今西錦司 生物レベルでの思考 (STANDARD BOOKS)



  • 作者: 錦司, 今西

  • 出版社/メーカー: 平凡社

  • 発売日: 2019/02/15

  • メディア: 単行本




比較的最近出版されたシリーズで

なぜか書店でよく見かける。


もしやコロナでプロモーションが


遅れての今なのか、なんてのは


言いたいだけのどうでもいいことでした。


宗教について から抜粋



こんど、大本教関係の人類愛善会に招かれて、「アジアの平和を求めてーーー宗教・文化の視点から」というシンポジウムに出席し、その席上で多少なりとも私の宗教に関する見解を述べる機会を与えられたので、その時の発言をメモを残しておこうと思い、あえて筆をとったしだいである。




シンポジウムのテーマである平和を、人類の一員として、希求しないものはないであろう。


しかしそれは、人類だけが望んでいるのだろうか。


そこで私は、生物の世界は種(私が種という場合は、種社会を指している)と種の間の棲み分けをとおして、一応の構造なり秩序なりが出来上がっているから、そのには原則として無駄なあらそいは生じない。


したがって生物の世界は平和そのもののように見えると、私の得意とする自然観をまず述べておいて、ではどうして人類社会だけは、あらそいがたえないのであろうかと自問する。




それに対する答えとして、もう一度生物の世界との対比を試みる。


生物の世界の発展は、それを構成する種の分化による。


そして種の分化は棲み分けをとおして行われるのであるが、これをもう一つ低いレベルでとらえるならば、これは種を構成しているそれぞれの個体のアイデンティティ(帰属性)の問題に帰することができるであろう。


人類といえども、この生物の世界を支配する大方針にもとることなく、分化していって当然とおもわれるが、ただ人類の場合には、棲み分けの結果として、身体の文化に先きだって文化の分化が生じた。


あるいはこれを文化の分化が身体の分化を代行したといってもよい。




したがって人類は生物学上の分類にしたがうならば、その全体がホモ・サピエンスという一つの種に属し、それ以上の分化をしていないことになるけれども、文化に着眼するならば、言語・生活様式その他さまざまな文化が、この地上を棲み分け、それとともにこの文化のちがいに応じた各人のアインデンティティのちがいを、みるようになった。




ここに述べたことは重要であるから、言葉をかえてもう一度繰り返すと、生物は一つの種ごとに一つのアイデンティティを共有した個体のまとまりをもつ。


しかるに人類では、同じ文化を共有するところに、アイデンティティを同じうした個体のまとまりをみる。


この点を生物と人類との違いとみることもできるが、また生物と人類とにみられる類似した自然現象とみなることもできる。


いずれにしても、地球上にさまざまな文化と、それにともなう異なったアイデンティティを持った人類が分布しているとか、それにもかかわらず生物学的には、これらの人類すべて同一の種に属しているとかいうことを、人類自身が知るようになるのは、人類の歴史からみたらごく新しいことで、それからまだ3、4世紀しかたっていない。




いまは国家の時代であるとよくいわれる。


確かに二百いくつかある国家が、この地球上をきれいに棲み分けている。


そしてそのそれぞれの国家が、国民に対して国家をアイデンティティの対象にすることを、要求しているかのようである。


しかし、このいわゆる国民国家も決して古くからあったものではない。


比較的古いものもないとはいわないが、発展途上国の多くは、第二次大戦以後に誕生したものばかりである。


それにしてもよくここまで、というのは国民国家の棲み分けというところまで、来たものだ。




ここで生物の世界における棲み分けということについて、もうひと言つけ加えておきたい。


棲みわけというと、よく種と種との対立ばかりを取りあげる人があるけれども、それでは棲み分けの一面だけしか見ていないことになるのであって、棲み分けには、あるいは棲み分けた種と種のあいだには、たしかに対立がある。


対立をとおしてそれぞれがその主体性を守っているのであるけれども、それと同時に棲み分けた種と種とは、相補いあっていることを忘れてはならない。


対立だけではばらばらになってしまうところを、補いあうことによって、どちらもがより大きな構造の一部として、役立つことができるのである。


より大きな構造というのは、種を構成単位として成り立っている生物全体社会のことだ、と考えてもらってもよいし、あるいはこの全体社会のなかの部分社会として、系統的によく似た種が棲み分けをとおして連なった、私のいう同位社会を考えてもらってもよい。


またここで補いあい、コムプレメンタリーといったことを、相互連帯というように解してもらってもよい。




すると人類が、過去の長いあいだ、文化のちがいをとおして棲み分けていたときも、近年になって国家の違いをとおして棲み分けるようになってからのちも、生物社会学的にみれば、これを一種の同位社会と見なせないこともない。


そこでいよいよ問題は、ここまできたら今一歩進めて、この同位社会の構成要素である一つ一つの国家を、打って一丸とし、そこに一体化した世界国家としても出現をみるようになったときが、将来果たして来るであろうか、ということである。


それとも国家は棲み分けをとおしてその主体性ーーこの場合は国家主権といってもよいーーを維持しながらも、一方では今あるような国連(国際連合)をとおして、その連帯性を深めてゆくのであろうか。


もし一体化したならば、そのときはじめて人類も他の生物並みに、一種一社会ということになるのであるが、そのためにはこの社会を一体化するに足る共通地盤としての、何か新しい共通文化がなくてはならないのではないか。


言語も宗教もいまのようにちがったままで、一体化するといっても、それでは無理なのではなかろうか。




いまから10年ほど前の私は、この人類統一の共通地盤として、自然科学にかなりの期待を寄せていた。


なんとなれば、科学は普遍妥当性を標榜し、それゆえ国境を超えて世界中に浸透する可能性があるからである。


科学こそは万人共通財産になりうると、考えたからである。


しかし、10年後の現在の私は、科学にそのような大きな期待を寄せていない。


むしろ、科学に失望している、といってもよい。


失望の理由はだいたい二つある。




一つは、今日の科学が、あるいはその科学によって支えられた技術が、物質をコントロールするうえに示した驚異的な進歩と、それによってわれわれが受けているさまざまな恩恵のまえに、眼をつぶるものではないけれども、その結果として生まれた今日の科学文明は、物質文明と言われるように物質偏重の文明であり、物慾に溺れた文明である


そして、科学による人類の一体化が仮になんらかの形でできたとしても、科学そのものはこの餓鬼道におち入った人類を、救う手だてを持ち合わしていない、ということである。




もう一つは、いささか私的な理由になるけれども、私がつづけてきた進化論の研究と関係がある。




進化論というのはもともと生物が素材となっており、生物はまた物質を素材として成立しているものにはちがいないけれども、生物そのものはどこまでも生物であって、単なる物質ではない。


ということは、生物ともなれば、もはや物理学をモデルとした今日の自然科学では、始末し切れないところがのこるということである。


たとえば、進化ということは、自然科学の枠内ではどうしてもその全体をとらえることができない。


したがって進化論というのは、科学の手続きをふんだうえで導きだされた帰結ではない


生物学が自然科学の中に入れられているため、進化論も科学の産物と思いこんでいる人が少なくないけれども、進化論というのはしいて科学という字をつけたいならば、科学思想の一つであるといったらよいであろう。




ところで思想ということになると、これはある時代にある社会がおかれていた情況と、無関係に現れてくるものとは考えられない。


そのよい例がダーウィンの進化論である。




私もダーウィンの進化論を理解するのに苦労したが、けっきょくダーウィンは18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパ社会、すなわち資本主義の勃興しつつあった社会に生きていたからこそ、ああいう進化論になってしまったのだ、と考えないわけにはゆかない。


そしてその進化論を、ダーウィンを生みかつ育てた社会が歓迎したというのなら、話はわかる。


しかしそれを、遠く海をへだてて、歴史も伝統異なったわが国においてまで、ありがたがらねばならないもののようにしてありがたがったとすれば、ちょっとおかしいではないか。


まだ人類の社会は、そこまで一体化してはおらないはずである。




よく私をダーウィン進化論の反対者のようにいう人があるけれども、私は反対しているのではない。


彼の進化論が私の体質に合わないから、私の体質に合う進化論を作り出そうとして見たにすぎないのである。




科学は、人類を一体化する共通地盤としては、理想的なものではない。



なので、”宗教”というのが必要だが、


いまのものは違うだろうと今西先生。


ものすごい短縮するとそうなる。



ついでにもう一つ、宗教にかんする私の見解をつけ加えておきたい。


それはもともと宗教の対象とするところは個人であり、個人を精神的な苦しみから救うことを、目的としていたのでなかったか、ということである。


そしてこの点で、宗教は個人を肉体的な苦しみから救うことを目的とした医術と、相通ずるところがあった。


もともと個人を対象とし、個人をコントロールすることをたてまえとした宗教に、はたしてどこまで社会をコントロールする力があるのだろうか。


先にも入ったように、今は国家の棲み分けの時代である。


平和も人権も、国家の手中に握られている、といえないことはない。


核爆弾は個人の所有物でなくて国家の所有物である。


軍隊も警察も国家に所属している。




この強力な国家というものを、個人を対象とし、個人を味方にもった宗教に、果たしてコントロールするだけの力があるであろうか。


宗教にそれだけの力がなければ、ほかのものでもよい。


要するに国家がコントロールできないかぎり、人類の一体化も、平和も、人権もお預けである。


ひとびとはもはや宗教のために血を流さないかもしれないが、国家のためだったら今でも血を流さねばならないのではないか。


それは人々のアイデンティティの濃さの問題である。


世界人類にたいするアイデンティティよりも、国家にたいするアイデンティティのほうが、はるかに濃いという現状認識から、遊離してはいけない。




いったい国家とはなんであるのか


社会科学の一分科に国家学というのがあるらしいけれども、分析を唯一の研究方法と信じている科学にとっては、国家のように図体が大きく、多面性をもちながらしかも全体として機能しているものを、正確にとらえる途が閉ざされているのである。


そしてここにも10年前の私は、まだ科学を過信して、その限界をはっきり見きわめていなかったといえよう。


国家ばかりでなくて、国家をその中に包み込んでいる自然になると、いっそうそのスケールが大きくなり、いっそうその全体把握が困難になる。


自然などというものは、たれにも解っているようで、じつはたれにも解っていないのかもしれない


少なくとも今日の科学の枠外に、超然として存在しているものなのであろう。




それにもかかわらず、解ったような顔をして、やれ自然保護だ、やれ環境破壊だ、やれ生態系の危機だ、と叫びまわっている人のなんと多いことか


これらは公害問題に端を発して、それにつづく連鎖反応として拡がったものと思うけれども、注意しておきたいのは、先に述べた進化論と同じように、どれ一つとして、科学の手続きをふんだうえで導きだされた帰結ではない、ということである。




だいいち水俣病やイタイイタイ病にしたって、その原因が解明されたようであり、まだ解明されていないようでもある。


ではこういうことを叫ぶのはどうしてであろうか。


私は進化論にたいしては、これは科学思想といっても良いといったけれども、今日の環境保全運動などは、危機感を刺戟されることによって起こった、一種の群集心理現象と見なしてもよいとおもっている。



宗教戦争のような


根深い争いがある現状


隔世の感あるところもあるが


今読んでもなかなか”刺戟的”ですな。


刺”激”じゃないよ、刺”戟”です。


どちらでもいいけれど。



私がダーウィンの進化論にあきたらない理由の一つは、適者が生き残り、栄え、不適者は滅びるといった彼の考えにある。


これを裏がえして生きのこったらよいのだ、勝てば官軍だ、というように解している人が、いかに多いことか。


そういった価値観のはいる、あるいははいる恐れのある進化論を、一切排除して、あるがままの自然に立脚した結果、私の「変わるべくして変わる」という進化論が、生まれてきたのである。


生物の世界のみならず、人間の世界もまた長い眼でこれを見れば、あらゆる価値観や議論を超え、変わるべくして変わっているのではないだろうか。




しかし、あらゆるものが変わるべくして変わるというのは、どこまでも現象に即したものの見方である。


いいかえたならばわれわれの世界には、絶対不変なもの、永劫不滅なものはない、という見方になってしまう。


世界観として、それでもよいのかもしれない。


しかしまた、世界観としてそれでは物足りない、あるいは十全でない、というひともいるかもしれない。


私もいまは進化論を超えて、そういった見方に近づきつつある。


つまり、平和と戦争、善悪などといった一切の相対的対立の彼方に、死生さえも乗り越えた彼方に、やはり絶対不変、永劫不変な、絶対なるものを想定しないかぎり、そのひとの抱く世界観は片端の世界観であると思う。




この絶対なるものは、ただ絶対であるというだけで、われわれの日常生活には、まったくなんの関係も持たない、ひたすらに宏大無辺なものであるかのようである。


絶対なるものはどこまでも絶対なるものとして、これを下手に相対化したり、あるいはしいてわれわれとの関係をつくりあげたりしないところに、その値打ちがあるのでなかろうか


(1981年79歳)



このほかも大層興味深い随筆だらけ。


今西先生をあまり知らない自分でも


平素でとっつきやすい。


しかも文末に年代と年齢が出ててありがたい。


最後にはガイドブックもまとめてある。


初心者にはうってつけの良書であることに


疑う余地はございません。


他の執筆者さんにも必然的に


興味がいくよ、これは。


ちと残念なのは二点、


ハードカバーなのと高いお値段。


今西先生に話を戻すと


人物を知るには肉声も参考になる。


NHKにもアーカイブされていた。


最後に別の書から、今西先生を窺い知れる


逸話というかなんというか。





地球観光旅行―博物学の世紀 (角川選書)



  • 作者: 荒俣 宏

  • 出版社/メーカー: 角川書店

  • 発売日: 1993/11/10

  • メディア: 単行本




あとがきから抜粋


博物学探究は<険(おか)す>ことにあり




日本最後の博物学精神の実践者であった今西錦司さんが、1992年亡くなった。


そんな今西さんの思い出話を、京大の後輩で登山と冒険の達人、またKJ法の開発者としても知られる川喜田二郎さんにうかがったことがある。


そのとき、たいへんに興味深かったのは、次のようなお話であったーーー。




今西さんをドンとした京大のフィールドワーカーたちは、じつによく探険を敢行する。


近代日本の学術探険は、まさに今西=京大グループに支えられた一時期があったのだが、今西さんも川喜田さんも<探検>という最近優勢の表記法を好まなかった。


タンケンは、探して険(おか)す、つまり冒険を実行してはじめておもしろいフィールドワークができる。


これはひとつの生死をかけた冒険なのだ。


その点、探して検(しら)べる、という表記は、実験室の学者然として、きらいだ、というのが理由である。




この伝で、今西さんも川喜田さんも、地球の科学調査を提唱した<地球観測年>という用語にも、反対した。


観測などという事務的なひびきのある用語をもちだす学者の気が知れない。


これはどうあっても<地球探険年>でなければならない、と。




そこで本書も、タンケンということばに敢えて探険の字を充ててある。


ほかでもない、本書に登場する博物学者のいとなみの多くが、今西=川喜田のいう<探険>にふさわしいと思えたからである。



ってことで、なんとなくどういう書なのか


読まなくても想像ついてしまう方は


かなり進化論をご存知の方でございます。


自分はそこまでではないのだけど


ここ半年で読んできた書籍にあった名が


チラチラ見える程度なので


もう少し追求してからの方が


より深く理解できそうなので


しばし温めておこう、って


それでいいんかい!と思うのは


本が山となって連なっております本日


熱中症の危険をついぞかわしながら


近くのブックオフ&古書店にて


まさに冒険しての古書7冊、


図書館から3冊の入手でございます。


って思う理由になってねーよ。