書評のおしごと―Book Reviews 1983‐2003



  • 作者: 橋爪 大三郎

  • 出版社/メーカー: 海鳥社

  • 発売日: 2005/09/10

  • メディア: 単行本



書評を書くということ

あとがきにかえて から抜粋



書評の仕事をするときには、いつも、襟を正すような気持ちになる。




書評の書き手は、たいてい、本の著者。


つまり、自分も書評される側の人間だ。


本の著者たちが、そうやって順番に、読者となり評者となって、互いの本について意見を述べあい、共同で評価を確立していく。


その一つのやりとりが、書評なのだ。




著者がどんなに著名で、権威があろうと(あるいは、なかろうと)、知り合いだろうと、誰だろうと、今度書かれた本の中身に即して、その本から言えること(だけ)をはっきりのべる。


こうした公開の応酬が、それぞれの本の価値を明らかにしていく。




書評は、いわば法廷での証言のようなもの。


嘘いつわりがあってはならない。


筆を曲げてはいけないという、緊張に導かれている。


その緊張をよくたどれたときに、書評の背筋が伸びるような気がする。




では書評は、ただ正確な批評をめざせばいいのだろうか。


私は、書評は、必ず褒めることにしている。


さもないと、読んで楽しくないだろう。


著者の言いたいことの核心を、評者が取り出して、読者のもとに届けるという、書評の伝達の径路も見えにくくなる。


褒めるとは、共感するということ、好きになるということだ。


著者の意見に賛成であろうと、反対であろうと、ともかく著者の側に立って、この本が書かれたことを喜ぶ。


そして、そのことに、嘘いつわりがあってはならない。




だから、褒めることがむずかしい本の書評は、原則として引き受けない。


なにか理由をみつけて、断れるなら断ってしまう。


褒めることと、公正、公平、正確、率直であることとは、矛盾しそうにみえる。


よく考えてみると、必ずしも矛盾するわけではないが、微妙なバランスを要する。


だからここにいちばん神経を使う。


うっかり褒めすぎれば、すべてがぶち壊しになり、著者にも失礼な結果になるのだ。




ところで、書評の特徴は、短い事である。




私が想定する書評の読者は、まず、その本の著者である


書評を書くとき、著者本人に読ませるつもりで書けば、できるかぎり正確に、公正に、公平に書くことができる気がする。


それでも、私の書評が、著者を100パーセント満足させることなど、まずあるまい。


なぜここを紹介しないのか、ここを書かないでどうするといった、不平や不満が聞こえてくる。


原稿の分量が限られているので、ごめんなさい、と内心で言い訳して、許してもらっている。


書評が短いというのは、だから、助かることなのだ。




というわけで、書評は、書き慣れるということがない。


書評はむずかしい。


もしも書評が、別な本の昔書いた書評と似てしまったら、それはマンネリである。


一回一回、本を最後まで丹念に読む。


そして、耳を澄ます。


聞こえてくるかすかな響きを手がかりに最初の1行を探ろうとする


これに、書評の作業の半分くらいの時間がかかると言ってもよい。




書評を書いてみる機会は、ふつうの読書家には多くないかもしれない。


だが、実は絵画のデッサンのように、勉強にはとてもよい方法だ。


最近は、ネット書評のような場も増えている。


気軽に、一般読者の目にふれるかたちで書評を書いてみる事もできる。


本書が機縁になって、さまざまな書評の書き手が増えてくれれば嬉しい



ものすごく真っ直ぐな文書で、頭がさがる。


かなり高次なアカデミックな印象を受けて


とっつきにくいのか?と思いきや


平たい印象を受けるものもあったりして


親近感が湧いてきたりと不思議な魅力を


備えておられる”本物のインテリジェンス”な方と感じた。


次の文章なぞ、インタビューということもあり、


口語体ということと高校生向けに優しく語っている為


肉声に近いからかもしれないけれども。


解説・論文とブックガイド


高校生のための「名著講読ゼミ」


インタビュー『進研ニュースVIEW21』1999.9


から抜粋



私は仕事柄、人の文章もよく読むわけ。


そうすると、思想や学問を扱った文章ってやっぱり斜に構えたものが多いんだね。


「俺はこんなことも知っているぞ、お前はこんなことも知らないだろう」とかね。


逆に十分分かっていないのに言い訳したり、隠したり。


余計なものがたくさんついているわけです。


私はそういう本を読む度にすごく腹が立った。


同じ書き手としても余計なものを外せば、もっと親しみやすいものができるはずだって思うようになったんです。




だから、88年に書いた『はじめての構造主義』という本では、そういう手練手管を一切外して、ものを書くように努めました。


これも頼まれたからやった仕事ではあるんだけど、若い人たちに向けて、易しく読めるということをかなり意識してやれたのではないかと思います。




本というものが、読めば読むほどお利口になるものだというのは幻想。


うまく読まなきゃだめなんだ。


だからただ読めばいい、というものでもない。


私だって仕事では読むけれど、読まなきゃいけない本を読んでるかどうか…。


ただ、読まなきゃいけない本かどうかは、読んだ後でしか分からないんですよ。




それでもあえて読書を勧めるなら、自分のこと、自分が考えてきたことを他人が書いていると思って読むとか、あるいは全く他人のこと、自分とは違う人の考えが書いてあるとか思って読めば楽しい。


いろんな読み方をしてみるといいんじゃないかと思いますね。




ルイス・キャロル(柳瀬尚紀訳)『不思議の国のアリス』ちくま文庫


小堀憲『大数学者』新潮選書


吉本隆明『改訂新版 共同幻想論


サミュエル・ベケット(安堂信也・高橋康也訳)『ゴドーを待ちながら』白水社


橋爪大三郎『はじめての構造主義』講談社現代新書


つげ義春『ねじ式』小学館文庫 



世界を読むから抜粋




金儲けがすべてでいいのか



  • 出版社/メーカー: 文藝春秋

  • 発売日: 2002/09/27

  • メディア: 単行本





『現代』2002.12から抜粋



天才的な言語学者チョムスキーが、経済のグローバル化を徹底非難する評論集


9.11テロ後にぴったりの内容だが、出版は1999年だ。




チョムスキーが反対するのは、新自由主義(ネオリベラリズム)という名の怪物である。


これは弱肉強食の、19世紀の帝国主義が再来したもの。


当時の帝国主義と違うのは、民主主義の装いをとっていることだが、そのなかみは「同意なき同意」にすぎない。


大企業がメディアを通じて繰り広げるプロパガンダに、人びとが操られているのが実態だ、という。




新自由主義は、ひと握りの金持ちがますます金持ちになる市場万能の政策で、大多数の人びとの人権は無視される。


そればかりか、アメリカの企業は利益を求めて世界に進出し、独裁政権を支持したり、第三世界の貧困を拡大させたりしている。


アメリカに対する全否定が、本書の基調である。




チョムスキーは、アメリカが世界の人びとを貧しくすると言う。


だが、もしもアメリカとその工業力が崩壊すれば、まっさきに生存が危うくなるのはその貧しい人びとなのだ。


60億を超える世界人口は、アメリカに象徴される高度な工業力なしに支えられない。


この現実を認めるなら、アメリカを非難し攻撃するより前に、アメリカの行動原理を丁寧に少しずつ組み換えるのには、どういう種類の忍耐強い努力が必要なのかを考えるほうが大切だ。



解説・論文とブックガイドから抜粋


「聖なる分離」の儀式


「『買ってはいけない』は買ってはいけない」所収 1999.10から抜粋



『買ってはいけない』という本は、その名の通り、これこれの商品は有害だから買わないように、というメッセージの本である。


有害なのは、主成分が毒物だったり、添加物が人体によくない作用を及ぼしたりするからだという。


このメッセージが広く受け入れられ、またたく間に百万部を越す売れ行きとなった。




ほんとうにそれらの商品が有害であるかどうか?


これは、科学的に検証するしかない問題である。


検証は、専門家に任せよう。


私は、その代わりに、「買ってはいけない」というメッセージが何を意味するか、考えてみる。




同じメーカー批判でも、『暮らしの手帖』の場合は徹底していた。


私は子どものころ、毎号読んでいたので覚えている。


洗濯機、掃除機、ベビーカー、…。


家電製品を中心に各メーカーの商品を集めて、毎号のように実験をする。


性能、安全性、価格、デザイン。


さまざまな要素が多角的に比較検討され、評価が下される。


買ってはいけないと評価される場合でも、厳格な実験データの裏付けがある。


なるほどと納得できる。


メーカーから文句が出たという話は聞かない。


これが、科学的な権威というものだ。




『買ってはいけない』は、実験をしない。


よそのデータを孫引きしているだけである。


メーカーがマスコミで一方的に商品広告をするのはけしからんというが、一方的な商品批判を商品として流通させている自分たちとどれだけ違いがあるのか。


これは、科学ではなく、政治ではないのか




私に言わせれば、何を「買ってはいけない」か気にする感覚は、いま地球上の人類をとりまく現実とあまりにもかけ離れている。


食品添加物の取り過ぎで死んでしまった人間が、何人いるだろうか。


それ以前に、食品そのものが手に入らないで飢餓線上をさまよっている人びとが、約10億人もいる



インターネット鼎談書評 から抜粋



■小林恭治


作家。1952年生まれ。


作品に『ゼウスガーデン衰亡史』『電話男』『モンスターフルーツの熟れる時』ほか。




■広瀬克哉


法政大学法学部教授(行政学)。


1958年生まれ。


著書に『官僚と軍人』『インターネットが変える世界』ほか。






夫婦茶碗(新潮文庫)



  • 作者: 町田康

  • 出版社/メーカー: 新潮社

  • 発売日: 2001/05/01

  • メディア: 単行本





読売新聞1998年4月27日



橋爪▼


たいへん面白かったです。


まずなんといっても、文体の妙。


切れそうでだらだら続く饒舌体というのは、会話を模したものだという説もあるそうですが、私は平安文学を思い浮かべてしまいました。




広瀬▼


「町田康風饒舌体」と呼ばれているそうです。


頭の無駄な回転の妙な過剰さというのか、切実なだらしなさというのか、力の抜けた勢いみたいなものに流されて一気に読み切ってしまいました。


『夫婦茶碗』の結びの、<わたしは負けない。茶柱。頼むよ。立ってね。茶柱。/わたしは夫婦茶碗に茶柱を立てる。/立ててこます。>なんか、よくこんなフレーズが出てくるなあ、と感嘆する。




小林▼


こういう、端的にプロットをたてず、文章の流れに忠実に話を進行させてゆく形式は、1970年代に仏で流行したヌーボー・ロマンの系譜だと言えます。


ヌーボー・ロマンは一時期脚光を浴び、日本の多くの詩人が多くそれ風の習作を発表しています。


元歌手・詩人の町田氏は、そのあたりでこの技法を習得したのではないか。


筒井康隆さんの小説の影響もかなり顕著な気がする。




橋爪▼


町田さんの年代から言うと、むしろ私が「影響あるかも」と思ったのは、(しゃべるように歌う)ラップです。




広瀬▼


町田さんは62年生まれで、70年代末頃までにはパンクロックのバンド活動を始めているというから、まだまだヌーボー・ロマンにかぶれた世代に近いのでは?とはいえ、町田さんはバブル時代末期ごろからしばらく図書館の本を全部読むというような生活をしていたそうですから、あまり時期とか世代にこだわっても、的外れになるかもしれません。




橋爪▼


私はこの本に、ストーリーのにおいを嗅ぐ思いがした。


パンクは若者の言葉にならない感情・体感のようなものをリアルタイムで言葉にします。


それはラップに受け継がれていると思う。


町田さんは小説という形式を借りて、そのナマのラップをやっているんじゃないか。




小林▼


町田氏が物語の解体という流れに乗っているのは確かで、それの始まりとなったのが、ヌーボー・ロマンであると考えれば、両者の血縁関係はやはりあると思います。




ある意味で、ひじょうによくこなれたポストモダンが町田康の小説なのではないかと思います。


その意味ではラップもまた、こなれたポストモダン音楽なのでしょう。


そのこなれたポストモダンがパンクロッカー出身の小説家から登場したのは象徴的だと思います。




橋爪▼


興味ぶかいのは、そのポストモダンの小説が、コンビニ世代の卑近な日常と完全にマッチしている点です。


この小説の根本にあるテーゼは、世界は自分の意思通りにはならないという偉大な事実の確認だと思う。


消費社会がふりまいた幻想は嘘っぱちだと町田文学は言う。


私はそこにリアリズムを感じる


バブル以降の90年代特有の、この社会の水脈をつきあてている部分があるように思ったのです。




小林▼


ヌーボー・ロマンもリアリズムを否定してません(ロブ・グリエは例外)。


町田氏がリアリズムを獲得しているのは、小説形式というより彼の才質、作品の質の高さによっていると思います。


リアリスティックにみえるのは、それだけの作品だという証明でしょう。



知の前線を読むから抜粋




分類という思想 (新潮選書)



  • 作者: 池田 清彦

  • 出版社/メーカー: 新潮社

  • 発売日: 1992/11/01

  • メディア: 単行本





産経新聞1992年12月10日



注目の構造主義生物学者・池田清彦氏の新著である。


《現在、生物分類学の分野では分岐分類学と呼ばれる学派が世界的に流行している。


しかし私には、この学派の方法論が合理的であるとも科学的であるとも思われない。…本書は現代生物分類学批判の書》(「はじめに」)である。


生物学にまるでうとい私だが、引き込まれるように読み終えてしまった。




本書はまず、分類とは何かを考えるところから始まる。


素朴に考えればそれは、種々のものに名前をつけて整理(分類)することだ。


だが、よく考えればそう単純でない。


名前のつけ方も分類も、人間の恣意的営みにすぎない。


人間が勝手に名前をつけるから、動物や植物といった実体があるように思えるだけである。




次に池田氏は、アリストテレス、リンネ、キュヴィエらの古典的な生物分類法の考え方を吟味する。


分岐分類学は、もともと進化論と関係なかったリンネの階層分類と、進化の系統にもとづく分類とを折衷したもので、矛盾だらけというのが著者の見解だ。




生物を、進化の道筋を規準に分類しようと考えるのはいい。


しかし、進化の道筋を見た者がいない以上、それは推定するしかない。


推定は、生物の形態を手がかりにする。


要するに、生物の形態を手がかりに分類しているだけなのだ。


しかも、分岐分類学は「再節約原理」という方法を用いるが、そこから得られる結論が、実際の進化と一致する保証はない。




著者の批判は論旨が明快で、説得力がある


本書から私が強く感じるのは、健康な知のラディカリズムの躍動だ。




ものを考える場合に、ことがらの根本にさかのぼって、既存の思考の枠を乗り越えようとするのが、知のラディカリズムである。


池田氏は、人間がものをみる態度の根本に、分類という活動をさぐりあてた。


科学もこの態度の延長上にあるほかない。


分類が「思想」であると氏が言うのは、そのことを指している。


その上で池田氏は、生物の「科学的」な分類は、われわれの自然な分類と齟齬をきたさないものであるべきだと言う。


《①自然分類群は、それを認識したり命名したりする人間(別に分類学者でなくともよい)がいて、はじめて存在する。②自然分類群は自然界に自存するものではないから、我々が創造すべきものである》(217頁)。




言われればその通りであるが、われわれはつい、学校で習った通りに、哺乳類や軟体動物といった実体が、自然界に存在すると思いがちだ。


それが「思想」にすぎないことーーーそれがきちんと腑に落ちれば、われわれは科学の呪縛から解き放たれるのかもしれない。



養老先生の書評も説明できないけど


”凄い”ものがあるけれど


橋爪先生のも違う”凄さ”があると感じる。


こういうのが”書評”なのだろうなあ。


真剣勝負のような切れ味で迫ってくる。


かと思えば、『BT美術手帖』に掲載された


「とんでもない人びとのどうしようもない3冊」という


書評があったのだけど、それは怒り心頭で


申し訳ありませんが大爆笑させていただきましたが


ここには引かないでおかせていただきつつ


本日も早番ですでに起床時刻から


12時間以上経過しているがゆえ


瞼が重く、空腹感に襲われつつも真剣に


タイピングさせていただき


読書の楽しさを満喫させていただいている


今日この頃を思う次第でございます。