はしがき から抜粋
古典に親しむことによって、日本文化の伝統にあらためて開眼(かいげん)し、感嘆する人も数多(あまた)いるはずである。
日本の三大随筆と言われる『枕草子』『徒然草』それに『方丈記』は、それぞれ、自分の時代を個性的に生きた人たちの記録である。
そして、なかでもこの『方丈記』には、個性的すぎるほどの人間くささが感じられて興趣(きょうしゅ)は尽きない。
『方丈記』『無名抄』の作者について
鴨長明の生涯
鴨長明の周辺
から抜粋
鴨長明の正しい読み方は、「かものながあきら」とすべきで、「ちょうめい」は音読したにすぎない。
通称は菊大夫(きくだゆう)といった。
生まれた年は仁平(にんぴょう)3年(1153年)とも、久寿(きゅうじゅ)2年(1155年)ともいわれ、はっきり断定はできない。
父親の長継(ながつぐ)は、京都の賀茂御祖(かものみおや)神社(下鴨神社)の正禰宜(しょうねぎ)であった。
正禰宜とは神職の階位をあらわすのだが、神職全員を統率する高い地位をいう。
『方丈記』について
2.『方丈記』の内容と鑑賞
長明の精神面の軌跡
から抜粋
『方丈記』に関係のある長明の精神面の軌跡をたどってみると、どうなるであろうか。
彼を出家にしむけた最大の理由が、神職に就任できなかったことにあるとすると、ここでは人生への失望・痛恨・挫折等など悲運のどん底にあったであろう。
出家してから。彼は大原・日野と自然の中に埋没し、自己の内面を凝視した。
その結果、都の生活とはうってかわった気ままな暮らしに満足を覚えたのであった。
しかし、この満足感は心からの十分な満足ではなく、むりな自己満足の色合いが濃い。
はたして長明は、方丈の庵の生活に執心する自分を反省して終わるのである。
要約すれば、神職就任に失敗し挫折→自然(山林)生活によって内面凝視→自己満足→自省心という軌跡をたどったことになる。
”自己満足”のところが一番自分には響きまして
”自省心”までいかなくとも『方丈記』はとても
好きな随筆でございます。
長明さんにしたら、”自己満足”で
終わっては意味がないんだよ
ってことなのかもしれないが。
出家しているからか、どうしてもその
”自省心”のところは
自分はまだその境地に立てない。
で、”自己満足”のところをピックアップしてみた。
《原文》《通訳》《要旨》の3種なのでございますが
これは断然《原文》が良い。
《通訳》《要旨》を読んだ上で、ってことが
前提なのでございますが。
なので、《通訳》《要旨》《原文》という
順番で以下に引いてみた。
17 閑居の気味(その三)
《通訳》
そもそも、三界とよばれるわれわれをとりまく現実の世界はもっぱら心の持ち方ひとつでどうにでもなるものだ。
人間の気持ちがもし安定していないならば、貴重な象や馬の宝物も、金銀などの珍品も何の役にもたたず、宮殿・たかどのなどのりっぱな建物に住んでも何にもならない。
今、私のいる静かな環境の住まい、そしてたった一室のせまい家に、私自身はとても愛着を感じている。
何かのついでに、都に出かけて、私が粗末な身なりで乞食のようであることを恥ずかしいとは思うけれど、ひとたび日野に戻ってここにいる時は、かえって他人様が世俗の欲目にあくせくするのを気の毒に思った。
もし、あなたが(私の)今まで述べてきたことを疑問に思うならば、魚と鳥とそれぞれの生活ぶりを見よ。
魚は水の生活に十分に満足している。
魚でなければ、その気持ちはわからない。
鳥は林の生活を望んでいる。
鳥でなければ、その気持ちは理解できない。
静かな暮らしのしみじみとした味わいもまた同じこと。
そこに生活してみないでだれにわかるであろうか。
わかろうはずがない。
《要旨》
われわれをとりまく現実の世界は、その人の心の持ち方でどうにでもなるものだ。
心が安定を欠くと、貴重品も珍品も価値はないし、どんな大邸宅に住んでも空虚である。
私は今住んでいる日野の家が、どんなにさびしくとも、せまくとも好きである。
ここにいると、都で名誉、名利のためにあくせくする人たちが気の毒に思える。
魚は水の、鳥は林の生活に十分満ち足りていることからみてもわかるように、私は日野の方丈の住まいに満足している。
その気持ちは、ここに住んでみなくてはわかろうはずもない。
《原文》
それ三界はただ心ひとつなり。
心もしやすからずは、象馬・七珍もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし。
今、さびしきすまひ、一間の庵みづからこれを愛す。
おのづから、都に出でて、身の乞丐(こつがい)となれることを恥づといへども、帰りてここにをる時は、他の俗塵(ぞくじん)に馳(は)することをあはれむ。
もし、人このいへることを疑わば、魚(いお)と鳥とのありさまを見よ。
魚は水に飽かず。
魚にあらざれば、その心を知らず。
鳥は林をねがふ。
鳥にあらざれば、その心を知らず。
閑居の気味もまた同じ。
棲まずして誰かにさとらむ。
《原文》は短い単語でリズミカルで心地よい。
それがこの随筆の醍醐味なのだろうことは
周知の事実なのでございます。
それにしても鴨長明さんの生涯は
複雑で浮かばれなかったというのは
余計なお世話と思うし、浮かんだか沈んだかは
己次第なのだよ、と言われているような気もする。
たった一人でいいから理解者がいたら
また違っただろうと思うが、そうすると
「方丈記」自体を書くこともなかっただろう
ことを思うとこちらが複雑な気持ちに
なりますなあと。
表現行為というのはつくづく容易ならざるものを
背後に忍ばせているのだなあと感じた。
余談だけれど長明というのは「ちょうめい」
ではなく「ながあきら」だというのは
存じ上げておりましたが
通称「菊大夫(きくだゆう)」ってのは
数多く「方丈記」関連を読んできて
この書で初めて知った。
というか、”通称”って何だろう、と思いつつ
朝の5時起きでの仕事だった本日、仕事前
コンビニの駐車場で読んでいた時から
花粉で強く喉が痛痒い1日でございました。