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三島由紀夫の言葉 人間の性(さが)至極の名言集:佐藤秀明編(2015年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


三島由紀夫の言葉 人間の性 (新潮新書)

三島由紀夫の言葉 人間の性 (新潮新書)

  • 作者: 佐藤 秀明(編)
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 新書

稀代の小説家であることは疑いようのない事実で、


そら名言も沢山あろうぜよ、と思うけれど、


この書籍を購入するに至る理由の一つは、小説以外


随筆とか新聞寄稿など、いわゆる純文学としての原稿以外から


拾っている希少性(レア)の強いものが沢山含まれている事と


最大の理由は、編集された佐藤秀明さんの感性で括られている


各名言集たちを紹介する「まえがき」にあると云っても良い。


と三島由紀夫風の書き出しにしてみました。


(どこがだよ!)


 


「男女の掟」で括られた名言のまえがきから佐藤さんの言葉


戦後、結婚の自由、恋愛の自由、セックスの自由が順次謳歌された中で、三島由紀夫は、「自由」を認めつつも、タブーの消滅がエロスの減退に向かう危険を察知していた。

それが恋愛や性や結婚についての皮肉な眼差しとなって表現されることになる。

男らしさ、女らしさの過剰な強調も、異性愛エロスの昂進を望んだからであろう。

しかし、現代の目からすれば、男らしさ、女らしさというジェンダー化は、いささか滑稽ですらある。

三島は、文学作品では、「仮面の告白」「禁色」で男性同性愛を描き、「春子」でレズビアンを、「鏡子の家」でサディズム・マゾヒズム、「幸福号出帆」「音楽」で兄妹相愛、「金閣寺」で性的不能、「沈める滝」「音楽」で不感症を描くなど、多様な性のあり方を知っていた。

これらが単なる小説的設定とは思えない。

にもかかわらず、随筆や評論では男と女を分け、本質主義的な思考を展開している。

なぜだろうか。

おそらく三島には、自己の性志向についての不安があり、それが旧来のジェンダー秩序を求めることになったのではないかと推察される。

恋愛・結婚・セックスは、後年「ロマンチックラブ・イデオロギー」と呼ばれ批判的に検討されることになるが、この三点セットが人々の間でまだ輝いていた時代に、三島はなかなかの大人の目を持ち、冷たく突き離して論じている。

ちなみに三島由紀夫の結婚は、33歳の時で、見合い結婚だった。


「男女の掟」で括られた名言から三島さんの言葉


この世の中にはいろんな種類の愛らしさがある。

しかし可愛気のないものに、永続的な愛情を注ぐことは困難であろう。

美しいと謂れている女の人工的な計算された可愛気は、

たいていの場合挫折する。

実に美しさは誤算の能力に正比例する。

「好きな女性」(「知性」昭和29(1954)年8月)


子供が可愛くなってくると、男子として、一か八かの決断を下し、命を捨てねばならぬ時に、その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、卑怯未練な振舞いをするようになるのではないかという恐怖がある。

そこまで行かなくても、男が自分の主義を守るために、あらゆる妥協を排さねばならぬ時、子供可愛さのために、妥協を余儀なくされることがあるのではないか、という恐怖も起る。

主義を守り通すためには、まず有り余る金があればいいのだが、その有り余る金を稼ぐには、主義の妥協が要る。という悪循環は、子供のお陰で倍加するであろう。

「子供について」(「弘済」昭和38(1963)年3月)


「芸術の罠」で括られた名言たちのまえがきから佐藤さんの言葉


芸術には毒がある、ということはたぶん誰でも知っている。

しかし、芸術の毒の効き方に精通している人はそう多くはないだろう。

そこらの物質的な毒と違って、芸術の毒は、摂取した人の気のもちようで効き目が変わるという性質を持っている。

文学や芸術を愛する人にとっては、毒の効用をこの上なく的確に説明したこの三島由紀夫の文章は、間違いなく至言の宝庫である。

拳々服膺(けんけんふくよう)し、読むだけでなく、ペンか筆を執って書き写して毒にあたるのがよろしい。

ーと書くと、芸術を教養主義的な興味で捉えている人を鼻白ませることになる。

芸術の毒を偏愛するのは自傷行為と同じで、高い芸術性を受け止め損ねるはずだというのである。

人には自己防衛本能があるから、毒を摂取しても、毒の味覚を意識しなければ体外に排出してしまうのである。逆に過剰に反応して、「生活」を破壊してしまう人もいる。

三島の芸術論は、自己防衛する人には勇気を、自傷的な意識過剰の人には、自己を相対化する論理を差し出している。

では、当の三島は、芸術の毒をどう受け止めていたのか。

三島は生来毒に強い素質を持ち、幼児から毒に慣れ親しんでいた。

この二つのことによって、毒を快楽とする抜群の体質を保持していたと思われる。


「芸術の罠」で括られた名言の中から三島さんの言葉


引用文などというものは自分に都合の良いことか、弁駁(べんばく)するのに都合の良いことしか引用しないもので、世の引用文のまやかしは引用者のさもしさを人に見られないための仮面に役立つことである。

「戯曲を書きたがる小説書きのノート」(「日本演劇」昭和24(1949)年10月)


弁駁とは「他人の言論の間違いを正す」とのこと。


そのつもりは毛頭ないが、このブログは引用でほぼ成立


三島さんの言葉を借りると、


自分のさもしさを見られたくないための


仮面なのだろうか。


いやいや、見られたいからブログなんだろう。


考えると疲れるからやめよう。


余談だけど、三島由紀夫を語っている方たちは、


星の数ほどいらして、ついていかれないのですけれど


客観的でかつ、現代の言葉・感性で、しかも


自分に響く言葉で論じられている人って


この佐藤秀明さんと松本徹さんのお二人が


ダントツに面白いし


自分に合っている気がする。


最期があまりにも壮絶なため、ものすごく誤解されているきらいが


あるのですよね、三島さんって。


いささかの誤解も生まないような芸術は、はじめから二流品である。

「川端康成読本序説」(昭和37(1962)年12月)


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