生態学と社会―経済・社会系学生のための生態学入門



  • 作者: 伊藤 嘉昭

  • 出版社/メーカー: 東海大学

  • 発売日: 1994/03/31

  • メディア: 単行本




まえがき から抜粋



日本は、毎日の主食にさえことかく敗戦直後の状況から、50年近くを経て、アメリカと世界の一位を争う経済大国となった。


その急激な成長の中でいわゆる「日本たたき」が始まっていることも、新聞紙上を見る通りである。


日本の経済成長には多くの後ろめたい側面もあるが、ただ一つ誇って良いことをあげれば、軍事予算の抑制こそが成長の要であったということだだろう。




しかし日本は急成長のなかで、その被害が日本語で通用することとなった、大きな公害を引き起こしてきた。


有機水銀汚染による中毒は世界で、Minamata Diseaseの名で通用し、PCB中毒は Kanemi Diseaseと呼ばれるのである。


日本におけるその悲惨な犠牲者は数万人に達する。




しかも、こんにちの急速な国際化は、さらに新しい問題を投げかけている。


この金持ち大国がこれまでのような環境汚染と自然破壊、野生生物保護無視の政治経済を続けるならば、世界からの強烈な攻撃が引き起こされるに違いない。




生態学の教科書はふつう個体群生態学から群集生態学へ、あるいは環境、個体群、群衆の順で記述される。


しかし本書では現在大問題の熱帯雨林の問題から入ってまず群衆構造について述べ、それから人口問題を含む個体群生態学の問題に進み、のちにまた群衆生態学に戻ることにした。


また、これまでの日本の初級生態学教科書、入門書にはまったくない、行動生態学ないし社会生物学についても記したが、それはこの学問が人間を考えるうえで大切であること、およびこの学問によって生態学のこれまでの分野にも大変動が生じているためである。


そして、この後で再び個体群などの問題に立ち返った。




社会生物学の人間への適用には強い批判もある


私は慎重であることが必須ではあるが、これも考えるべき課題だとの立場をとった。


しかしまったく慎重でない、というか悪用としかいえぬ対処、すなわち今ひどく売れている竹内久美子の著書における「社会生物学的」王政賛美、男の浮気賛美などへの批判も行った。


これらを通じて企業マン、行政官もあまり負担を感ぜずに生態学の最低の基礎を知りうることを目指した。




1994年1月7日


伊藤嘉昭



第18章 社会生物学の悪用・竹内久美子批判


18−3


ドーキンズの「限定付きの希望」


から抜粋



たしかに彼の本には、福祉政策の矛盾の指摘など、人間の自由・平等にとって暗い話がいろいろ出てくる。


しかし日本ではほとんどいない社会生物学論を書く倫理学者である川本隆史が『現代思想』の粕谷論文と同じ号に書いたように、ドーキンズは


「人間の脳は、遺伝子の指令に反逆できる力さえ持って」いるとし、


「純粋で、私欲のない利他主義は…世界の全史を通じてかつて存在したためしがないもの」だが、「私たちは、それを計画的に育成し、教育する方法を論じることさえできるのだ」、


なぜなら「この地上で唯一私たちだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる」のだから、と書いたのである(『利己的な遺伝子』P320〜321)


また下の「余談6」中の『自我の起源』に引用されているように、


「われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教えることを試みてみようではないか」とも書いた(『利己的な遺伝子』P18)。


ウィルソンも血縁淘汰にもとづく「芯の硬い利他主義」は文明の敵といえるしとし(無条件肯定はしていないわけだ)、本質的に利己的ではあるが、文化的に変容可能な「芯の柔らかい」利他主義などを通じて人類の協力を論じている(『人間の本性について』P229)




さきの「私たちだけが…反逆できる」という言葉について、ドーキンズはこれを「限定つきの希望」とした


しかし決して竹内のような独裁制や男だけの浮気の賛美はしなかったのである(牧木悠介も「ドーキンズが利己主義を顕揚(けんよう)しようとしているわけでもないし、それを人間の宿命的なものとも考えていないことは、引用から明らかである」と書いている)。


彼が弱々しく述べた希望の実現が、まさに今後の私たちの課題なのである。



余談6


牧木祐介『自我の起源:愛とエゴイズムの動物社会学』について


から抜粋



この著者の社会生物学の理解はごく一部を除き正確である。


その一部をあげると、30ページに


「われわれが利己的に生まれついている以上、我々は寛大さと利他主義を教えることを試みてみようではないか」


というドーキンズの言葉をあげて、これは包括的適応度最大化によって進化が起こったとする限り、利己的遺伝子が、その乗る個体をあるときは一見利己的にあるときは一見利他的にふるまわせるのであって、個体の利己主義に根拠づけるものではないから、ドーキンズの理論的間違いだと書いているが、ここでドーキンズは血縁者以外を助ける行為、遺伝子の帰結ではなく人間的な意味での真の利他性、すなわち利他主義を問題にしているのであるから、間違いではない。


なおこの本では、人間にはときにまったく包括適応度を増大させないことに一生を費やす個体(子供もつくらずに芸術に献身する人、独身を貫く女性キャリア、そして同性愛者)がいるのはなぜか、また仲間の個体の識別は哺乳類進化のいつの時点で、多分それを基礎としてであろうが、自我意識の形成はいつの時点で、起こったか、など興味ある話題が考察されている。


(ただしはっきりした結論はない。またなぜかこれに近い問題を考察しているアレキサンダーの『ダーウィニズムと人間の諸問題』(思索社)が引用されていない。


なおこのアレキサンダーの本は、人間の問題と言っても、ドーキンズのように社会福祉などを論ずるのでなくて、文化人類学者の言説と対応させて人間の親族システム、インセストの起源、民族国家がなぜ生じたか、倫理の生物学的基礎などを論じたものである)。



30年の時を感じさせる。


でもなぜか今響く。


この書が出ていた頃ドーキンス博士を曲解しての


言説が出回り巷を流布していたことを苦々しく


思っている先生たちが多くいたってのは


他の先生たちの書からも読み取れる。


ドーキンスを知る上でいくつかの示唆も


与えていただき伊藤先生のお考えにも


興味があるものの、ここでもやっぱりダーウィン、


しかも伊藤先生は着眼点や分析が天才だと


褒めておられたことも気になった。


(ちなみにグールドも少しだけ出てくる)


この書は経済学とか生態学を知る


入門書のようなのですが、いつものことながら


見当違いなところに目が行ってしまいつつ


ルイセンコがなんなのかもよくわからないが


伊藤先生のなんとなくキャラクターに惹かれて


って言ってももちろん会ったわけでもなく


読んだり周りの人の書からの雰囲気だけで


掴んだ感覚なのだけど勢いで読ませていただき


生物学と社会を考察というのも


なかなか面白そうだなあと齢50もとっくに


過ぎて思った次第なのでございました。