懐かしい日々の対話



  • 作者: 多田 富雄

  • 出版社/メーカー: 大和書房

  • 発売日: 2006/10/01

  • メディア: 単行本





プロの科学者をつくる教育


石坂公成


遠くから眺めていた後ろ姿


から抜粋



多田▼


私が、石坂先生という名前を知ったのは、先生が1957年にアメリカのカルフォルニア工科大学へ留学され、そこで「抗原抗体結合物の生物学的活性」という論文をシリーズで出された時です。


当時私はまだ医学部の学生でしたが、


「ああ、日本人でこんなすごいことをやってる人がいるんだ」


と思って、先生の論文が出ると、いつも胸をドキドキさせながら読みました。




石坂▼


それはどうも。




多田▼


その後先生はジョンス・ホプキンス大学に移られ、1959年にいったん帰国された。


そのころ、ある学会で私は偶然に先生にお目にかかりました。


正確には1960年のアレルギー学会のシンポジウムでした。




石坂▼


遠くから眺めていた。




多田▼


背後から。


しかも先生は正式の演者ではなく、演者にいちゃもんをつけていたのです。


いちゃもんといっても、きちっとロジックが通っているから演者が答えられず、立ち往生してしまった。


僕は


「なんてすごい人だろう。こんな明晰な人がこの世にいるのか」


とびっくりしたんです。




その人が、先ほどの論文で私を感動させたあの石坂先生だったということが後で分かりまして、どうしてもこの先生に弟子入りしたいと思って、国立予防衛生研究所におられた先生のところにお邪魔するようになりました。


その後先生は、3年間だけ日本にいて再渡米され、コロラド州デンバーの小児喘息研究所というところに行かれました。



どうやってアレルギーを起こさないようにするか」を考えたい


から抜粋



多田▼


先生は幸運だったと思うんです。


一心同体で仕事ができる、共同研究者の照子夫人がそばにおられたから。




石坂▼


分業っていいますか、はっきりフィールドを分けましたから。


「きみはこれをやれ、僕はこれをやる」


というふうに。


日本では、そうしないで一人がみんなを下に使ってしまう。


ワイフをインディペンデントにしたことはそれから先、ワイフ以外の若い人たちとの間でも、非常に幸いしたと思うんです。


ある意味ではワイフはコンペディター(競合相手)でもありましたが、自分のワイフだから、彼女の仕事がうまくいくということは僕にとっては喜びなんです。


それと同じで、今度は自分のところへ来てくれた人たちが後々までうまくやっていることに対して僕はうらやむようなフィーリングはないわけです。


アメリカだって研究者の中には弟子と競争してしまってうまくいかない例はたくさんあるんですが、僕はそういう経験はない。


それは、やっぱり初めから独立した研究者であるワイフがそばにいて、それに慣れていたからだと思います。



「何が見えてくるか」が「意味論」の意味


から抜粋



石坂▼


学問が非常に進んで、インフォメーションがたくさん取れるようになると、若い人は、何かそれでみんなわかったという感じを持っている。


だけど、それは人間がアキュムレート(蓄積)した、単なる知識なわけですね。


必ずしもそれがプリンシプル(原理・原則)ではない。


やっぱろわれわれ自然科学者にとっては、あくまで自然がお手本なんです。




多田▼


そうです。


現象を記載した知識をコンピュータに蓄積するという意味では、今は途方もなく進んでいる時代かもしれません。


しかし、「生物」とか「生命」というのは、そんなことで理解できない。


私が「意味論」などと言ってるのも、そういうことなんですが、たくさんの現象の中から、「なにが見えてくるか」ということについて、考えてみたいと思ったんです。


だれもこのごろそんなこと問いかけていないんです。




石坂▼


「なにが見えてくるか」とは?




多田▼


例えば生命のルールとか、統合の原理とかです。




石坂▼


全体としてということは、だれも興味を持たない。




多田▼


ところが、自然科学、生物学は元来、


「どうして生物がこうやって生きているのか」


という、そのことをいちばん最初の疑問としていたはずです。


アリストテレス以来の疑問だった。


先生が中村(敬三)先生から受けた教育も。微細に現象を見ていくということから、何が抽出できるかを、見るということだったのではないでしょうか。




石坂▼


そうですね。




多田▼


生物学の見方は、単に生物現象を見るだけじゃなくて、社会現象を見る場合にも当てはまると思うんです。


生物としての人間が生命活動の結果として必然的に作り出すものが、社会だったり民族だったり、あるいは都市だったり国家だったりするわけですから。


そういうものを見る場合も、生物学者が培ってきた目というのは非常に大事なんじゃないかと思います。


ですから私は、先生にもっと、日本の教育、それから日本の科学の流れなどについても、ぜひ提言し続けていただきたい。




石坂▼


でもなかなか聞いてくれない。流行に沿わないからだと思いますね。




多田▼


その点、私は今は文筆業ですから、遠慮せずに書いております。



日本語の「合理化」は合理的じゃない


から抜粋



石坂▼


だいたい日本の科学者、あるいは大学の先生たちと、政治家の間ってコネクションがないみたいですね。


みんな文部省の方だけを向いていて。




多田▼


だって政治家は、ほとんど官僚出身ですし、官僚は、民間から直接科学政策にかかわるような動きが出たら困ると思っているから。


当然、規制しているわけです。




石坂▼


なるほどね。




多田▼


ですから、大学の独立法人化なんていっても、文部省管轄の財団を通してじゃないとお金が入らない。


私はそもそも高等教育なんて、もしコスト=プロフィット(経費と利益のバランス)だけの原理で行ったら、間違いだと思います。


今、それをどうしたらいいかという点についての考え方は出ていない。


それでも、経済原理が優先してしまうと、それで全てが支配されてしまうんですね。




石坂▼


経済原理だけで教育をやられては、かなわない。




多田▼


でもそれが、いまの法人化の方向ではないでしょうか。


その結果、科学研究や教育についてさえ、一種の合理化が起きる可能性がある。




石坂▼


その「合理化」ってどういうこと?


日本でいう「合理化」って、あんまり合理化じゃないと思うんだけどね。




多田▼


今度、東海村で事故が起こりましたね。


あれは一種の「合理化」のために無理な「リストラ」をやったためだと言われています。


現場では、非常に大事なものであるにもかかわらず、全体として、コスト=プロフィットの関係では無駄なものとして切り捨てていくわけです。




その結果、弱いところに負担が重なって、ああいう事故につながっていると思います。




石坂▼


僕はね、日本では建前と本音が違うということが通用している、根本的にはそういうことが問題だと思いますよ。


初めてアメリカに行った時に、なんて気が効かないんだろうと思ったんですよ。


「まあ、いいじゃないか」と思うんだけど、アメリカではそれは駄目なんです。


だけど日本に帰ってきてみると、今度は逆ですね。


あんまり気が利きすぎて、何か不安になります。


放射能をコントロールするようなことは、おそらく日本のほうがアメリカよりはるかに規定は細かくできていると思うんです。


でも守られない。


守れないぐらい細かくできてるわけでしょ。


アメリカの場合は守られてますね。




放射性物質の管理の経費は全部間接費の中に入っている。


だから政府が研究所に研究費を出す時には、間接費を出してそれらをカバーします。


間接費は直接、研究所に入りますから、研究所はそのお金で人を雇って規定どおりの管理をするわけです。


そのお金を研究費に転用することはできません。


しかも、間接費は後払いですから。




多田▼


日本は、そんな必要なものを削ってまで倹約しようと思っているんですよね。


反対に金があるところはジャブジャブある。




石坂▼


それはもう倹約してはいけないことなんです。


初めっから。


そういう考え方そのものを変えない限り、よくなりっこない。




多田▼


ですから、沈黙しているわけにはいかない。


いろいろな機会に、先生が提言してくれることは大切です。


私なども、文章できちんと書いていこうと思っています。


なかなか聞いてはくれないかもしれないけれど、それによってまた、自分の考え方が発展するということもありますから。




石坂▼


それは確かにその通りだと思います。


まあ、生きている以上は、なにか役に立たなくてはね。



東海村の事故については過日


投稿させていただいた書が思い浮かぶ。


多田富雄先生は2010年に


石坂公成先生は2018年に亡くなられている。


共に日本を代表する免疫学者。


石田先生の男女問わず、成果で人を見る


フェアネスな態度は素敵です。


政府と官僚と民間の科学の関係は


本当にやるせない。思わず苦笑した。


アカデミックな先生たちの言説で


その全てがそうではないけれど


悪い意味の忖度がなくて爽快、


でも現実を突きつけられ


暗い気持ちにもなったり。


時代は”事業仕分け”や大学の


”独立行政法人化”の頃で


小泉改革前夜、最中の頃だろうか。


あの頃、自分はよくわかってないから


既存政党を壊すというのならいいのだろう


とくらいの認識しかなかったので


なにも物申すことはできないのだけど


それではあかんかったのですね。


これから世界がどのように変節するかは


自分たち次第であると思うが下支えとして


先人たちの残してくれた言葉を手掛かりに


といっても肩肘張らずに、自分たちで考えながら


役に立つような生き方をしたいと


池田清彦先生とは真逆なことを考えさせる


書物でございました。