ぼくにとっての学校―教育という幻想



  • 作者: 日高 敏隆

  • 出版社/メーカー: 講談社

  • 発売日: 2023/07/17

  • メディア: 単行本




昨日は日高先生を日高先生たらしめている

きっかけを考察・研究したのですが


”文化”についてを日高先生の考察・研究を


読んでみた。


11章 文化とはなにか


「遺伝」対「文化」から抜粋



エソロジーのほうからみると、遺伝的なもの、昔は大ざっぱに本能といったけれど、要するにその動物がもっている遺伝的なものは、かつてぼくが『プログラムとしての老い』で述べたとおり、プログラムというかたちをとってそれそれの個体に備わっている。


個体は生きていきながら、周囲の環境や状況から、あるいは食べ物を食べるというような行動の中でいろいろなことを取り込みながら、遺伝的なプログラムを具現化していっている。




それによって生まれた赤ん坊が大きくなっていき、少年少女になり、青年になって、性的な生殖行為をして子供を作っていく。


その子供がまたこのプログラムにしたがって、また大きくなっていく。


これをずっとくりかえしているいる。


それで人間という種が今まで存続してきたということになるわけです。


当然そこには学習というものも入ってくる。




昔は学習というものは、遺伝的なものとは別個のものであって、それとは対立するものであると考えられていた。


だからいつも「遺伝か学習か」ということが言われていた。


そして、辞書にあるように、遺伝的なものでないものが文化であると考えられてきた。


つまり、遺伝と文化も対立するものだった。




ところがその後、学習というものも遺伝的プログラムの中にちゃんと組み込まれていて、プログラムとしてみると、大人になったら自然にできるようになっているという場合もあるし、鳥のさえずりのように学習しなければならない、つまりこれを学習せよという指示が遺伝的プログラムの中に入っている場合もある、ということになってきた。




遺伝と学習というものは、相対立するものではなくて、遺伝的プログラムが学習によって具現化されていくものだと、そういう認識になってきた。


かつでの「遺伝か学習か」という問いは、問題の提出のしかたが間違っていたということになるわけです。


これとまったく同じことが、文化についても言えるのではないか


それがぼくの考えてきたことです。



具体化のための学習 から抜粋



人間はいろいろなことをする。たとえばものを食べなければ生きていけない。


遺伝的プログラムとしては赤ん坊は大きくなっていくというようにプログラムされているが、ものを食べなければそうはならない。


そして現実に、赤ん坊は空腹を感じてものを食べる。


プログラムはそのようにできているのです。




けれど、ものを食べなさい、そして育っていけということは遺伝的にプログラムされているが、なにを食べるか、どう食べるかということは学習しなければだめなのです。


そういう具体的なことはまわりの文化の中から学習しなさいというようにプログラムされているらしい。




そうすると、ものを食べるというのは基本的な遺伝的プログラムだが、それをどのように具体化していくかは、その個人が属している文化の中で決まってくるということになる。




そうすると文化というものは、遺伝的プログラムを具体化するためにあるというふうに言えるわけです。



文化のちがい から抜粋



これはぼくが昔言っていた代理本能論、文化は代理本能であるという説に、ある程度通じるところがある。


たいていの動物では具体的な細部に至るまで遺伝的に組み込まれているから、それを学ぶことはないし、その必要もない。


しかし人間ではその遺伝的組み込みが非常に少ない。


動物の場合だと、怒ったときはどういう表情をするとかどんな行動をするかとかいうことが決まっている。


イヌはうれしかったら尾をふる。


ネコだったらゴロゴロ喉を鳴らすということが決まっている。


ところが人間の場合はそれがはっきり決まっているかどうかよくわかならい。


ある人間の、ある文化の中にいる集団の人々が怒ったときには、てんでに、ある人はこういうことをやり、ある人はこういうことをやると、何がなんだかわからなくなる。


文化によって一つの型を決めて、その枠を押し付けることによって、その集団の中の人々が互いにわかりあえるようにしているのではないか




だとすると、人間における文化というのは、動物たちのいわゆる本能の代理をしているのである。


つまり人間は文化によって他の動物よりも偉くなった


一段高い存在になったということではなくて、人間は文化によって、やっとほかの動物と同じことをしているのだと、ぼくは言った。


それがぼくの、文化は代理本能であるという考え方です。




ただ、ぼくがこれを考えたときは、学習が遺伝的プログラムの一環であるということはまだわかっていなかった。


だから、今になってみると、これはどうも的はずれだったように思える




要するに、人間は食べて大人に育っていくとか、あるいは異性を好きになるとか、人生のいろいろなことの大筋は遺伝的プログラムされているけれども、個人個人がそれを具体的にどういうにするかということは、まわりの人々がやっていることから学んでいく




それによってそういう遺伝的プログラムが具体化されていくので、どの民族どの文化の人々もみな、結局は子供から大人になり、するべきことをして、自分の子孫をつくり、その結果、人間という種族が維持されてきたのだということになる。


そうすると文化というのは遺伝的なものと対立するものではやはりないのではないか


遺伝的プログラムを具体化するにはいろいろなやり方があり、そのやり方の違いだということになるのではないか。




すると、文化というものは一見違いがあるけれども、人間という種の遺伝的プログラムはみな同じはずだから、具体化のしかたが文化によって違うというだけの話である。


底には基本的なものがあるので、その違いばかりを強調してきたように思われるが、結局それは遺伝的プログラムの具体化にどう役立っていて、それによって同じ遺伝的プログラムがどういうふうに具体化されているかの違いだけなのであって、基本的には同じことをやっているのではないか。


それがぼくの発想なのです。




こういう文化の見方というのはいわゆる文化系の人々からは言われたことがないような気がする。


動物行動学は遺伝の問題を扱うのだから、文化の問題は扱わない、したがって文化のエソロジーということはあり得ないといわれたが、そうではない。


文化もエソロジー的にとらえてみることはできるはずである。




文化の違いはもちろんあるが、それによって具体化されている人間という動物の種の基本的な遺伝的プログラムは同じである。


そうすると、文化がいくら違って、やっていることが違うように見えても、究極的にやっていることは、人間である以上みな同じであるはずだ。


それはいったいなんなのか。そういう問題になっていくのではないか。




そういう立場に立って、人間のやっていることを考えていってこそ、人間が昔から同じことを繰り返してきて、歴史は繰りかえすというようなことを言われるし、歴史から学ぶというようなことも言われること、文化は違うけれどもどこでも戦争が同じように起こっていることなどが、少しは理解できるのではないかというふうに思っているわけです。



”代理本能論”というのは的はずれだった


という告白。


提唱者ならよくあるのだろうけれど


潔く撤回し研究を進めるってのは


人格者のなせる技なのだろう。


日高さんの書を読んでて思うことは


学問を高めたいのであって、自分の論理を


ゴリ押ししたいわけではない


っていうことで、学者さんに限らず


リアル人生にもそうでありたいと思った次第、


”グローバル”、”ダイバーシティ”を


好む好まざるに関わらず


受け入れていかざるを得ないこれからの


日常生活において、この日高先生の研究は


大変価値がある。


自分はそう思った。


それにしても今日の暑さも尋常じゃないよ、


災害レベルだってニュースでも言ってました


関東地方でございます。