「第1章「だましだまし」の知恵」から抜粋



■養老


建築の法規もそうだけど、被災地の再建法も一律というのは、おかしいですよね。


 


■隈


地盤と、地震波と、建築の振動数の相関関係から計算すると、もっと細かい建築が成立する土地もあるわけです。


そのような土地では建物の柱を細くしてもよいことにすれば、資源やエネルギーを無駄に使わなくて済む建築が可能になります。


逆に、もっと柱を太くしなければならないところも当然あるでしょう。


 


■養老


そういう計算は面倒なものなんですか。


 


■隈


全然、難しくないんです。


超高層ビルなどの特別な建物は「建築評定」というプロセスを通らなければならないという決まりがあって、そこではいろいろと綿密な計算を求められます。


ところが、評定がかからない建物は基準が一律で、パソコンですぐに計算できるようになっています。


それには、地盤の性質や建築の固有振動数といった要素は全く入ってきません。


でも、普通の小さな建築でも、そういった要素を取り込んで計算することは、今の技術レベルなら簡単なんです。無意味な一律の基準をやめて、それぞれの土地で細かく計算して「だましだまし」やるという方法も今なら十分可能なんです。


 


■養老


その「だましだまし」という姿勢は大事なことですよ。



「第2章 原理主義に行かない勇気」から抜粋



■養老


コンクリート建築の信用性というのは、社会や国などの信用性につながっているということですか。


■隈


間違いなくつながっています。


特に日本の大工さんは技術力が高くて、ベニヤを手早く組み立てることができた。


それが逆説的にまずかったのかもしれませんが、建築家がどんなに勝手な造形で図面を描いても、日本の大工さんがいればたちまち世界で一番きれいなコンクリートが打ち上がるんです。


建築家の妄想みたいなものを実際に形にしてくれる、素晴らしい職人さんがいたわけです。


(中略)


■養老


コンクリートでできていれば安心だ、という「コンクリート神話」が消費者側には確実にあるでしょうね。


 


■隈


これも逆説的ですが、中身が見えなくて分からないからこそ、強度を連想させる何かがある


生活の危うさとか、近代の核家族の頼りなさのようなものを支えてあまりある強さを感じるのかもしれません。


そういう何かにすがりたいという人間の弱い倫理につけ込んだ、詐欺のようなところがコンクリートにはありますね。


石やレンガの積み方はひと目で分かりますから、こちらは欺きようがない世界です。


でもコンクリートは完全に密実なる一体で、壊しようがなく、圧倒的強度があるようにみんな思い込んでしまう。実は中はボロボロかもしれないのに。


 


■養老


なぜ日本の都市建築では木をもっと使わないのでしょう。


 


■隈


それは関東大震災と、太平洋戦争のトラウマですね。


木造の建物が燃えて多くの人たちが亡くなったわけですから。 



「第3章「ともだおれ」の思想」から抜粋



■養老


現代人は感覚が鈍いですから。


自分の感覚が鈍いということも気がつかないくらい鈍いんです。


だから、身体が感受している情報を、意識の方が無視してコンピューターを信用したりするんだよね。それは大きく言うと、この社会を覆う「システム問題」と一緒です。


あるものを形作る非常に複雑な要素を、頭が無視している。


身体と意識の乖離は、医者をやっていると良くわかりますよ。


死にそうになっていたって、気が付かない人がいるんだから。


でめえの具合が悪いというのにね。


(中略)


■養老


意識というものが、あることは拾うんだけれど、あることは拾わないようになってきている。


しかも現代生活をしているとどんどん鈍くなってきちゃうんです。


 


■隈


だいたい、今どきの日本人って、変わったシチュエーションに置かれないでしょう。


例えば、先生の鎌倉のお宅に行く道は、でこぼこのある石畳でしたが、街では同じ堅さの平らな地面しか歩きませんから。


 


■養老


「土木・建設関係の人はなんでこんなに舗装するんだよ」と、いつも僕は文句言っています。


それこそ、着る物もいっぱいあれば、靴だって何十足も買えるような時代なんだから、泥だらけの地面を歩けばいいだろうと思うんです。


汚れたら洗えばいいだけなんだし、俺だって洗濯くらいできるよ、と言うんだけど、分かってくれない。


 


■隈


僕も、均等なきれいさから逃れる建築を試みているのですが、そう思っていてもすごく大変で(笑)。どんどんバリアフリーとかユニバーサル何とかになって、2ミリの段差も許さない、と言う不自然な社会になっているんですよ。


 


■養老


2ミリって段差っていうのかね。


(中略)


■養老


僕の言っていることって、現代文明への文句ばかりでしょう。


「じゃ、養老先生はどうしろとおっしゃるんですか」


と責められることもあるから、何とか審議会とか講演会なんかで、建物や街並みを語るときに、あらかじめ口封じで「一つだけ具体的な提案を申し上げます」と言っておくの。


「今後、新しい公共の建築物、ないしはご自宅を


新築なさるときは、全て階段は一段一段、幅と高さを


変えられたらよろしい。


そして、それをバリアオンリーの建築といえばいい」と(笑)。


 


■隈


荒川修作さん(現代美術家・故人)が設計した「養老天命反転地」(岐阜県養老町)のようですね。


養老天命反転地で来園者に骨折する人が続出したとき、「人間、骨くらい折ってみた方がいい」と荒川さんが返したというエピソードがあります。



「第4章適応力と笑いのワザ」から抜粋



■養老


地震という自然要因だけで大変なのに、エネルギー問題をどうするかについてまで考えると、頭が痛くなります。


都市に人口が集中した方がコストの面ではメリットがあるけれど、そうすればいいとは簡単に言い切れないですよね。


インフラだけに限って言えば、集中すればコストは安くなりますが、都市の在り方としてそれば望ましいのか。


だから最終的には、人の生きる世界が二極化していく可能性があるなと思っています。


田舎で自給自足し、地産地消型で生きていく世界と、


都市でできるだけ物流を効率化して生きていく世界の二つです。


 


■隈


それは昭和初期の東京と地方の在り方とは違うんですか。


 


■養老


時代云々にかかわらず、いつでも人間の社会は基本的にそうです。


ただ、それがさらに極端に分化するしかないだろうと思います。


だからその両極端がケンカするとまずいんだよね。


都市が田舎を支配したり田舎が都市を支配したりする格好になると、具合が悪いことが必ず起こります。


だから僕は両方を行ったり来たりして暮らす、「参勤交代」を今から勧めているんですよ。


都市と田舎の二つの世界をバランスさせることが、おそらく一番効率がいい。


これが結論になるんじゃないかな。


 


■隈


そのバランスの支点をどこに置くかが肝心なところですね。


 


■養老


今の人に考えさせると、俺はこっち側にすると、すぐに結論を言ってしまいます。


でも両方を適当に行ったり来たりでいいんじゃないですか。


都会に住んでいる人でも、1年のうちに、あるまとまった時間を田舎で過ごす、とか。


日本なんか小さい国なんだから、そういう実験には非常に向いているはずなんです。


なのに、日本が地球温暖化対策のリーダーシップを取るとか、政府はバカなことを言っていてさ。


第一、リーダーシップって言葉時代がおかしいよ。


モデル国家になるというならまだ分かる気がするけども。


人が真似しようと、しまいとそんなのよそのみなさんの勝手でしょう。


炭酸ガスを減らしましょうなんて、日本が音頭をとる必要はないですよ。


だって日本が出しているんじゃないんだから。


どうしてそんな当たり前のことを、この国では言えないのかね。



以下、最後の引用は、お二人の仲を取り持つこととなる、


隈さん著作の「負ける建築」のあとがきから。


養老先生おっしゃるにお二人は、学生時代の先輩・後輩にあたるようで、


キリスト教系の厳しい教育だったから尚更なのかもしれないが、


時期は違えど同じ道に行ったにもかかわらず、


何か分かるという”触覚”がピンときたご様子で。自分もこの本のタイトルすごいなと思ったんだけど。


負ける建築:隈研吾著(2004年) 岩波文庫版のあとがきから



普通の時代には、建築は新しく作る必要はめったに起こらない。


今すでにある街、今すでにある建築を、少しづつ手直ししていくというのが、建築の普通の在り方であり、建築家の普通の仕事のやり方である。


そんなものは建築家ではなくて、ただの修理屋だろうというならば、建築家という名称は、もう返上してもいいと思う。


特殊な時代の特殊な職業でした。もう必要ありません、お返しします、と。


そうなったとしても、修理屋の仕事は充分に楽しいだろう。


そして実際に僕がやっている仕事のかなりの部分は、修理、修繕のデザインであり、それはとてもやりがいがあるし、高度な経験・知識を必要とする知的な作業である。


修理屋はみんなを幸せに、街をより住みやすい場所にするために、かなり役立っている


このテキストは、慌ただしい時代から、そのような静かで地味な時代への、転換のドキュメンタリーである。


2018年9月 隈研吾



これ、よくわかる。「建築家>修理屋」って公式、頭くるけど、甘んじて受け入れるっての。


余談だけれど、隈さんの公式と重ねるのも大変僭越ですが、自分も似たような境遇だったというか。


(建築系ではないのだけど)


その時は正直良い気分ではなかったですけど、


わかる人はわかればいいわ、生活もできてるし


程度であまり深刻に考えてなかったけど、


このあとがき読んで、なんか「分かる」気がして、


昔を思い出すってことは、今も自分の中にしこりが残ってるってことなのか。


ああすればよかったのか、なんて。


ま、今は全く関係ない仕事なんで、良いと言えば良いんだけど、


看過できないので引いてみました。


要は、仕事は現場が一番実りある、それを分かってない輩が多いと


労多し、ってことかなあと。


それと社会の「役に立っている」という自負なくして「仕事」とはいえないなあと感じた。