未来は開かれている―アルテンベルク対談・ホパー・シンポジウム(ウィーン)記録



  • 出版社/メーカー: 思索社

  • 発売日: 1986/11/01

  • メディア: 単行本




第2日ーー三つの世界


人間は嘘をつけるが、動物は嘘をつけない


から抜粋



ポパー▼


私の問題点は、何よりも人間の言葉と動物の言葉との違いということです。


私にはこれが本当に中心問題であると思われます。


言語学者はみんな、あるいはみんなでなくても大部分、私の師、カール・ピューラーを本当には理解しなかったし、本当には徹底的に読まないできました。


彼らはピューラーの説がどんなに重要であるか気づかずにきてしまったのです。


もし私が今何らかの言葉で締めくくりをしなければならないなら、私はこういうふうに締めくくります。


ピューラーは言語学、音楽学、芸術学にとって決定的な意味のあることを言ったのだ、と。




ピューラーは、すべての動物がーー私をも含めてですーーとにかく表現をするということに注意を向けてくれました。


ブーブー鳴いている豚は、それで内部の状態を表現します。


動物はこのように自己表現をし、その表現はある程度まで言葉とみなすことができるのです。


これが、ピューラーによりますと、言葉の最低の水準であり、話がされる時にはいつでも一定の役割を演じるものなのですが、人間の水準にはまだ達していないものです。




その次に、第二の水準があります。


この第二の水準は、ピューラーが言語の解発機能(Auslosefunktion)と呼んでいるものです。


これは例えば、私が今こうして話をすればーーまあ私はそう望んでいるのですがーーそれが私の聴衆であるあなた方の中に何かを解発する、つまりそれがあなたがたに刺激を与えて、私の言っていることに反応させる、ということを意味しています。




これが解発機能ないしはコミュニケーション機能で、動物の場合にも大きな役割を演じています。


この場合、動物で最も重要なのが、警告の叫び声ないしは警告のサインです。


それから、異性の相手をひきつける誘いかけの呼び声も重要です。


これが第二の水準であり、あらゆる動物の場合に生じるものであって、生物の間でのコミュニケーションを意味します。


コンラート・ローレンツは、人間ではこの機能が動物の場合よりもずっと発達していると強調しますが、まさにその通りだろうと思います。




以上のようなことで我々には二つの比較的低い水準のものがありますが、それが表現機能とコミュニケーション機能なのです。


ほとんどすべての言語理論家はこの表現機能だけか、あるいは表現機能とコミュニケーション機能だけを理解し、人間の言葉について、それがあたかもただ表現とコミュニケーションだけであるかのように語っています。


しかし、人間の言葉の本来的で重要で革命的な点は、それが表現機能とコミュニケーション機能を決定的に超えて、抽出機能となっているところなのです。




人間の言葉は、例えば数千年も前に起きたものごとを描写することができます。


それは今日、ユーリウス・シーザーの殺害のことを語ることができますし、また逆に、おそらく一年後、ないしは数百年後、ないしはまた数千年後に起こるかもしれないものごとを描写することもできます。


例えば、氷河系の中にある星雲の爆発です。


人間の言葉はまた数学のように全く抽象的なものごとを描写することもできます。




一言でいえば、それは単に警告や誘いの呼び声に限られていて、その瞬間に役立つのではなく、その表現の仕方において話の瞬間に長くしばられていないのです。


そしてそれは何よりも理論をたてることができます。


そしてそれは理論を立ててしまうと、その理論批判することができるのです。




この決定的な人間的状況というものは、カール・ピューラーがそれを1918年に、短い論文の中で非常に明瞭に表現した(批判の機能だけは別です)にもかかわらず、一般に言語学者によって無視されてきました。


私はしかし、こうしたものごとを言葉で表現するという可能性、それが人間の文化の基礎であると思われるのです。


ごく手短にいえばこうも言えます。


人間はその言葉で、少なくともある仕方では嘘をつくことができるが、どう動物にはそれができない、と。




それをもっと精密に分析するとどうなるかーーそれについてはいろいろたくさんのことが言えます。


もちろん動物もある意味では嘘をつけますが、人間は本当のことばかりでなく、偽りのことも言うことができるのです。


そしてこの偽りの事というのは普通全く嘘ではなく、思い違いなのです。



ポパーによるあとがき(1984年12月)から抜粋



完全な社会秩序はありえない、ということがはっきり分かったとき、私はある青年運動のメンバーだった。


私は16歳を越えたところで、全然組織だてられたものではない一つの青少年グループに属していた。




しかしこのグループの中にさえ、そう重大なものではなかったが、やはり緊張があり、起こってはならないはずの仲違いがあった。


このグループでさえも不完全な社会だったのである。




暴力や脅迫で人々を取りまとめておくという試みが、今日まで繰り返して行われてきた。


地獄に落ちるぞと脅迫するのも、そうした試みの一つであった。


もっと現代的なものとしては色々なテロの方式がある。




政治権力についても一言ふれておきたい。


プラトンは問題をこのように定式化している。


誰が支配するべきであるか。


少数者がか多数者がか。


答えの方はこうである。


最善の人が支配すべきである!


ムッソリーニかヒトラーが答えたとしても、これと同じことを言ったであろう。


問題は本質的には全然変わらないままだった。


マルクスもまったく同じ問いを出している。


「誰が支配すべきか。資本家がか労働者がか。」




しかし、「誰が支配すべきか」という問いは、問いとしての立て方が悪いのである。


私は別の問いをするように提案した。


つまり、こういう問い方に変えるのである。


悪い支配者でもあまりに大きな害悪をひき起こすことができないようにするには、どのように国家と政府を組織だてたら良いのであろうか。


この問いに対する答えが、血を流すことなしに我々の手で政府を解任できる民主主義なのである。




私は以上のすべての点を次のような言葉にまとめたい。


我々の西側民主主義国は、これまで歴史に存在したうちで、最も公正な社会秩序である。


そして、それは最も良い社会秩序である。


なぜかというと、それが最も改革を喜ぶ、最も自己批判的な社会形式だからなのである。




戦争と原子爆弾に関して言えば、原子爆弾も悪くないことを作り出しているのである。


人類の歴史においてはじめて、誰一人としてもう戦争を望まなくなったからである。


西側でもロシアでもそうなのだ。


(ロシアの指導者たちは、われわれが勇気を失い、戦争をしないで引き下がることを望んでいるのである。)


われわれが今にしてようやく全員をあげて戦争に反対しているということは、なんといっても重要な事実である。


しかし、戦争の阻止は非常に大切な問題であって、あとがきの中で議論することはできない。




民主主義の国家は、その国民より良いものではありえない。


したがってわれわれは、開かれた社会の大きな価値ーー自由、相互扶助、真理の探求、知的な責任、寛容などーーが、将来も価値として認められることを望んでいかなければならない。


そのためにわれわれは最善の努力をしなければならないのである。



訳者あとがき から抜粋



共に80歳を越えた両学者が、辿ってきた長い道のりを振り返りながら、そこで行われてきた複雑な考察に、反省的な首尾一貫性を与えようとつとめ、学問とその批判、進化と認識、社会と倫理を中心に、率直極まりない論旨を繰りひろげており、そこには二人の著作を通じた場合とはかなり異なった形で、思想と人柄がよく浮き彫りにされているといえよう。


進化の延長線上に私たちの認識をおく点ではポパーもローレンツも変わりはないが、それでも二人の対談にはいくつかの小さな対決が見られ、すり合わせの努力も行われている。




ローレンツの場合もポパーの場合も、思想の一貫性を打ち立てようとする意欲が、若い人々に語りかけようとする欲求と表裏一体をなしていることは注意しておかなければならない。


この点はアルテンベルクの対談、ウィーンのシンポジウム両者を通じて言えることであり、まさにそれゆえ本書の題名が「未来は開かれている」とされているのである。


この《未来》には生物学的未来と社会制度上の未来が同時に含まれているが、《開かれている》という表題は、もっぱら未知であり未定であることを意味しており、未来には望洋たる未来があるばかりではなく、その未来は私たち人類の考え方生き方によってまったく未来のないものになってしまうかもしれない、という強い警告ともなっているのである。



なかなか手強い、”世界”というか”歴史”というか。


ロシアはこの後、ソ連になり


またロシアに戻り、戦争をしている。


それ含め世界は今二つの戦争が起こっている。


”戦争”と呼んでいいのか、の議論もあろうが


一旦それは置いといて、ポパー先生の言葉には


初めて触れたのだけど、さすがに深いものがあり


しかし、戦争をしている今の


世の中をなんというだろうという


これまたいつものように詮無い戯言のような


しかし看過できないという世界情勢であったり。


すでに分子レベルになっておられるから


なにも言いようがないだろうけれども。


養老先生や中村桂子先生を読んでいるから


または「杜人」という映画を観たから


というわけでもないだろうが世界や文明を


考えてからの”自然”や”生きもの”とか


深く考えてしまった雨の日曜休日の


午後なのでありました。