未来は開かれている―アルテンベルク対談・ホパー・シンポジウム(ウィーン)記録



  • 出版社/メーカー: 思索社

  • 発売日: 1986/11/01

  • メディア: 単行本





本書について から抜粋



本書に収められているテキストは、1983年にセンセーションをまき起こした二つの出来事を、読者の眼前に再現するものである。




科学理論の専門家であり哲学者であるカール・R・ポパーと、医者、動物学者、動物行動学者であるコンラート・ローレンツとが、彼らの学問的な業績、彼らのあげた成果の解釈、彼らの哲学的な所信について議論をたたかわしたのである。


中心になったテーマは、われわれは未来について何を知っているか、われわれは預言者なのか、という事であった。


楽観的悲観論者であるローレンツと、現在の西側世界を《これまでの世界のうちで最も良い世界》と解釈するポパーとは、われわれの世界が生物学的にも精神的にも開かれたままである、つまり、まったく未知である、という点で意見の一致を見たのである。




われわれの世界は真理を実証できる世界ではなく、誤りを反駁(はんばく)できる世界である。


しかし世界は存在するし、真理も存在する。


ただ世界と真理についての確実さは存在し得ない。




●未来は開かれている


コンラート・ローレンツとカール・R・ポパーの炉辺対話




この対話は、ウィーン郊外のアルテンベルクにあるコンラート・ローレンツ家で、1983年2月21日に行われたものであり、フランツ・クロイツァーが司会者として参加した。



生態的地位(ニツチ)ーー見つけたものでなく、発明したもの


から抜粋



クロイツァー▼


ローレンツ先生、先生は先ほどご親切にも、1981年の私との対話の表題、《生命は学習なり》に触れてくださいました。


私はその前後に行われたポパー教授との対話から、どうもこの辺りに対立とまではいかないまでも、とにかく解明を要する意見の相違があるという印象を受けてきました。


ポパー教授が書かれたり話されたりしたものから私が受け取ったものは、どうも私にとっては《生命は教説なり》でした。


つまり、生きるということは、理論や仮説やドグマや教説を世界に移してみて、その妥当性を吟味してみることなのです。


この辺りに本当に対立があるのかどうか、それとも一方の定式化がもう一方の定式化と一致できるか、ないしはその中に解消させることができるのか、その点がこれからの対話ではっきりさせられれば、私にとっては非常にありがたいことなのですが。




ポパー▼


繰り返して言おう。


おそらくダーウィンのいう淘汰によってであろうが、はじめから生命はより良い世界を求めているのだ。


コンラート、君は生態学的地位について話をした。


これもまた私の好きな表現の一つなんだ。


ただある一点でだけ私は君を批判したい。


君は生態学的地位が《占められてしまって》いるというが、そういうと生態学的地位がはじめからあったかのように聞こえるね。


そうではないんだ。


生態学的な地位は生命によって発明されるんだ。




ローレンツ▼


まったくその通り。




ポパー▼


はじめからあったのはなんとでもなるものだ。


しかしそれが生態学的地位となるのは、はじめて生命によってなのだ。


生命は希望し、生命は働くーーあたかもより良い世界を見つける。


つまりより良い地位を見つける希望を持っているかのようにだ。


植物と動物は、新しい地位を見つけるための冒険をおかそうと構えている。


そしてこのイニシアチブを持っているものが、淘汰によってより高い水準に到達する。




ローレンツ▼


その通り。




ポパー▼


イニシアチブや好奇心やファンタジーのない生物は、もうすでに占められている生態学的地位を得ようとして闘わなければならない。


ところがイニシアチブを持っているものは、新しく発明された地位を使える。


おもしろいのは、すでに当初から生態学的な地位は生物によって作られるということだ。


しかし、その点で、ちょっと言っておかなければならない。


私の意見によると、世の中ではあまりに《疎外(エントフレムドウング)》についていろいろのを言いすぎる。


私なら、生命自身が阻害を絶えず求めている、というだろう。


生命は、冒険的な行動に走り、見知らない地位にも入り込むことによって、自分の自然な生態学的地位から絶えず自己疎外を行なっている。


裸の遺伝子が膜を発明したり、私たちがオーバーに身をくるんだりするのは、裸であることに対する疎外対象なんだ。


疎外についてなされているおしゃべりは、危険で笑うべきおしゃべりだとしか思えない。


そこで起きているのは、新しいみしらぬ状況をあえて試みようとし、それを探している生命の冒険なのだ。


これだけでより高く進化することの全部が説明できるといわけではないが、決定的な役割を演じているのがlこれなのだ。




クロイツァー▼


ローレンツ先生、先生はこう言われたことがありますね、ベン・アキバの「すべてのものは存在していた」という言葉ほど馬鹿げたものはない、と。




ローレンツ▼


そうだ。


私なら「何一つとしてすでに存在していたものはない」と言うね。




ポパー▼


そのとおりだよ。




ローレンツ▼


君のおかげで今えらいことを考えついてしまった。


つまり、適応の水準を超えて危険をおかして何かを試みるものは、それに成功すると一段高いものになる、という考えだ。


これは私にとっては本当に新しい考えだ。


この対話から持ち帰れるおみやげで非常に重要だと思われる。




だから君の意見に賛成で、もちろんどんな生物も自分の生態学的地位を作り出す、それもまた他のあらゆるものたちの間にだ。


それに君の言ったこと、喜んで危険をおかすものが、その後一段階上に到達するというのは、まったく私の感じと一致している。


つまり、生物は何か新しいことを発明し、危険を省みずに何かを敢行しないではいられない、それも高く抜きん出ようと望めば望むほど、それだけ余計に危険をおかさなければならない。




ポパー▼


それでさっき《確実》というのに抗議したのだ。




ローレンツ▼


まったく当然のことだった。



”生態学地位”ってのが聞き慣れないからか、


いまいち分かりにくいのですが


というか、この対談自体、高次すぎてほぼ


わかってないのだけどなんとなくわかる範囲だと、


リスクをおかすと見えてくるものがある


というような、岡本太郎先生の言説にも


似ているように聞こえる。


のだけれども、早朝起床で仕事しているから


実存とか哲学的な命題はかなり酷でして


瞼が重くて仕方がなくかつ寒くて空腹という


三重苦に苛まれているのですが


能登半島の人たちに比べれば、なんのその


という気にもなりかつ、阪神淡路大震災から29年か、


と時の流れの速さにも驚愕している


冬の1日なのでございました。