAIには意識も意志もないですからね。


突然意識を持つようになる、みたいなSF的な話もありますけれども。


私はちょっと違う捉え方をしていて。


人間の意志とは少し違うかもしれないんですが、例えば「アルファ碁」という囲碁に特化したAIは、囲碁の勝負に勝ちたいという、ある意味「意志」があると言えなくもない。


ただ、人間の意志と何が違うかというと、アルファ碁のようなAIは、人間が、「お前は囲碁に勝つように頑張りなさい」と目的を設定している。




だけど人間は何か一つの設定された意志を持つのではなく、生きている中で突然、ある意志を自ら持つんですよね。


AI研究者の中には、生命の根源的な意志は、結局繁殖することだと考えている人が多いんです。


そうすると例えば、生存と子孫を増やすことが究極的な目標で、あとのいろんな人間の欲望というのは、そのは生物でしかないという。


でも私は、そうではないと思っているんです。




進化論的には、結局繁殖とか生存とかに関する欲望を強く持った種が生き残ってきたんだろうなとは思いますが、繁殖に関係ない欲望もいっぱい持っているだろうというイメージを持っています。




結局、人工知能と人間の意思や欲望の違いは、人間はまず、今のAIとは違って多様な欲望を持っているという点


それから、欲望自体が変化するということなんですよね。


それを私は勝手に「ダイナミックな報酬系」と呼んでいるんです。


人間の脳の報酬系というところで快か不快かにより分けられ、欲望が生まれ、それがダイナミックにどんどん変わっていくという。




養老▼


逆にコンピュータが欲望を持ち得たら、それは人間によって「暴走」と呼ばれることになる。


だって、さっきから言っているように、前提は人間が作っているんだからね。




井上▼


例えば囲碁のAIが、突然試合を放棄して「ボーッとしている方がいいので」と言ってボーッとし始めたとか、囲碁をやめちゃって、他に何か楽しみを見出すなんていうことはしないわけですよね。


そうなったら、反乱になる。


今のAIが、そんなに暴走する恐れがないというのは、人間から与えられた一つの意志、あるいは一つの欲望とか目的ですね、それに沿った動きしかしないからですよね。




養老▼


僕はそういう議論は常に、さっき言った話に立ち返った方がいいよねと思っている。


地球上にすでに64億もあるものなんて、今さら作ってどうするのよと(笑)。


乱暴なことをいうようだけど、なぜそこまでやる必要があるの?という疑問が、どうしても起こってきますね。


特にAIに関する全体的な議論を見ていると、予測することもできるし、論理的に考えるのは面白いからいいんですけど、余波が大きいようなものを社会システムにいきなり持ち込むというのは、本当にそれで大丈夫なんですかと問うところからはじめないと




ちょうど遺伝子をいじるかどうかという話にも似ているんですよね。


AIが社会にショックを与えるとしたら、逆に人間は、それに耐えられるようにできているのか、と問わないと。


さっき言った『サピエンス異変』の話だよ。


人間が作っちゃった世界に自分の身体が適応してませんよという。


僕も腰痛です。


虫の観察やって、いつもパソコン前に座っているから。



リスクを特定できないものは


よく議論を尽くさないと、とも解釈でき


それは”原発”にも通底しそうだなあと。


単に、職を奪われる、という捉え方は


一般庶民の悲しい性みたいなもので。


奪う、奪われない、ということでなしに


話はずれてしまうかもだが、


なぜ、共存しようよという発想にならず


ドラスティックに傾くのだろうかなんて


自分なぞは思ってしまうのだけど。


もちろん資本の論理、効率化だけを


主に置くからってのは言わずもがななんだけど。


雇用される側だとしても、


デジタルとアナログの合わせ技の方が


良いと思うのだけれどもなあ。


それはお気楽な言説ってことなのだろうか。


話は本にもどり高次レベルなお二人の話は


これまた膝打つ書籍でございまして


何回か読みこみたいと感じるのだけど


そんな時間あったら山積してる未読本を


読めや、または、仕事を精進しなさい


とどこかから聞こえてくる


早朝5時起きのため、早く寝たいと思う


身体管理という視座には勝てないのでした。