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ドーキンス博士の稀代の名著を読み始めたの記 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

利己的な遺伝子: 増補改題『生物=生存機械論』 (科学選書 9)利己的な遺伝子: 増補改題『生物=生存機械論』 (科学選書 9)


  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 1991/02/28
  • メディア: 単行本

ついにこの時が来ましたです。


この書を読み始めたのでございます。


前提知識がついたから読みやすいとはいえ


やはり難しいのだけれど


なぜ今読んでいるかというと2つ理由があり


Spotifyで解説しているポッドキャストがひとつ


そしてもうひとつ強力なのが


本日NHKで小網代(こあじろ)の魅力を伝える


昼の番組に岸由二先生が出ておられたからで。


まったくの偶然で思わず録画。


しかし、岸先生を観て、一体何人がドーキンスを


連想しただろうかと勝手に嘆きつつも


そんないわれは番組制作者も視聴者も


まして岸先生ご自身もないぜよと思ったりも


したけれど読み始めのきっかけになったのは


良かったと。


1976年版へのまえがき


から抜粋


この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい

イマジネーションに訴えるように書かれているからである。

けれどこの本は、サイエンス・フィクションではない。

それは科学である

いささか陳腐かもしれないが、「小説よりも奇なり」という言葉は、私が真実について感じていることをまさに正確に表現している。

われわれは生存機械ーーー遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。

この真実に私は今なおただ驚きつづけている。

私は何年も前からこのことを知っていたが、到底それに完全に慣れてしまえそうにない。

私の願いの一つは、他の人たちをなんとかして驚かせてみることである。


私は行動生物学者(エソロジスト)であり、これは動物の行動についての本である。

私は自分がトレーニングを受けてきたエソロジーの伝統に、明らかに多くを負うている。

とくに、ニコ・ティンバーゲンは、私がオックスフォードの彼のもとで研究していた12年間に、私にどれほどの影響を与えたか、きっとわかっていないに違いない。


「生存機械」という言葉も、実際には彼の造語ではないにせよ、おそらくそれに近い。

けれどエソロジーは最近、常識的にはエソロジーに関わりがあるとはみなされていないところから来た新鮮なアイディアの侵入によって活気づけられてきた。

この本は大幅にこのような新しいアイディアを基盤として出来上がっている。


想像上の読者たちは敬虔な期待と願望の目標とはなってくれるかもしれないが、現実の読者や批評家ほどの実際の役には立たない。

私にはどうも改定癖があって、メリアン・ドーキンスが毎ページ、毎ページの数限りない書き直しを読まされる羽目になった。

生物学の文献に関する彼女の莫大な知識、理論的な論争についての彼女の理解、そして彼女の絶えざる激励と精神的支持は、私にとってこの上なく大切なものであった。


1989年版へのまえがき


から抜粋


利己的遺伝子説はダーウィンの説である。

それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやり方で表現したものであるが、その妥当性をダーウィンは直ちに認め、大喜びしただろうと私は思いたい。

事実それは、オーソドックスなネオ・ダーウィニズムの論理的な発展であり、ただ目新しいイメージで表現されているだけなのだ。

個々の個体に焦点を合わせるのでなく、自然の遺伝子瞰図的見方をとっているのである。

『延長された表現型(The Extended Phenotype)』の初めの数ページで、私はこれをネッカーキューブの例えを使って説明した


今私はこのたとえがあまりにも慎重すぎたと思っている

科学者ができる最も重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合が多い。

ネッカーキューブの例えは、誤解を招く。

なぜならそれは、二つの見方が同じように妥当だと思わせるからである。

確かにこの例えは、部分的には正しい。

「見方」というものは、学説と同様、実験によって判断できるものではない。

検証とか反証とかいう、我々がよく知っている判断基準に訴えかけることはできない。

けれど見方の転換は、うまくいけば、学説よりずっと高遠なものを成し遂げることができる。

それは思考全体の中で先導的な役割を果たし、そこで多くの刺激的かつ検証可能な説が生まれ、それまで思ってもみなかった事実が明るみに出てくる。

ネッカーキューブの例えは、このことを完全に見逃している。

それは見方の転換というアイディアは表現しているが、その価値を正当に評価することができていない。

今ここでわれわれが語っているのは、もう一つの等価な見方への転換ではなくて、極端にいうなら、一つの変容(transfiguration)についてなのだ。


私は自分のささやかな貢献がそのように位置付けされることを、できるだけ早く放棄したいと思っている。

とはいえ、この類いの理由から、私は科学とその「普及」とを明確に分離しない方が良いと思っている。

これまでは専門的な文献の中にしか出てこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、難しい仕事である。

それには洞察にあふれた新しい言葉のひねりとか、啓示に富んだ例えを必要とする。

もし、言葉やたとえの新奇さを十分に追求するならば、ついには新しい見方に到達するだろう。

そして、新しい見方というものは、私が今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりうる。

アインシュタインはけっしてつまらない普及家ではなかった。

そして、私は、しばしば、彼の生き生きしたたとえは、後の人々を助けたという以上のものであったのではないかと、思ったことがある。

それは彼の独創的な天才を燃え立たせもしたのではなかろうか?


改訂した際に、12章と13章をまったく新たに


付け加えたと記され


13章にはこんなことが書かれている。


13章 遺伝子の長い腕


から抜粋


本書のいくつかの章では、実際に生物個体を、そのすべての遺伝子を未来の世代に最大限の成功度で伝えようと努める一つの担い手と考えてきた。

われわれは、動物の個体がさまざまな行動方針について、複雑な経済学的”擬似”計算をするかのごとく想定してきた。

しかし別の章では、根本的な理由づけは遺伝子の観点から提供された。

遺伝子の目で見た生物観なしには、生物がなぜ、たとえば、自らの長生きよりも、自らやその血縁者の繁殖成功度に「心を配る」必要があるのか、特別な理由がなくなってしまう。


この二通りの生物の見方のパラドックスを、どのようにして解消すればよいのだろうか。

それに関する私自身の試みは『延長された表現型』にくわしく書かれている。

この本は、私の学者としての生涯において達成した他のいかなる事柄よりも誇らしく、喜ばしいものである。

この章は、その本の二、三のテーマの簡単なエッセンスであるが、本当はほとんど、今すぐ読むのをやめて『延長された表現型』に切り替えなさいと言いたいくらいなのだ。


そこまで言われちゃあ、合わせて


読みたくなるでしょう、普通は!


一回ざっと読んだのを思い出したけれど


難解すぎて本文を覚えてない…。


日高先生の解説しか思い出せない。


さらに『ブラインド・ウォッチメーカー』と


ドーキンス博士初期の3冊セットで


読んでみたいと強く思ったのでございますが


財力と時間がないし、古書店にも


ドーキンス博士はほぼ見かけないのだよなあ。


それは置いといて、ひとまずここまでの


感想ですが、凄まじく文章に惹きつけられるのは


比喩が深く幅広く表現力が光り輝いているよう


感じるからで、天才なのだろうなあこれはって


そこは自分が言わなくてもみんな知ってるよ!


じゃなんなのよ、と問われれば深淵なる知性に


恐れおののき読んでてぶるぶるするわー、


でもローレンツ博士の『攻撃』への


反論の余地って?書いてはあるけども


と思っております夜勤明けなのでございました。


 


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